おはよう、はじまるよ
とりあえず、鞄がなければ学校で困る。
彼の通う私立高校は鞄も指定品だ。値段もそこそこなので、予備など持っているはずもない。
夏休み直前で荷物が多くないとはいえ、教師の目に付けば多少の説教は免れられないだろう。
リビングに戻り、平静を装いつつ先ほど受け取ったご飯に手を付ける。
味噌汁のお椀をもってきた母が、それを置いてから向かいの椅子に座り、話を続けた。
「そういえば3人とも違う学校の制服だけど、どこで出会った人なの?」
「えー…っと…」
もちろん「土砂降りの中、化け物と戦ってるところで偶然出会ったんです!」なんて言えるわけもない。
「あー…中学の時の同級生なんだ。久しぶりに遊ぶことになって、ちょっとはしゃいじゃったんだよ」
と、一番最もらしい説明をした。中学校の卒業アルバムは自分の部屋の中だ、すぐには気付かれまい。
「そうなの?…にしても、あんたに女の子の友達がいるなんてねぇ…?」
「うぐ…」
真正面から否定できないのが物悲しい。中学の時から女っ気もなく野球に打ち込み、たまの休みに遊ぶのももちろん男友達だったのだから、母に驚かれるのは至極最もなのだが。
副菜のきゅうりのぬか漬けを口に放り込み、その場を誤魔化す。
「まああんたがどんな子と仲良くしても気にしないけどね。高校生の夏休み楽しみなさい。」
こういう母のはっちゃけた所は嫌いではない。思春期の自分にとっては窮屈な思いがしないので有難い。
「でも、ゴムはちゃんとつけるのよ。」
ただし、一言余計だった。
あいつら彼女じゃねーよばーかばーかと罵りつつ、できるだけ早く夕飯を済ませ、自室に戻る。
普段から下ネタを親とは思えないほど大量に投入してくる母親だが、今日の精神状態ではさすがに堪えた。
愚痴でも友人に言ってやろうと携帯を開き、それが既に活動を終えていることを思い出す。彼女を作るよりも先にやらなければならないことが山積みのようだ。
まず、鞄の回収。
次に携帯の修理。
携帯電話の修理ならば店に行けば(直るかどうかは置いといて)なんとかしてくれるだろうが、鞄は自分で探さなければならない。
あの少年達が持ってくるのを忘れただけなら、森林公園の管理局にでも届いていそうなものだが、自転車の籠にはいっていたものだ、恐らく意図的に持っていったのだろう。
ひとまず頭の中で明日やらねばいけない事を決める。
学校には、いつもより早く向かうことにした。
終業式なので早く行っても特にすることはないのだが、生徒指導の教師が待機している所で鞄に気付かれるのは避けたかった。
今日は中学の時に使っていたメーカー製のスクールバックをとりあえず持っていくことにした。
標準的なサイズに、一般的なカラー、構造も普通で、目立ちようのないものだ。高校のものは、色合いこそ似ているものの、Yシャツにあったものと同じく筆記体風のKの字が端に刺繍されている。
とりあえず、これでなんとかするしかない。
テスト明けの数日ですっかり夜更しの癖を付けてしまった体を宥めつつ、早めに眠りについた。
翌朝6時。
携帯のアラームを使うようになってから殆どその役目を果たしてなかった目覚まし時計が、何ヶ月か振りに朝を告げた。
止めるのに5秒、体を起こすのに5秒。運動部で朝練に耐えた体のおかげで、寝起きは悪くないのだ。
とりあえず、昨日風呂に入りそびれたので風呂場に向かう。そのための6時起きだ。ちなみに普段は7時。
頭を洗って体を洗って顔をあらって、ざっと15分。
リビングへ向かうと、パジャマ姿でお湯を沸かしていた母が息子の珍しい早起きに驚いた。
今日はいつもより早く学校へ行く、と告げると、昨日聞いてないだの、先に行っとけだの、用意してないから大したものは作れないだの言いながらもおにぎり3つと昨日の残りの味噌汁をしっかりと出してくれた。
朝食を頬張りながらテレビを付けると、いつもの朝のニュースをやっていた。
内容は普通。先週起きた事件の行方がどうとか、国会がどうとか。その中に、昨日の森林公園でのことについてはなにもなかった。
あんなに激しい落雷(まあ一発は自分のせいだが)があったら、停電など何か起きていてもおかしくないはずだが。
テレビをみながらのんびりと朝食を食べて現在時刻は6時50分。
食器を下げて洗面所へ。歯を磨いてひどい寝癖はないか確認して、55分。
部屋に鞄を取りに戻って、リビングへと一度顔を出し、「行ってきます。」と一言。母は最近ハマッっている黒酢ドリンクを片手に手を振り返した。
ローファーを掃いて家を出たのはジャスト7時だ。
自転車はいつもの場所に、鍵はついたまま置かれていた。おかしなところもない。
なんの異常も見当たらないまま、30分で学校に到着した。
昨日のように森林公園を通ったが、朝は管理局の職員が来ているか不安だったので、訪ねるのはやめておいた。
口煩い体育教員は家が近いこともあってか、教師陣の中でも来るのが遅い方だ。
テストも終わった今では早く来る生徒は部活動がある者くらい。
どこひっそりと静まり返った校内へと入り、上履きに履き替えて2階へ。一階は保健室や職員室といった特別室がメインで、普通教室は無い。
中央階段を登って右折、4教室ある中で手前から3番目、奥から2番目が彼の教室だ。
いつもの時間に来ると自転車通学を癒すオアシスのような空調設備も、今は聞いていない。きっちりと閉められた窓のせいか、どこか篭った空気を感じる。
入口横の空調のスイッチを押したが反応はない。どうやら事務室にあるメイン電源もまだ入っていないらしい。
鞄を自分の机の横にかけて、はじから窓を全開にしていく。
最後の窓を開け終えると、少しは空気が入れ代わったような気がした。汗はまだ引かないのでそのまま窓の淵に手をかけ外を眺める。
先ほど通って来た森林公園がしっかりと見えた。
それでも世界は静寂だ。