↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

妹のように可愛がっていた侍女が、私の婚約者と密会していました。二人とも、もう必要ありません

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/26

 母の真珠が、私の知らない声に合わせて揺れていた。


「綺麗だ。君のほうが似合う」


 庭園の東屋から聞こえたのは、七年間、婚約者として隣にいた人の声だった。


 私は生垣の切れ目で足を止めた。

 三月の庭はまだ花が少ない。白い石柱の間で、薄紫のショールだけがひどく鮮やかに見えた。それも、私のものだった。


「本当に? お嬢様には地味だと言われるかと思って」

「マルグリットはそういうことに頓着しないだろう」

「そうなんです。一組くらいなくても困らないもの」


 ヘルミーネが笑って顎を上げた。

 アルヴィンの指が、その耳元の真珠に触れる。次の瞬間、二人の顔が重なった。


 八年前、十四歳のヘルミーネがこの屋敷へ来た日を、私は覚えている。

 借り物の靴が大きくて、歩くたびに踵が抜けた。二つ年上の私が靴紐を結び直すと、彼女は何度も頭を下げた。

 その子が二十二歳になり、私の婚約者に抱き寄せられていた。


 真珠は十六歳の誕生日に母から贈られたものだ。

 翌年、母は亡くなった。

 宝石商が同じ大きさの真珠を百組並べても、あの一組の代わりにはならない。


「そろそろ戻らないと。お嬢様が工房からお帰りになるわ」

「君は明日もここへ来られる?」

「ええ。あの方、午後はずっと帳簿を見ているもの」


 私は手に持っていた手袋を折った。

 工房で染料の納品を待つはずだったが、荷馬車の車軸が折れて予定がなくなった。帰る時刻を知らせなかったのは、屋敷へ戻って昼食を取るだけだったからだ。

 二人には、思いがけない早帰りだったのだろう。


 東屋に踏み込めば、どんな顔をするだろう。

 そう思ったのに、足が動かなかった。

 あの手で、昨日、私の上着の襟を直したのか。

 あの口で、今朝も結婚式の日取りを父と相談したのか。


 喉の奥に酸っぱいものがこみ上げた。

 私は二人に見つかる前に、庭を離れた。


     *


「顔色がよろしくありません、お嬢様」


 裏廊下で会った家令のフリードリヒは、私の手から手袋を受け取ろうとして、動きを止めた。

 手袋の縫い目が裂けかけていた。


「お水を……いいえ。先に、私の部屋に来て」


 部屋に入ると、私は椅子に腰を下ろさず、鏡台の前へ行った。

 鍵のかかる小箱を開く。

 青い天鵞絨のくぼみが二つ、空いていた。


「母の耳飾りを、修理に出した記録はある?」

「私のところには回っておりませんが、侍女長に確認いたします」

「ヘルミーネには、まだ訊かないで」


 家令が一度、私を見た。


「……承知いたしました」


 耳飾りがないことには、五日前に気づいていた。

 そのときヘルミーネは、留め具が緩んでいたので侍女長を通して宝石商に頼んだ、と答えた。戻るまで一週間ほどかかるとも。

 私は礼を言って、修理代の見積書をあとで見せてほしいと頼んだ。

 それきりだった。


 家の宝飾品は持ち出しを記録する。私が自分で身に着ける場合も同じだ。母の死後、管理を引き継いで決めたことだった。

 それでも、毎朝髪を梳いてくれる人の言葉を、帳面で確かめようとは思わなかった。


 侍女長はほどなく来た。

 小箱と、開いたままの衣装戸棚を見て、唇を引き結ぶ。


「耳飾りの修理は承っておりません。薄紫のショールは、先週からほつれの始末をするとヘルミーネが預かっております」

「縫製室には?」

「届いておりませんでした」


 侍女長が差し出した管理帳には、真珠を宝石商へ渡した記載も、ショールを縫製室へ回した記載もなかった。

 ただの思い違いであってほしいと願える余地が、一つずつなくなっていく。


「鍵は、私のほかには?」

「日々のお支度に必要ですので、お嬢様付きのヘルミーネが予備を。それ以外の者が使う際は、私が立ち会います」


 私自身が認めた扱いだ。

 母の耳飾りを着ける朝、彼女に取ってもらうこともあった。


「私が、信用していたのね」


 言ってから、ひどく間の抜けた言葉だと思った。

 侍女長は否定も慰めも口にしなかった。ただ水を注ぎ、私のそばに置いてくれた。


 廊下で軽い足音がした。


「お嬢様、もうお戻りだったのですか」


 扉を開けて入ってきたヘルミーネは、いつもの黒い仕事着に戻っていた。耳にも肩にも、私のものはない。

 だが、髪には東屋のそばに植えた月桂樹の小さな葉が絡んでいた。


「ヘルミーネ。耳飾りを返して」


 彼女は侍女長を見て、それから鏡台に目を移した。


「まだ、修理が」

「東屋で着けていたでしょう。ショールも」


 口が半分開いたまま止まった。

 私は、彼女の顔だけを見ていた。小箱を見れば声が震えそうだった。


「今すぐ二つとも返して。ここにいる三人で、状態を確かめます」

「お嬢様、あれは、その……少しお借りしただけです」

「貸していないわ」


 ヘルミーネの目に涙が浮かんだ。

 子供のころ、針仕事で指を刺しても我慢していた子だった。私の前で泣くことは少なかった。それを思い出してしまう自分が嫌だった。


「すみませんでした。綺麗で、一度だけ着けてみたくて」

「アルヴィン様とは、いつから?」


 涙の筋が頬を伝う。

 今度の沈黙は長かった。


「私だけを責めないでください」


 最初に出たのは、その言葉だった。


「あの方から声をかけてくださったんです。お嬢様のところへ来ても、いつも仕事のお話ばかりで寂しいと」


 侍女長が息を吸った。私は小さく手を上げて制した。


「その話は、アルヴィン様にも確認します。あなたに訊いているのは、いつからかということよ」

「……去年の秋から、二人で話すようになって」

「口づけだけ?」


 ヘルミーネは視線を落とした。

 答えを待っている私の耳に、廊下の時計の音だけが聞こえた。


「冬に、一度。いえ……何度か」


 私は水を飲んだ。

 杯を置く音が、思ったより大きく響いた。


「耳飾りとショールを、取りに行って。侍女長と一緒に。そのあと、別室で待っていて」

「お嬢様」

「今日から私の身支度は、ほかの人に頼みます。鍵も置いていって」


 鏡台に小さな鍵が置かれた。

 ヘルミーネは、私が呼び止めるのを待つように扉の前で振り向いた。

 私は何も言わなかった。


     *


 戻ってきた真珠の片方は、留め具が曲がっていた。

 ショールの端には、石に引っかけたらしい細い裂け目がある。

 侍女長が状態を書き留めるあいだ、私は耳飾りを掌に載せていた。


 母は贈ってくれた日に、自分で私の髪をまとめた。

 鏡の中で目が合うと、よく似合うわ、と笑った。

 その笑顔と、東屋で見た口づけが交互に浮かんだ。


「お嬢様。いったん、こちらへ」


 侍女長が小箱を差し出す。

 私は首を振りかけて、やめた。

 真珠をくぼみへ戻す。蓋を閉じると、ようやく息が吐けた。


「お父様に、お話があると伝えて」


 父はその夜、予定していた会食を断った。

 書斎で私の説明を聞き終えると、椅子の肘掛けに置いた手を握った。


「アルヴィン本人の説明を聞く。お前は同席できるか」

「ええ」

「無理に顔を合わせる必要はない」

「私の婚約だから、私が話したいの」


 父は頷き、フリードリヒに子爵家への使いを命じた。

 それから人を下がらせ、隣の椅子に移ってきた。


「マルグリット。今日、何か食べたか」


 私は首を振った。

 父は卓上の呼び鈴に手を伸ばして、私を見る。


「スープなら、飲めるか」


 その一言で、涙が落ちた。

 婚約を解消すると言う覚悟も、耳飾りを返させる言葉も持てたのに、夕食のことを尋ねられただけで泣いてしまった。

 父は何も言わず、私の手に自分のハンカチを握らせた。


 アルヴィンと婚約したのは、母を亡くした年だった。

 当時の私は十七歳で、母の工房を守ると言い張りながら、染め糸の品番もろくに覚えていなかった。父が領地へ出かける夜は、食堂に一人でいるのがつらかった。

 彼はいずれ子爵家を、私は伯爵家を継ぐ。婚約時には、それぞれの爵位と領地を保ち、二つの家を子の代でどう継ぐかも取り決めていた。

 アルヴィンはよく花を持ってきた。

 母が好んだ淡い色の薔薇だった。

 あのころの優しさまで、全部嘘だったとは思えない。

 そう思えないことが、まだ胸を痛くした。


 スープが運ばれてくるまで、父はそばを離れなかった。

 私は泣きながら半分だけ飲んだ。

 冷めた残りを見て、明日あの人に食事を心配されても、もう嬉しくはないだろうと思った。


     *


 翌朝、アルヴィンは約束の時刻より早く来た。

 彼の父親であるヴァルベルク子爵も一緒だった。正式な婚約に関する話だと伝えたためだ。

 書斎には、私と父、記録を取る家令が待っていた。


「急な呼び出しで驚いたよ。マルグリット、体調でも崩したのか」


 彼は私の顔を見るなり、親しげに言った。

 昨日の庭を見なかったことにすれば、この声で安心できたのだろうか。


「昨日、東屋であなたとヘルミーネを見ました」


 アルヴィンの足が止まった。

 父が座るよう促し、全員が椅子につく。

 私から、目撃したことと、ヘルミーネが認めた内容を伝えた。家令が返却品の記録を卓上に置く。

 子爵は目を通し、息子に顔を向けた。


「事実か」

「……誤解されるところはありました」

「口づけをしていたでしょう」

「そこは認める。君を傷つけたのなら、悪かった」


 私の父が、卓上の書類へ視線を落とした。

 私はアルヴィンの目を見た。


「ヘルミーネと、寝たのですか」


 彼は一度だけ父親を見た。

 逃げ道を探すような視線だった。


「……三か月ほど前からだ。だが、君との結婚をやめるつもりはない」


 認めるまでの時間は、あまりにも短かった。

 私が一晩かけて用意した問いは、それでもう必要なくなった。


「どうして、結婚できると思うの?」

「君と彼女は違うだろう。君は伯爵家を継ぐ人だ。僕の妻になる人だ」

「だから?」

「彼女を気に入っているのは知っていた。結婚したら、僕付きに移せばいい。君の目につかないようにするから」


 子爵が低く息子の名を呼んだ。

 アルヴィンは、まだ私だけを見ていた。


「この国には側室の制度などないわ」

「大げさだな。そんなものを求めてはいない。侍女として置くだけで」

「関係をやめるとは、言わないのね」


 彼の唇が動いて、閉じた。

 私は、胸のどこかに残っていた期待が、そこではっきり切れたのを感じた。


「妻のいる暮らしも、彼女との時間も、二つとも欲しい。私が知らなければ済む。それが、あなたの考える結婚なのね」

「そんな言い方は」

「結婚しません」


 声は震えなかった。

 静かに言えたことが、自分でも不思議だった。


「婚約契約の不貞条項に従って、解消を求めます」


 アルヴィンは、私が冗談を言ったかのように眉を動かした。


「七年だぞ」

「ええ」

「たった一度のことで、七年を捨てるのか」

「先ほど、三か月前からとおっしゃいましたね」


 家令の筆が動く。

 アルヴィンは、その音を聞いて初めて、ここが恋人同士の口論をする場ではないと気づいたようだった。


「彼女とは別れる。それでいいだろう」

「嫌です」

「君も冷静になれば」

「昨日、考えました。今朝も考えました。あなたのお話を聞いた今も、同じです」


 私は膝の上で組んだ手をほどいた。

 爪の痕が、掌に四つ並んでいた。


「母を亡くしたとき、そばにいてくださったことには感謝しています。でも、その感謝で、これからの結婚生活を引き受けることはできません」


 アルヴィンの顔から、苛立ちが少し消えた。

 何か言おうとした彼に、子爵が手を上げる。


「もうよい。お前は黙っていなさい」


 子爵は私たちに深く頭を下げた。

 父は謝罪を受け、契約を確認するための代理人をそれぞれ立てると告げた。

 私はその間、窓の外を見ていた。

 庭師が薔薇の枝を縛っている。去年の秋にも、同じ仕事をしていた。

 あのころ、二人はもう庭で会っていたのだ。


 立ち上がったアルヴィンが、私に近づこうとした。

 父が先に私の隣へ立った。


「今後、娘への連絡は代理人を通していただきたい」


 彼は父と私を見比べた。

 私のほうから声をかけるのを待っているのがわかった。

 七年のあいだ、気まずい食事のあとも、意見の違った夜も、先に手紙を書いたのはたいてい私だった。

 今日は、その役目を引き受けなかった。


     *


 ヘルミーネとの面談は、三日後になった。

 そのあいだ彼女には勤務を外れてもらい、屋敷内の来客用の小部屋で待機してもらった。食事も出したし、外へ手紙を送ることも禁じなかった。

 ただし、私の部屋と衣装部屋への出入りは認めなかった。


 面談には侍女長と家令が同席した。

 ヘルミーネは、制服を綺麗に整えて来た。髪の編み込みもいつも通りだった。


「アルヴィン様とのことは、私にも責任があります」


 彼女は私を見て、そう言った。


「でも、私には断りづらかったんです。相手は貴族の方ですから」


 私は侍女長から預かった書面に目を落とした。

 面談前に、彼女自身の言葉で経緯を聞き取ってもらっていた。

 そこには、最初に声をかけられたあと、自分から会う時刻を伝え、贈り物をねだるようになったことも記されている。


「脅されたり、断ると困ることが起きると言われたりしたの?」

「それは……ありません」

「それなら、今ここで、そういう説明はしないで」


 身分の差がある相手に、言いたいことを言えない場合はある。

 だから確かめた。


 ヘルミーネは膝の上の手を握った。


「最初は、お話しするだけだったんです。お嬢様にお似合いの方だと思っていました。でも、あの方が私を選んでくださって」


 声が少し大きくなった。


「私だって、一度くらい選ばれたかった。お嬢様は何でも持っているでしょう。お家も、工房も、綺麗な服も。真珠だって、あんなにいくつも」


「いくつも?」


「ほかにも、お持ちですもの」


 私は俯いて、自分の耳に触れた。

 今日は何も着けていない。


「あの一組は、母からの贈り物だと知っていたわね」

「……はい」

「ほかに持っているかどうかで、持ち出していいことになるの?」


 返事はなかった。


「あなたが自分の服を欲しがったことも、いつか結婚したいと言ったことも、嫌だと思ったことはないわ」


 母が始めた職業教育の会を通して、彼女はこの家で働くことになった。

 読み書きや計算を教わる時間も、見習いとして働く時間もあった。給金を受け取り、休みの日には父親と弟に会いに行った。

 私が彼女を可愛がっていたからといって、その暮らしのすべてを私に差し出す義理などない。


「でも、あなたが欲しいものを手に入れるために、私が黙って傷つく必要もないでしょう」


 ヘルミーネが唇を噛んだ。


「私のことを、妹のようだとおっしゃったのに」

「そう思っていたわ」

「それなら、一度だけでも」

「妹なら、婚約者と寝てもいいの?」


 彼女は顔を上げた。

 私は続きを言えず、しばらく窓の縁を見つめた。

 自分がどれほど怒っているか、そのとき初めてわかった気がした。


 家令が、職務規則を開いた。

 預かった鍵を利用した私物の無断持ち出し、持ち出しを隠すための虚偽報告。二つとも、彼女が認めた。

 留め具は外す際に曲げ、ショールは東屋の石に引っかけたという。留め具が緩んでいたという話も、持ち出しを隠す嘘だったと認めた。

 侍女長から、雇用を終了すること、退去までの手順、未払いの給金の説明があった。


 真珠とショールは返っている。求める弁済は、曲がった留め具と裂け目の修理代だけにした。

 見積もりを取って明細を示し、彼女の生活が立たなくなるような一括払いは求めない。給金から勝手に差し引かず、支払いの方法も書面で決める。

 その手続きが進むあいだ、ヘルミーネは私を見ていた。


「紹介状は、書いていただけますか」

「勤務した期間と担当の証明は出します。身の回りの品を安心して任せられるという推薦は、できません」


 侍女長が代わりに答えた。

 ヘルミーネは、初めて私から視線を外した。


 最後に、彼女は弟の名を出した。

 弟は母の工房で、織り機の修繕をする職人の徒弟になっている。


「あの子は、何も知りません。父も」


「知っているわ。弟さんの契約も、お父様が利用している支援も、今回の処分とは関係ありません」


 私が答えると、彼女の肩がわずかに落ちた。

 安堵したのだと思う。

 私はその安堵を、許した証しにされないように付け加えた。


「あなたがしたことについては、あなたに返してもらいます」


     *


 ヘルミーネが屋敷を出たのは、面談の二日後だった。

 私は見送りに出なかった。

 部屋の窓から、雇いの馬車が門を出るのが見えた。荷物は大きな鞄が二つ。

 彼女が来た日は小さな包み一つだった、と考えて、そこでやめた。

 八年働いた人に荷物が増えるのは当然だ。

 私との日々を、最初から惨めなものだったことにしたくはなかった。


 昼過ぎ、新しく担当する侍女が、衣装の相談に来た。

 私より年長で、侍女長の下で長く働いてきた人だった。


「今日は、どちらの上着を?」


 紺と緑の二着を差し出されて、私は迷った。

 これまでならヘルミーネが、こちらがいいです、とすぐに選んだ。私はたいてい、そうね、と答えた。


「……緑を」

「承知しました」


 新しい侍女は、余計なことを訊かなかった。

 私はその気遣いに救われた。


 髪を梳く音の向こうに、古い声が蘇る。

 次のお休みに弟へ菓子を持っていくのだと、嬉しそうに話した声。

 東屋で私のことを笑った声。

 同じ人の声だと、頭ではわかっている。


 夕方、工房に行った。

 職長は私の目の下を一瞬見ただけで、いつもと同じように染めた糸を並べた。


「この灰青、前回より赤みが強いですね」


 自分で口にしてから、そんな小さな違いが目に入ることに驚いた。

 職長が糸束を持ち上げる。


「よく気づかれました。染料の乾燥が足りなかったようで」

「注文分には間に合う?」

「こちらは試し染めですから。明日、もう一度やります」

「では私も、明日来ます」


 予定が一つできた。

 たったそれだけで、今夜、眠る理由ができたように思えた。


     *


 婚約解消が正式に決まったのは、東屋で二人を見てから一月後だった。

 四月の雨が窓を叩く日、両家の代理人が取りまとめた書類に署名した。


 不貞を理由とする解消。

 契約に定めた違約金。

 贈答品の返還と、婚礼準備のうち既に発生した費用の整理。


 代理人は一つずつ説明し、同じ損失が違約金と別の請求で重なっていないかも確認した。

 私の署名の下に、父が署名した。

 七年間の婚約が、これで正式に終わった。


 けれど、そこで終わらない話もあった。


「来年度の糸の優先発注ですが」


 アルヴィン側の代理人が、資料を一枚出した。

 ヴァルベルク子爵領には、紡績を生業にする村がある。婚約を機に、うちの工房はそこで紡がれた糸を優先して仕入れていた。

 別に、子爵家の水路事業へ融資する取り決めもあった。


 父は、用意していた一覧を示した。


「今年度の発注と、締結済みの融資は契約通り履行する。返済も当初の条件のままだ。婚約を前提に検討していた翌年度の追加融資は、実行しない。優先発注の約束も今期で終了する」


「一度に外されますと、先方の資金計画が」


「そのために既存の契約を守るのです」


 私は口を挟んだ。

 相手の代理人が、私を見る。


「まだ契約していない分まで、私との結婚を当てにしないでください。糸の品質と価格が合えば、通常の仕入れ先として検討します。その際の窓口は、工房の購買担当に」


 多少割高でも、優先して仕入れてきた糸があった。

 納期をずらしてほしいと言われて、うちの職人に予定を組み直してもらったこともあった。

 いつか家族になる相手だからと、呑み込んできたことだ。


 子爵領の職人に、アルヴィンの不貞を償わせたいわけではない。

 ただ、彼の家だけを特別に支える理由はなくなった。


 すべての説明が終わってから、子爵が私に頭を下げた。


「息子が失ったものを、ようやく理解しかけております」


 私は返事をしなかった。

 彼が何を失ったと思っているのか、聞きたくなかった。


     *


 その夜、鏡台に置いていた薔薇の香油を下げてもらった。

 アルヴィンが好きだと言った香りだった。


 好きなものを捨てているのか、自分に合わないものをやめているのか、わからなかった。

 ヘルミーネが選んだリボンは、すぐには片づけられなかった。気に入って使っているものもあったからだ。


 新しい侍女に頼んだのは、部屋を全部変えることではなく、香油を一瓶下げることだけだった。

 それで十分疲れた。


 眠る前に、母の小箱を開いた。

 耳飾りは宝石商に預けたままで、くぼみは空いている。

 正式な預かり証は、箱の下に置いてあった。


 あの二人を見たときの光景が蘇り、私はすぐ蓋を閉じた。

 母のものまで触れなくなるのは嫌だった。

 嫌なのに、今はまだ、どうすればよいかわからなかった。


 枕元の灯りを消す。

 涙は出なかった。

 眠れないまま夜明けを待つのは、母を失った年にもあった。

 少なくとも明日の朝食をどうするかは、自分で決められた。


 私は起き上がり、侍女への伝言を一枚書いた。

 朝は、庭に面した小さな部屋で食べたい。

 蜂蜜を添えた焼きたてのパンを、一つ。

 書き終えると、お腹が鳴った。


     *


 ゲルハルト様が工房を訪れたのは、五月の初めだった。

 父とつながりのある交易商会で、北部向けの取引を担当している人だ。辺境伯家の次男だが、うちに来るときは家の紋章より、荷物の明細を持ってくる。

 私が顔を合わせるようになったのは二年前の春だった。


「本日は、見本帳の改訂を頼みに来ました」


 応接室の卓上に、厚い帳面が載る。

 布見本の横に、私が書き込んだ注意事項があった。


「北の冬では、こちらの薄手の織物は外衣に使えません。室内用として売るなら、手触りを前に出したほうがよいかと」


 私は見本に触れた。


「外衣に使うなんて、説明していないはずですけれど」

「ええ。ただ、現地の小売店で、織り方が似た別の商品と混同されたようです。こちらの図が、誤解を招きました」


 彼は、自分たちの商会が作った挿絵を指で押さえた。

 婦人が肩に布を掛け、雪道に立っている絵だった。


「暖炉のそばに立たせたらどうでしょう」

「ずいぶん安く済む訂正ですね」

「説明文の訂正だけでは、また同じことが起きそうですもの」


 ゲルハルト様が小さく笑った。

 婚約解消以来、男性と向かい合って声を立てずに笑えたのは、初めてだった。


 そのあと彼は工房へ行き、職長と実物を確認した。

 私の婚約のことには触れなかった。商会を通して正式な通知を受け取っているはずだが、同情も、詮索もなかった。


 帰り際、戸口で彼は振り返った。


「来月、北から小売店の仕入れ人が来ます。新しい織物を見てもらえませんか」

「うちの工房の、ですか?」

「はい。今の見本をそのまま持っていくより、織った方の話を直接聞ける機会が欲しい」


 彼が言っているのは、仕事の話だった。

 それが嬉しかった。

 私は、破談を気の毒がられる令嬢としてではなく、工房の責任者として返事ができた。


「職長と相談して、お返事します」

「ぜひ。無理な納期の約束だけは、させないでください」


 最後の言葉は、職長に向けられていた。

 職長が笑い、私も笑った。


     *


 六月、フリードリヒから、子爵家との精算が済んだと報告を受けた。

 違約金は、子爵個人の保有する王国債を換金して支払われたという。家の事業資金から無理に引き抜かないためだと、代理人の説明にあった。


 アルヴィンの家督継承は、保留になった。

 彼には弟がいるが、すぐに弟へ替えるとは決まっていない。子爵自身が当主を続ける間、息子に水路の補修計画と領地の会計を担当させると、父への書面に記されていた。


「水路の仕事は、これまでも任されていたのでは?」


 私が尋ねると、父は苦い顔をした。


「書類に名が載っていただけだったらしい。今後は現場の担当者と会い、費用と工程を自分で報告するそうだ」


 私に領地の仕事ばかりだと不満を漏らしながら、自分は何をしていたのだろうと思った。

 私たちが結婚していたら、彼の署名の下にある曖昧な数字を、私が埋めていたのかもしれない。


 正式な解消理由は、関係のある家へ必要な範囲で通知した。

 相手の家が都合のよい噂だけを流さないよう、双方の代理人が文面を確認したものだ。

 そこに侍女の名や、母の形見のことまでは書いていない。

 それでもアルヴィンの新しい縁談は、容易には進んでいないと父は言った。


「私が詳しく言わなくても、そうなるのね」

「婚約中の不貞を認めた男を、急いで婿に迎える家は少ない。まして、こちらが資金を出す話も消えた」

「……そう」


 父は、私の返事を待っていた。

 私は卓上の書面を閉じた。


「工房のことで、相談してもいい?」


 父の表情が少し和らいだ。

 私は北部から来る仕入れ人の名簿を広げた。

 アルヴィンのその後に使うはずだった午後を、ほかのことに使いたかった。


     *


 ヘルミーネの話は、彼女自身の口から聞くことになった。


 ある曇りの日、工房の正門に彼女が来ていると知らされた。

 私の許可なく中へは入れない。家令に取り次いでもよいと伝えると、私と短い時間だけ話したいと言っているという。

 私は職長の部屋を借り、扉を開けたまま会うことにした。侍女長にも屋敷から来てもらい、同席を頼んだ。


 ヘルミーネは、以前、休みの日によく着ていた灰色の服だった。

 私の知っている服が、まだ彼女の暮らしにあるのを見て、なぜかほっとした。そのあと、そんなことを気にしてしまう自分に疲れた。


「弟には、会って帰るの?」

「今日は、いいんです」


 彼女は両手で鞄を持っていた。

 侍女長を見てから、私へ目を戻す。


「アルヴィン様に、もう来ないでほしいと言われました」


 私は何も答えなかった。


「最初は、婚約を解消するまでは仕方ないと思っていたんです。私といると、家のことを忘れられるとおっしゃっていたから。でも、お嬢様とのことが終わったら、今度はそれどころじゃないって」


 彼女は目を伏せた。


「結婚のお話をしたら、そんな約束はしていないと」


 東屋で聞いた甘い声が、一瞬蘇った。

 アルヴィンは、妻になる私の目に入らない場所へ彼女を移せばよいと言った。

 その言葉を伝えて、彼女をもっと傷つけたい気持ちが、私の中にもあった。

 私はそれを、わざわざ口にしなかった。


「それで、私に何を頼みに来たの?」


 ヘルミーネは、握っていた鞄から書面を出した。

 屋敷の家令が発行した、在職期間の証明だった。


「二軒、面接を受けました。どちらも、以前のお屋敷から推薦がないのはなぜかと訊かれて」

「ええ」

「正直に話すと、貴重品を扱う部屋には置けないと。今は洗濯場で働いています。でも、あの給金では……」


 侍女長が書面を一瞥した。


「勤務内容の証明に、足りないところがありましたか」

「そうではありません」


 ヘルミーネは私を見た。

 その目に、以前と同じものを期待している気配があった。


「戻していただけませんか。お嬢様付きが駄目なら、客室でも、どこでも。アルヴィン様とは、もう会いません」


 私には、彼女が何を失ったかがわかった。

 屋敷の中に自分の寝床があり、季節ごとの仕事着があり、病気のときには休める。長く勤めて昇給し、故郷の家へ仕送りもできた。

 彼女は、そういう生活の上から私の暮らしを羨んでいた。

 屋敷へ戻れると思って来たことが、つらかった。


「戻せないわ」

「同じことは、絶対にしません」

「あなたがここにいたら、私は小箱を開けるたびに、また確かめると思う。アルヴィン様と別れたと聞いても、それは変わらない」


 ヘルミーネの鼻が赤くなった。


「お嬢様は、私の八年間を全部なかったことにするんですか」

「していないわ。だから働いた期間はその通り証明したでしょう。あなたも、八年あった私との関係を知ったうえで、あの東屋にいたのよね」


 彼女は返事をしなかった。

 私は時計を見た。次の打ち合わせまで、もう時間がない。


「修理代の分割払いは、取り決めた金額のままで構いません。給金が変わった事情があるなら、家令に相談して。仕事に戻すこととは別に扱います」


 ヘルミーネは、在職証明を鞄に戻した。

 指が震えて、紙の角が折れた。

 以前なら、私が取って、綺麗に伸ばしてやったかもしれない。


「私のほうが、愛されていると思ったんです」


 立ち上がるとき、彼女は小さく言った。


「あなたがそう思ったことと、私が許すかどうかは、別の話よ」


 私も立った。

 彼女が扉を出たあと、侍女長が私を見た。


「お茶をお持ちしましょうか」

「いいえ。少しだけ、ここにいてくれる?」


 侍女長は椅子に座り直した。

 私が鞄の中の書類を整え終えるまで、何も訊かずに待ってくれた。


     *


 その日の午後、北部の仕入れ人たちに織物を見せた。

 ゲルハルト様は紹介を終えると、説明を私と職長に任せた。

 並んだ見本のうち、最も手の込んだ織物の前で、一人が首を傾げる。


「綺麗ですが、売り場では高すぎるかもしれません」


 私が提案していた商品だった。

 値の張る糸を使い、母の図案を少し変えている。


「婚礼用なら、どうでしょう」

「婚礼用は、近隣で織った布を贈る慣習があります。見慣れない産地のものを、初めての取引で多くは買えません」


 言葉に詰まった。

 母が好きだった柄で、私も好きだった。

 好きなものを断られただけなのに、胸に堪えた。


 ゲルハルト様が、横から別の見本を一枚引き出した。

 先月、挿絵の訂正を相談した薄手の織物だ。


「暖炉のある部屋なら、使えますね」


 仕入れ人が笑う。

 私も、その言い方で肩の力が抜けた。


「こちらでしたら、装飾の糸を減らして、洗ったあとの縮みを抑えています。現物を洗った試料もあります」


 職長が奥から試料を持ってくる。

 そこから話が動き、小口の試験販売が決まった。


 客が帰ったあと、私は最初に勧めた布を畳んでいた。

 ゲルハルト様が、向かいに立つ。


「残念でしたね」

「ええ。少し、押しすぎました」

「柄は私も好きです。ただ、初めて会う人に大量に買ってもらうには、先方の事情を知らなすぎました」

「慰めては、くださらないのね」

「必要ですか?」


 顔を上げると、彼は困ったように笑っていた。

 私は、少し考えた。


「……今日は、いらないわ」

「では、次に何を持っていくか考えましょう」


 その言葉が、ひどくありがたかった。

 失敗をなかったことにも、私だけの失敗にもせず、次の相談をしてくれる。

 私は布の端を揃え、卓上へ置いた。


「見本を、もう少し小さくしてはどうかしら。持ち帰って、手持ちの家具や服と合わせられるように」

「いいですね。貸し出すか、売るか」

「最初の一組は商会で管理していただける?」

「数を決めましょう。職人の手がかかった見本ですから、大切に扱います」


 ゲルハルト様は見本の角を揃え、一枚ずつ重ねた。

 その手つきを見ながら、私は貸し出し用の帳面を開いた。


「……一枚ずつ、番号を振ります」

「助かります」


 私たちは、そのあと日暮れまで話し込んだ。


     *


 七月から、新しい販路のために会う機会が増えた。

 商会の利益と工房の利益は、いつもぴたりと合うわけではない。

 輸送費を誰が持つかで揉めた日もあったし、彼の提案する納期では職人の休みが足りないと、私が断ったこともある。


「荷馬車は、その日を逃すと十日後になります」

「では十日後で。急ぎの分だけ別便にすると、結局そちらの負担も増えるでしょう」

「秋の市に間に合わないかもしれません」

「無理に間に合わせて、次の年に注文を受けられなくなるほうが困ります」


 彼はしばらく予定表を見て、それから鉛筆で線を引いた。


「全部を持っていくつもりで考えていました。先行分を半数にします」

「それなら、こちらも合わせられます」


 話が決まったあと、私は自分が早口になっていたことに気づいた。

 彼は怒っていなかった。

 相手を言い負かしたとか、我慢してもらったとか、そういう疲れ方をしない。


 工房の人たちも、彼が来ると少し気楽そうだった。

 買い手を案内する前に、仕事場へ入ってよいか職長に訊く。糸束を踏みそうになると、慌てて大きな体を引っ込める。

 職人の手を取って褒めたりはしないが、次の注文に改善点をきちんと反映する。


 ある日、染め上がりを待っているあいだに、私は尋ねた。


「どうして、交易のお仕事を?」

「兄ほど、領地の中にいるのが得意ではありませんでした」

「兄君は、領地に?」

「はい。私は外へ出るたびに、別の国の橋や市場ばかり見ていたので。父に、それなら見たものを役立てろと言われました」


 家の名前を使うのは商談の最初だけで、あとは自分で仕事を取るのだという。

 商会に損を出して叱られたことも、荷馬車を手配し直すため一晩かかったことも、彼は淡々と話した。


「立派な理由ではなくて、残念でしたか」

「いいえ。うまくいったお話だけより、聞きたいです」


 彼が笑った。

 私は、彼が笑うと右の目尻が少し深くなることに気づいた。

 帰りの馬車でも、彼の目尻を思い出した。


 八月の終わり、試験販売の結果が届いた。

 室内用の織物は半分以上が売れ、次の注文も来ていた。婚礼用に勧めた布は、見本を見た一軒の店から、少量だけ取り寄せたいと言われた。


「少量ですね」


 私が言うと、ゲルハルト様は頷いた。


「少量です。来年も買ってくれたら、嬉しい量です」

「ええ。とても」


 私は手紙をもう一度読んだ。

 母の柄を、知らない土地の誰かが手に取る。

 それを一緒に喜べる人が、卓の向こうにいた。


     *


 九月、修理の済んだ耳飾りを、ようやく自分で着けた。

 留め具の修理そのものは、五月には終わっていた。

 箱を開けて眺められるようになり、掌に載せられるようになっても、身に着けるところまでは進めなかった。


 その朝は工房で、秋の交易市へ出す品の最終確認があった。

 特別な日でもない。けれど、箱の中の真珠を見ているうちに、今日は着けたいと思った。


 侍女が髪を上げる。

 鏡の中の耳元に、白い光が二つ戻った。


「いかがですか」

「……ええ。これでお願い」


 襟元には、濃い緑の上着を合わせた。

 母が見たら、その色はずいぶん強いと言ったかもしれない。

 それから、似合うわ、と言ってくれただろうか。


 工房では、ゲルハルト様が荷札を確認していた。

 私の挨拶に顔を上げ、目元を和らげる。


「今日は、いつもと雰囲気が違いますね」


 耳飾りに気づいたのだとわかって、私は片耳に触れた。


「母にもらったものなの。しばらく、着けられずにいて」

「……そうでしたか」


 そのままでは、修理に時間がかかったと思わせたかもしれない。

 私は言葉を探し、結局、簡単に説明した。


「嫌なことがあったとき、これも一緒にあったから。見ると、その日を思い出してしまって」


 彼は荷札を置いた。

 東屋で何があったか、誰が着けていたかは話さなかった。

 そこまで聞かれることもなかった。


「今日、着けようと思われたのは?」

「あなたに見せる新しい布が、この緑だったから。母なら、この真珠を合わせると思ったの」


 ゲルハルト様は少し間を置いて、頷いた。


「よく合っています。ご自分で、そう選べたのですね」

「ええ」


 それ以上は、言わないでいてくれた。

 似合うという言葉が、誰かと比べるために使われなかった。

 私は耳から手を離し、彼の前に新しい見本を広げた。


 その日、仕事の間に東屋を思い出したのは、一度だけだった。

 帰宅して耳飾りを外したときには、緑の布と、顔を上げた彼の目を先に思い出した。


     *


 十月の交易市は、王都から馬車で二日ほどの町で開かれた。

 私は父と、工房の職長たちと一緒に出向いた。

 ゲルハルト様の商会が借りた展示室には、北部からの客も来ていた。


 午前中は声が嗄れるほど話した。

 見本を貸し出し、納期を確かめ、小さな注文を幾つも受けた。

 母の図案を使った布を、ある婦人が長い時間眺めていた。


「娘の部屋に、掛けてやりたいの」


 そう言ってくれたとき、私は一度、裏の部屋へ引っ込んだ。

 嬉しいときにも、人前にいられなくなることがあるのだと知った。


 夕方、店じまいを終えると、父が広場を歩いてくると出ていった。

 私は椅子に座って、靴の中で足の指を動かしていた。

 ゲルハルト様が入口から顔を出す。


「焼き林檎が売られていますが、いかがですか」

「ここで?」

「外で。歩くのが大変でしたら、持ってきます」

「……少しだけなら、歩きたいです」


 彼は私の侍女にも声をかけ、三人で広場へ出た。

 店の前で熱い皿を受け取ると、私が持つ前に、露店の主人へ布を一枚頼んでくれた。


「持ち帰ると思ったのですが。これでは歩けませんね」


 彼が皿を見下ろす。

 林檎はたっぷり蜜を掛けられ、中央に焼き菓子まで添えられていた。


「立ったまま食べるのは、お嫌ですか」

「いいえ。こぼさない自信がないだけです」


 私は吹き出した。

 少し離れた石の縁に腰を下ろす。侍女は見える位置で、自分の林檎を受け取っていた。


 匙を入れると、柔らかい果肉から湯気が上がった。

 私が息を吹きかけている間に、ゲルハルト様は一口食べてしまい、しばらく黙った。


「熱かったのですね」

「……はい」


 今度は声を出して笑ってしまった。

 彼も皿を持ったまま笑った。


 広場の向こうで楽師が笛を吹いていた。

 仕事の相談をしなくても、沈黙が困らなかった。

 焼き林檎を食べ終えたあとも、私は立ち上がりたくなかった。


「今日は、嬉しそうでしたね」


 彼が言った。


「ええ。母の布を見てくださる人がいたから」

「マルグリット様が、今まで作り続けてこられた布です」


 私は皿の縁に残った蜜を見た。

 その言葉を、すぐには受け取れなかった。


「母のものだと思っていると、自分の失敗も許せなくなるの。台無しにしたらどうしようと」

「変えたところもあるのでしょう」

「糸と、幅と……柄も少し」

「私は、今のものを見て注文しました」


 顔を上げた。

 ゲルハルト様はこちらを見ていた。

 胸が鳴って、聞き取れるほどなのではないかと心配になった。


「また、こうして何か食べに来ませんか」


 彼の声が、少し低くなった。


「取引の話が、ない日にも」


 返事をする前に笑ってしまいそうで、私は一度、唇を閉じた。

 それから、頷いた。


「次は、冷めるのを待てるものにしましょう」


 ゲルハルト様が困った顔をしたあと、笑った。

 帰り道、彼は私の歩幅に合わせた。

 私はそのことを、宿に戻ってから何度も思い返した。


     *


 冬が来るまでに、仕事以外で三度会った。

 父も交えた食事や、侍女を伴っての散歩だった。

 私の好きなものを尋ねる人に、私はすぐ答えられないことがあった。

 それでも彼は、勝手に決めず、次に会う日まで待ってくれた。


 十二月、アルヴィンから面会を求める書状が届いた。

 代理人を通したものだった。

 私は一度だけ、父と家令のいる場で会うことを了承した。これから先も連絡を続けられないよう、私の言葉で断りたかった。


 彼は以前より痩せていた。

 服はよく整っていたが、爪の端に小さな傷があった。現場に出ているのだろう。

 戻りたいとは思わなかった。


「久しぶりだね」

「ご用件を、伺います」

「ヘルミーネとは別れた。君にも聞こえていると思う」

「ええ」

「僕は、何もわかっていなかった」


 彼は両手を膝に置いた。


「水路のことも、帳簿のことも、君なら片づけられると思っていた。君がどれだけやっていたか、今はわかる」

「そうですか」

「父に叱られたから言っているんじゃない。君の手紙を読み直したんだ。仕入れのことも、領地のことも、僕に何度も相談してくれていた」


 私が真面目すぎるのではなかった。

 返事をもらえない相談を、ずっと一人で抱えていたのだ。

 彼が今それをわかったとしても、あのころの私が楽になるわけではない。


「もう一度、始められないか」


 アルヴィンは卓上へ、小さな花束を置いた。

 淡い色の薔薇だった。

 母を亡くした年によく持ってきてくれた花と、同じだった。


「君が許してくれるまで待つ。今すぐ結婚でなくてもいい」

「お断りします」


 彼は花から手を離せなかった。


「僕が変わっても?」

「あなたが変わることは、あなたのこれからに役立つでしょう。私が戻る約束をしなければ、変われませんか」


 彼が黙った。

 私は花束を押し返さず、家令を見た。受け取らずに持ち帰ってもらうためだ。


「あなたを好きだったことは、あります。母を亡くした年に、そばにいてくださって嬉しかった。そのことまで嘘だったとは思っていません」

「それなら」

「だからこそ、もう十分です。残っている良い記憶を、あなたを許す理由に使わないでください」


 彼の肩がゆっくり下がった。


「ローゼンフェルト家の方がいるからか」

「私が婚約を解消したとき、誰かと結ばれる当てはありませんでした。あのとき、お断りした答えが今も変わらないだけです」


 家令が花束を持ち上げた。

 アルヴィンは立ち上がり、父に頭を下げた。

 最後に私を見たが、名前を呼びはしなかった。


 彼が帰ったあと、私は窓を少し開けた。

 冷たい風が入って、卓上の紙の端を揺らした。

 花の香りは、ほとんど残っていなかった。


     *


 ヘルミーネから手紙が届いたのも、その冬だった。

 修理代の最後の支払いに添えられていたので、家令が別にして渡してくれた。


 謝罪と、暮らしの近況が書かれていた。

 洗濯場で、染みを見落とさず仕分ける仕事を任されるようになったという。

 私はそのくだりを読んで、昔から布の扱いは丁寧だったことを思い出した。

 あの丁寧な手で、母のショールを扱ってほしかった。


 最後の一行は、いつか直接お詫びをしたい、だった。

 私は封筒に戻し、机の引き出しへしまった。

 返事は書かなかった。

 彼女が自分の暮らしを続けていけるなら、それでよかった。そこへ私が戻る必要はなかった。


     *


 年が明けてから、私はゲルハルト様にアルヴィンとの面会のことを話した。

 彼は途中で口を挟まず、聞いてくれた。


「言っておかないと、あとでほかからお聞きになったら嫌だと思って」

「話してくださって、ありがとうございます」

「気にならないのですか」

「気になります」


 率直な返事に、私は顔を上げた。


「その方が戻りたいとおっしゃったと聞けば、落ち着くわけではありません。ただ、断ったと教えてくださった方へ、何度も同じことを確かめたくはないので」


 私は膝の上の手を見た。

 彼の前では、うまく言えないことも口にしてよいと思えた。


「あなたと会う日が、楽しみなの」

「はい」

「でも、また誰かを好きになるのが、怖い日もあるわ」


 ゲルハルト様は頷いた。


「待てる、とは言えます。怖くさせないと断言できるほど、私は出来た人間ではありません」

「……ええ」

「意見も違いますし、失敗もします。そのとき、話を聞いてもらえる相手でいたいです。私からも、聞かせてほしいと頼みます」


 冬の庭へ出たとき、私は自分から彼の手を取った。

 手袋越しでも、指が長いとわかった。

 彼が力を込める前に、私を見た。

 私は頷いた。


 嬉しくて、少し怖かった。

 それでも、離したいとは思わなかった。


     *


 翌春、ゲルハルト様から、結婚を考えてほしいと言われた。


 返事の前に、私は父の書斎で、家のことを話した。

 エルデン伯爵家の後継者には、既に私を届け出ている。この国では娘が継ぐこともできるが、婚姻後の家名と領地の管理は、両家で明確にしておかなければならない。

 工房は私が経営を続ける。

 伯爵位を継ぐのも私で、夫が代わりに当主になるわけではない。


「はい。承知しています」


 彼は私の説明を、一つずつ聞いた。


「ローゼンフェルト家とは、お話を?」

「父と兄には、私がそちらへ入ることについて話しました。家としての条件は、代理人にも確認してもらいたいですが、私自身はエルデンを名乗りたいと思っています」


 住む場所、商会の仕事、互いが領地を離れる期間。

 子が生まれた場合の継承も、決められることは書面にした。

 私は、こういう話を嫌がられないだけで、こんなに安心できるのかと思った。


 両家の確認と書面の取り交わしが済んだ日、父が席を立った。


「庭の薔薇が、咲き始めている」


 そう言って、家令と一緒に部屋を出た。

 窓の外に、庭師がいるのが見える。

 私はゲルハルト様を誘い、庭へ出た。


 東屋の見えるところで、足が少し鈍った。

 彼が立ち止まる。

 私は首を振って、別の道を指した。


「あちらへ。母が好きだった木があるの」


 白い花のついた木の下で、彼は小箱を取り出した。

 真珠ではなかった。小さな緑の石が、金の輪に留められていた。


「初めてあなたと長く話した日に、緑の糸の色を直していらしたのを覚えています」


 三年前の工房だった。

 私は、彼がその日を覚えているとは思わなかった。


「あの日は、ずいぶんうるさく言ったでしょう」

「ええ。違いを説明してくださったので、私にもわかりました」


 彼は笑って、それから真面目な顔になった。


「仕事の話がない日にも、あなたと会いたいと思いました。今は、話すことが何もない夜にも、一緒にいたいと思っています。マルグリット様。私と結婚してください」


 私は差し出された手に、自分の手を重ねた。


「はい。私も、あなたと暮らしたいです」


 指輪が、指の根元に収まった。

 少し動かすと、緑の石に花の白が映った。


 ゲルハルト様が私の耳元を見て、目を和らげた。

 母の真珠を、今日は着けてきていた。

 私は片方にそっと触れたあと、彼を見上げた。


「似合う?」

「とても」


 返事が早くて、私は笑った。

 彼が私の頬に触れ、身を屈める。

 私は目を閉じた。


 帰り道、白い花の木をもう一度振り返った。

 あの場所で今日交わした言葉を、私はきっと何度も思い出す。

 窓辺では、父がこちらを見ていた。

 重ねた手を少し上げると、父は頷いて、眩しそうに目を細めた。


 私はゲルハルト様の手を引いた。

 今日のお茶には、焼き林檎を頼んである。

 今度は二人とも、冷めるまで待てるだろうか。

 そんなことを話しながら、私たちは一緒に家へ戻った。


 ~完~

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。