妹のように可愛がっていた侍女が、私の婚約者と密会していました。二人とも、もう必要ありません
母の真珠が、私の知らない声に合わせて揺れていた。
「綺麗だ。君のほうが似合う」
庭園の東屋から聞こえたのは、七年間、婚約者として隣にいた人の声だった。
私は生垣の切れ目で足を止めた。
三月の庭はまだ花が少ない。白い石柱の間で、薄紫のショールだけがひどく鮮やかに見えた。それも、私のものだった。
「本当に? お嬢様には地味だと言われるかと思って」
「マルグリットはそういうことに頓着しないだろう」
「そうなんです。一組くらいなくても困らないもの」
ヘルミーネが笑って顎を上げた。
アルヴィンの指が、その耳元の真珠に触れる。次の瞬間、二人の顔が重なった。
八年前、十四歳のヘルミーネがこの屋敷へ来た日を、私は覚えている。
借り物の靴が大きくて、歩くたびに踵が抜けた。二つ年上の私が靴紐を結び直すと、彼女は何度も頭を下げた。
その子が二十二歳になり、私の婚約者に抱き寄せられていた。
真珠は十六歳の誕生日に母から贈られたものだ。
翌年、母は亡くなった。
宝石商が同じ大きさの真珠を百組並べても、あの一組の代わりにはならない。
「そろそろ戻らないと。お嬢様が工房からお帰りになるわ」
「君は明日もここへ来られる?」
「ええ。あの方、午後はずっと帳簿を見ているもの」
私は手に持っていた手袋を折った。
工房で染料の納品を待つはずだったが、荷馬車の車軸が折れて予定がなくなった。帰る時刻を知らせなかったのは、屋敷へ戻って昼食を取るだけだったからだ。
二人には、思いがけない早帰りだったのだろう。
東屋に踏み込めば、どんな顔をするだろう。
そう思ったのに、足が動かなかった。
あの手で、昨日、私の上着の襟を直したのか。
あの口で、今朝も結婚式の日取りを父と相談したのか。
喉の奥に酸っぱいものがこみ上げた。
私は二人に見つかる前に、庭を離れた。
*
「顔色がよろしくありません、お嬢様」
裏廊下で会った家令のフリードリヒは、私の手から手袋を受け取ろうとして、動きを止めた。
手袋の縫い目が裂けかけていた。
「お水を……いいえ。先に、私の部屋に来て」
部屋に入ると、私は椅子に腰を下ろさず、鏡台の前へ行った。
鍵のかかる小箱を開く。
青い天鵞絨のくぼみが二つ、空いていた。
「母の耳飾りを、修理に出した記録はある?」
「私のところには回っておりませんが、侍女長に確認いたします」
「ヘルミーネには、まだ訊かないで」
家令が一度、私を見た。
「……承知いたしました」
耳飾りがないことには、五日前に気づいていた。
そのときヘルミーネは、留め具が緩んでいたので侍女長を通して宝石商に頼んだ、と答えた。戻るまで一週間ほどかかるとも。
私は礼を言って、修理代の見積書をあとで見せてほしいと頼んだ。
それきりだった。
家の宝飾品は持ち出しを記録する。私が自分で身に着ける場合も同じだ。母の死後、管理を引き継いで決めたことだった。
それでも、毎朝髪を梳いてくれる人の言葉を、帳面で確かめようとは思わなかった。
侍女長はほどなく来た。
小箱と、開いたままの衣装戸棚を見て、唇を引き結ぶ。
「耳飾りの修理は承っておりません。薄紫のショールは、先週からほつれの始末をするとヘルミーネが預かっております」
「縫製室には?」
「届いておりませんでした」
侍女長が差し出した管理帳には、真珠を宝石商へ渡した記載も、ショールを縫製室へ回した記載もなかった。
ただの思い違いであってほしいと願える余地が、一つずつなくなっていく。
「鍵は、私のほかには?」
「日々のお支度に必要ですので、お嬢様付きのヘルミーネが予備を。それ以外の者が使う際は、私が立ち会います」
私自身が認めた扱いだ。
母の耳飾りを着ける朝、彼女に取ってもらうこともあった。
「私が、信用していたのね」
言ってから、ひどく間の抜けた言葉だと思った。
侍女長は否定も慰めも口にしなかった。ただ水を注ぎ、私のそばに置いてくれた。
廊下で軽い足音がした。
「お嬢様、もうお戻りだったのですか」
扉を開けて入ってきたヘルミーネは、いつもの黒い仕事着に戻っていた。耳にも肩にも、私のものはない。
だが、髪には東屋のそばに植えた月桂樹の小さな葉が絡んでいた。
「ヘルミーネ。耳飾りを返して」
彼女は侍女長を見て、それから鏡台に目を移した。
「まだ、修理が」
「東屋で着けていたでしょう。ショールも」
口が半分開いたまま止まった。
私は、彼女の顔だけを見ていた。小箱を見れば声が震えそうだった。
「今すぐ二つとも返して。ここにいる三人で、状態を確かめます」
「お嬢様、あれは、その……少しお借りしただけです」
「貸していないわ」
ヘルミーネの目に涙が浮かんだ。
子供のころ、針仕事で指を刺しても我慢していた子だった。私の前で泣くことは少なかった。それを思い出してしまう自分が嫌だった。
「すみませんでした。綺麗で、一度だけ着けてみたくて」
「アルヴィン様とは、いつから?」
涙の筋が頬を伝う。
今度の沈黙は長かった。
「私だけを責めないでください」
最初に出たのは、その言葉だった。
「あの方から声をかけてくださったんです。お嬢様のところへ来ても、いつも仕事のお話ばかりで寂しいと」
侍女長が息を吸った。私は小さく手を上げて制した。
「その話は、アルヴィン様にも確認します。あなたに訊いているのは、いつからかということよ」
「……去年の秋から、二人で話すようになって」
「口づけだけ?」
ヘルミーネは視線を落とした。
答えを待っている私の耳に、廊下の時計の音だけが聞こえた。
「冬に、一度。いえ……何度か」
私は水を飲んだ。
杯を置く音が、思ったより大きく響いた。
「耳飾りとショールを、取りに行って。侍女長と一緒に。そのあと、別室で待っていて」
「お嬢様」
「今日から私の身支度は、ほかの人に頼みます。鍵も置いていって」
鏡台に小さな鍵が置かれた。
ヘルミーネは、私が呼び止めるのを待つように扉の前で振り向いた。
私は何も言わなかった。
*
戻ってきた真珠の片方は、留め具が曲がっていた。
ショールの端には、石に引っかけたらしい細い裂け目がある。
侍女長が状態を書き留めるあいだ、私は耳飾りを掌に載せていた。
母は贈ってくれた日に、自分で私の髪をまとめた。
鏡の中で目が合うと、よく似合うわ、と笑った。
その笑顔と、東屋で見た口づけが交互に浮かんだ。
「お嬢様。いったん、こちらへ」
侍女長が小箱を差し出す。
私は首を振りかけて、やめた。
真珠をくぼみへ戻す。蓋を閉じると、ようやく息が吐けた。
「お父様に、お話があると伝えて」
父はその夜、予定していた会食を断った。
書斎で私の説明を聞き終えると、椅子の肘掛けに置いた手を握った。
「アルヴィン本人の説明を聞く。お前は同席できるか」
「ええ」
「無理に顔を合わせる必要はない」
「私の婚約だから、私が話したいの」
父は頷き、フリードリヒに子爵家への使いを命じた。
それから人を下がらせ、隣の椅子に移ってきた。
「マルグリット。今日、何か食べたか」
私は首を振った。
父は卓上の呼び鈴に手を伸ばして、私を見る。
「スープなら、飲めるか」
その一言で、涙が落ちた。
婚約を解消すると言う覚悟も、耳飾りを返させる言葉も持てたのに、夕食のことを尋ねられただけで泣いてしまった。
父は何も言わず、私の手に自分のハンカチを握らせた。
アルヴィンと婚約したのは、母を亡くした年だった。
当時の私は十七歳で、母の工房を守ると言い張りながら、染め糸の品番もろくに覚えていなかった。父が領地へ出かける夜は、食堂に一人でいるのがつらかった。
彼はいずれ子爵家を、私は伯爵家を継ぐ。婚約時には、それぞれの爵位と領地を保ち、二つの家を子の代でどう継ぐかも取り決めていた。
アルヴィンはよく花を持ってきた。
母が好んだ淡い色の薔薇だった。
あのころの優しさまで、全部嘘だったとは思えない。
そう思えないことが、まだ胸を痛くした。
スープが運ばれてくるまで、父はそばを離れなかった。
私は泣きながら半分だけ飲んだ。
冷めた残りを見て、明日あの人に食事を心配されても、もう嬉しくはないだろうと思った。
*
翌朝、アルヴィンは約束の時刻より早く来た。
彼の父親であるヴァルベルク子爵も一緒だった。正式な婚約に関する話だと伝えたためだ。
書斎には、私と父、記録を取る家令が待っていた。
「急な呼び出しで驚いたよ。マルグリット、体調でも崩したのか」
彼は私の顔を見るなり、親しげに言った。
昨日の庭を見なかったことにすれば、この声で安心できたのだろうか。
「昨日、東屋であなたとヘルミーネを見ました」
アルヴィンの足が止まった。
父が座るよう促し、全員が椅子につく。
私から、目撃したことと、ヘルミーネが認めた内容を伝えた。家令が返却品の記録を卓上に置く。
子爵は目を通し、息子に顔を向けた。
「事実か」
「……誤解されるところはありました」
「口づけをしていたでしょう」
「そこは認める。君を傷つけたのなら、悪かった」
私の父が、卓上の書類へ視線を落とした。
私はアルヴィンの目を見た。
「ヘルミーネと、寝たのですか」
彼は一度だけ父親を見た。
逃げ道を探すような視線だった。
「……三か月ほど前からだ。だが、君との結婚をやめるつもりはない」
認めるまでの時間は、あまりにも短かった。
私が一晩かけて用意した問いは、それでもう必要なくなった。
「どうして、結婚できると思うの?」
「君と彼女は違うだろう。君は伯爵家を継ぐ人だ。僕の妻になる人だ」
「だから?」
「彼女を気に入っているのは知っていた。結婚したら、僕付きに移せばいい。君の目につかないようにするから」
子爵が低く息子の名を呼んだ。
アルヴィンは、まだ私だけを見ていた。
「この国には側室の制度などないわ」
「大げさだな。そんなものを求めてはいない。侍女として置くだけで」
「関係をやめるとは、言わないのね」
彼の唇が動いて、閉じた。
私は、胸のどこかに残っていた期待が、そこではっきり切れたのを感じた。
「妻のいる暮らしも、彼女との時間も、二つとも欲しい。私が知らなければ済む。それが、あなたの考える結婚なのね」
「そんな言い方は」
「結婚しません」
声は震えなかった。
静かに言えたことが、自分でも不思議だった。
「婚約契約の不貞条項に従って、解消を求めます」
アルヴィンは、私が冗談を言ったかのように眉を動かした。
「七年だぞ」
「ええ」
「たった一度のことで、七年を捨てるのか」
「先ほど、三か月前からとおっしゃいましたね」
家令の筆が動く。
アルヴィンは、その音を聞いて初めて、ここが恋人同士の口論をする場ではないと気づいたようだった。
「彼女とは別れる。それでいいだろう」
「嫌です」
「君も冷静になれば」
「昨日、考えました。今朝も考えました。あなたのお話を聞いた今も、同じです」
私は膝の上で組んだ手をほどいた。
爪の痕が、掌に四つ並んでいた。
「母を亡くしたとき、そばにいてくださったことには感謝しています。でも、その感謝で、これからの結婚生活を引き受けることはできません」
アルヴィンの顔から、苛立ちが少し消えた。
何か言おうとした彼に、子爵が手を上げる。
「もうよい。お前は黙っていなさい」
子爵は私たちに深く頭を下げた。
父は謝罪を受け、契約を確認するための代理人をそれぞれ立てると告げた。
私はその間、窓の外を見ていた。
庭師が薔薇の枝を縛っている。去年の秋にも、同じ仕事をしていた。
あのころ、二人はもう庭で会っていたのだ。
立ち上がったアルヴィンが、私に近づこうとした。
父が先に私の隣へ立った。
「今後、娘への連絡は代理人を通していただきたい」
彼は父と私を見比べた。
私のほうから声をかけるのを待っているのがわかった。
七年のあいだ、気まずい食事のあとも、意見の違った夜も、先に手紙を書いたのはたいてい私だった。
今日は、その役目を引き受けなかった。
*
ヘルミーネとの面談は、三日後になった。
そのあいだ彼女には勤務を外れてもらい、屋敷内の来客用の小部屋で待機してもらった。食事も出したし、外へ手紙を送ることも禁じなかった。
ただし、私の部屋と衣装部屋への出入りは認めなかった。
面談には侍女長と家令が同席した。
ヘルミーネは、制服を綺麗に整えて来た。髪の編み込みもいつも通りだった。
「アルヴィン様とのことは、私にも責任があります」
彼女は私を見て、そう言った。
「でも、私には断りづらかったんです。相手は貴族の方ですから」
私は侍女長から預かった書面に目を落とした。
面談前に、彼女自身の言葉で経緯を聞き取ってもらっていた。
そこには、最初に声をかけられたあと、自分から会う時刻を伝え、贈り物をねだるようになったことも記されている。
「脅されたり、断ると困ることが起きると言われたりしたの?」
「それは……ありません」
「それなら、今ここで、そういう説明はしないで」
身分の差がある相手に、言いたいことを言えない場合はある。
だから確かめた。
ヘルミーネは膝の上の手を握った。
「最初は、お話しするだけだったんです。お嬢様にお似合いの方だと思っていました。でも、あの方が私を選んでくださって」
声が少し大きくなった。
「私だって、一度くらい選ばれたかった。お嬢様は何でも持っているでしょう。お家も、工房も、綺麗な服も。真珠だって、あんなにいくつも」
「いくつも?」
「ほかにも、お持ちですもの」
私は俯いて、自分の耳に触れた。
今日は何も着けていない。
「あの一組は、母からの贈り物だと知っていたわね」
「……はい」
「ほかに持っているかどうかで、持ち出していいことになるの?」
返事はなかった。
「あなたが自分の服を欲しがったことも、いつか結婚したいと言ったことも、嫌だと思ったことはないわ」
母が始めた職業教育の会を通して、彼女はこの家で働くことになった。
読み書きや計算を教わる時間も、見習いとして働く時間もあった。給金を受け取り、休みの日には父親と弟に会いに行った。
私が彼女を可愛がっていたからといって、その暮らしのすべてを私に差し出す義理などない。
「でも、あなたが欲しいものを手に入れるために、私が黙って傷つく必要もないでしょう」
ヘルミーネが唇を噛んだ。
「私のことを、妹のようだとおっしゃったのに」
「そう思っていたわ」
「それなら、一度だけでも」
「妹なら、婚約者と寝てもいいの?」
彼女は顔を上げた。
私は続きを言えず、しばらく窓の縁を見つめた。
自分がどれほど怒っているか、そのとき初めてわかった気がした。
家令が、職務規則を開いた。
預かった鍵を利用した私物の無断持ち出し、持ち出しを隠すための虚偽報告。二つとも、彼女が認めた。
留め具は外す際に曲げ、ショールは東屋の石に引っかけたという。留め具が緩んでいたという話も、持ち出しを隠す嘘だったと認めた。
侍女長から、雇用を終了すること、退去までの手順、未払いの給金の説明があった。
真珠とショールは返っている。求める弁済は、曲がった留め具と裂け目の修理代だけにした。
見積もりを取って明細を示し、彼女の生活が立たなくなるような一括払いは求めない。給金から勝手に差し引かず、支払いの方法も書面で決める。
その手続きが進むあいだ、ヘルミーネは私を見ていた。
「紹介状は、書いていただけますか」
「勤務した期間と担当の証明は出します。身の回りの品を安心して任せられるという推薦は、できません」
侍女長が代わりに答えた。
ヘルミーネは、初めて私から視線を外した。
最後に、彼女は弟の名を出した。
弟は母の工房で、織り機の修繕をする職人の徒弟になっている。
「あの子は、何も知りません。父も」
「知っているわ。弟さんの契約も、お父様が利用している支援も、今回の処分とは関係ありません」
私が答えると、彼女の肩がわずかに落ちた。
安堵したのだと思う。
私はその安堵を、許した証しにされないように付け加えた。
「あなたがしたことについては、あなたに返してもらいます」
*
ヘルミーネが屋敷を出たのは、面談の二日後だった。
私は見送りに出なかった。
部屋の窓から、雇いの馬車が門を出るのが見えた。荷物は大きな鞄が二つ。
彼女が来た日は小さな包み一つだった、と考えて、そこでやめた。
八年働いた人に荷物が増えるのは当然だ。
私との日々を、最初から惨めなものだったことにしたくはなかった。
昼過ぎ、新しく担当する侍女が、衣装の相談に来た。
私より年長で、侍女長の下で長く働いてきた人だった。
「今日は、どちらの上着を?」
紺と緑の二着を差し出されて、私は迷った。
これまでならヘルミーネが、こちらがいいです、とすぐに選んだ。私はたいてい、そうね、と答えた。
「……緑を」
「承知しました」
新しい侍女は、余計なことを訊かなかった。
私はその気遣いに救われた。
髪を梳く音の向こうに、古い声が蘇る。
次のお休みに弟へ菓子を持っていくのだと、嬉しそうに話した声。
東屋で私のことを笑った声。
同じ人の声だと、頭ではわかっている。
夕方、工房に行った。
職長は私の目の下を一瞬見ただけで、いつもと同じように染めた糸を並べた。
「この灰青、前回より赤みが強いですね」
自分で口にしてから、そんな小さな違いが目に入ることに驚いた。
職長が糸束を持ち上げる。
「よく気づかれました。染料の乾燥が足りなかったようで」
「注文分には間に合う?」
「こちらは試し染めですから。明日、もう一度やります」
「では私も、明日来ます」
予定が一つできた。
たったそれだけで、今夜、眠る理由ができたように思えた。
*
婚約解消が正式に決まったのは、東屋で二人を見てから一月後だった。
四月の雨が窓を叩く日、両家の代理人が取りまとめた書類に署名した。
不貞を理由とする解消。
契約に定めた違約金。
贈答品の返還と、婚礼準備のうち既に発生した費用の整理。
代理人は一つずつ説明し、同じ損失が違約金と別の請求で重なっていないかも確認した。
私の署名の下に、父が署名した。
七年間の婚約が、これで正式に終わった。
けれど、そこで終わらない話もあった。
「来年度の糸の優先発注ですが」
アルヴィン側の代理人が、資料を一枚出した。
ヴァルベルク子爵領には、紡績を生業にする村がある。婚約を機に、うちの工房はそこで紡がれた糸を優先して仕入れていた。
別に、子爵家の水路事業へ融資する取り決めもあった。
父は、用意していた一覧を示した。
「今年度の発注と、締結済みの融資は契約通り履行する。返済も当初の条件のままだ。婚約を前提に検討していた翌年度の追加融資は、実行しない。優先発注の約束も今期で終了する」
「一度に外されますと、先方の資金計画が」
「そのために既存の契約を守るのです」
私は口を挟んだ。
相手の代理人が、私を見る。
「まだ契約していない分まで、私との結婚を当てにしないでください。糸の品質と価格が合えば、通常の仕入れ先として検討します。その際の窓口は、工房の購買担当に」
多少割高でも、優先して仕入れてきた糸があった。
納期をずらしてほしいと言われて、うちの職人に予定を組み直してもらったこともあった。
いつか家族になる相手だからと、呑み込んできたことだ。
子爵領の職人に、アルヴィンの不貞を償わせたいわけではない。
ただ、彼の家だけを特別に支える理由はなくなった。
すべての説明が終わってから、子爵が私に頭を下げた。
「息子が失ったものを、ようやく理解しかけております」
私は返事をしなかった。
彼が何を失ったと思っているのか、聞きたくなかった。
*
その夜、鏡台に置いていた薔薇の香油を下げてもらった。
アルヴィンが好きだと言った香りだった。
好きなものを捨てているのか、自分に合わないものをやめているのか、わからなかった。
ヘルミーネが選んだリボンは、すぐには片づけられなかった。気に入って使っているものもあったからだ。
新しい侍女に頼んだのは、部屋を全部変えることではなく、香油を一瓶下げることだけだった。
それで十分疲れた。
眠る前に、母の小箱を開いた。
耳飾りは宝石商に預けたままで、くぼみは空いている。
正式な預かり証は、箱の下に置いてあった。
あの二人を見たときの光景が蘇り、私はすぐ蓋を閉じた。
母のものまで触れなくなるのは嫌だった。
嫌なのに、今はまだ、どうすればよいかわからなかった。
枕元の灯りを消す。
涙は出なかった。
眠れないまま夜明けを待つのは、母を失った年にもあった。
少なくとも明日の朝食をどうするかは、自分で決められた。
私は起き上がり、侍女への伝言を一枚書いた。
朝は、庭に面した小さな部屋で食べたい。
蜂蜜を添えた焼きたてのパンを、一つ。
書き終えると、お腹が鳴った。
*
ゲルハルト様が工房を訪れたのは、五月の初めだった。
父とつながりのある交易商会で、北部向けの取引を担当している人だ。辺境伯家の次男だが、うちに来るときは家の紋章より、荷物の明細を持ってくる。
私が顔を合わせるようになったのは二年前の春だった。
「本日は、見本帳の改訂を頼みに来ました」
応接室の卓上に、厚い帳面が載る。
布見本の横に、私が書き込んだ注意事項があった。
「北の冬では、こちらの薄手の織物は外衣に使えません。室内用として売るなら、手触りを前に出したほうがよいかと」
私は見本に触れた。
「外衣に使うなんて、説明していないはずですけれど」
「ええ。ただ、現地の小売店で、織り方が似た別の商品と混同されたようです。こちらの図が、誤解を招きました」
彼は、自分たちの商会が作った挿絵を指で押さえた。
婦人が肩に布を掛け、雪道に立っている絵だった。
「暖炉のそばに立たせたらどうでしょう」
「ずいぶん安く済む訂正ですね」
「説明文の訂正だけでは、また同じことが起きそうですもの」
ゲルハルト様が小さく笑った。
婚約解消以来、男性と向かい合って声を立てずに笑えたのは、初めてだった。
そのあと彼は工房へ行き、職長と実物を確認した。
私の婚約のことには触れなかった。商会を通して正式な通知を受け取っているはずだが、同情も、詮索もなかった。
帰り際、戸口で彼は振り返った。
「来月、北から小売店の仕入れ人が来ます。新しい織物を見てもらえませんか」
「うちの工房の、ですか?」
「はい。今の見本をそのまま持っていくより、織った方の話を直接聞ける機会が欲しい」
彼が言っているのは、仕事の話だった。
それが嬉しかった。
私は、破談を気の毒がられる令嬢としてではなく、工房の責任者として返事ができた。
「職長と相談して、お返事します」
「ぜひ。無理な納期の約束だけは、させないでください」
最後の言葉は、職長に向けられていた。
職長が笑い、私も笑った。
*
六月、フリードリヒから、子爵家との精算が済んだと報告を受けた。
違約金は、子爵個人の保有する王国債を換金して支払われたという。家の事業資金から無理に引き抜かないためだと、代理人の説明にあった。
アルヴィンの家督継承は、保留になった。
彼には弟がいるが、すぐに弟へ替えるとは決まっていない。子爵自身が当主を続ける間、息子に水路の補修計画と領地の会計を担当させると、父への書面に記されていた。
「水路の仕事は、これまでも任されていたのでは?」
私が尋ねると、父は苦い顔をした。
「書類に名が載っていただけだったらしい。今後は現場の担当者と会い、費用と工程を自分で報告するそうだ」
私に領地の仕事ばかりだと不満を漏らしながら、自分は何をしていたのだろうと思った。
私たちが結婚していたら、彼の署名の下にある曖昧な数字を、私が埋めていたのかもしれない。
正式な解消理由は、関係のある家へ必要な範囲で通知した。
相手の家が都合のよい噂だけを流さないよう、双方の代理人が文面を確認したものだ。
そこに侍女の名や、母の形見のことまでは書いていない。
それでもアルヴィンの新しい縁談は、容易には進んでいないと父は言った。
「私が詳しく言わなくても、そうなるのね」
「婚約中の不貞を認めた男を、急いで婿に迎える家は少ない。まして、こちらが資金を出す話も消えた」
「……そう」
父は、私の返事を待っていた。
私は卓上の書面を閉じた。
「工房のことで、相談してもいい?」
父の表情が少し和らいだ。
私は北部から来る仕入れ人の名簿を広げた。
アルヴィンのその後に使うはずだった午後を、ほかのことに使いたかった。
*
ヘルミーネの話は、彼女自身の口から聞くことになった。
ある曇りの日、工房の正門に彼女が来ていると知らされた。
私の許可なく中へは入れない。家令に取り次いでもよいと伝えると、私と短い時間だけ話したいと言っているという。
私は職長の部屋を借り、扉を開けたまま会うことにした。侍女長にも屋敷から来てもらい、同席を頼んだ。
ヘルミーネは、以前、休みの日によく着ていた灰色の服だった。
私の知っている服が、まだ彼女の暮らしにあるのを見て、なぜかほっとした。そのあと、そんなことを気にしてしまう自分に疲れた。
「弟には、会って帰るの?」
「今日は、いいんです」
彼女は両手で鞄を持っていた。
侍女長を見てから、私へ目を戻す。
「アルヴィン様に、もう来ないでほしいと言われました」
私は何も答えなかった。
「最初は、婚約を解消するまでは仕方ないと思っていたんです。私といると、家のことを忘れられるとおっしゃっていたから。でも、お嬢様とのことが終わったら、今度はそれどころじゃないって」
彼女は目を伏せた。
「結婚のお話をしたら、そんな約束はしていないと」
東屋で聞いた甘い声が、一瞬蘇った。
アルヴィンは、妻になる私の目に入らない場所へ彼女を移せばよいと言った。
その言葉を伝えて、彼女をもっと傷つけたい気持ちが、私の中にもあった。
私はそれを、わざわざ口にしなかった。
「それで、私に何を頼みに来たの?」
ヘルミーネは、握っていた鞄から書面を出した。
屋敷の家令が発行した、在職期間の証明だった。
「二軒、面接を受けました。どちらも、以前のお屋敷から推薦がないのはなぜかと訊かれて」
「ええ」
「正直に話すと、貴重品を扱う部屋には置けないと。今は洗濯場で働いています。でも、あの給金では……」
侍女長が書面を一瞥した。
「勤務内容の証明に、足りないところがありましたか」
「そうではありません」
ヘルミーネは私を見た。
その目に、以前と同じものを期待している気配があった。
「戻していただけませんか。お嬢様付きが駄目なら、客室でも、どこでも。アルヴィン様とは、もう会いません」
私には、彼女が何を失ったかがわかった。
屋敷の中に自分の寝床があり、季節ごとの仕事着があり、病気のときには休める。長く勤めて昇給し、故郷の家へ仕送りもできた。
彼女は、そういう生活の上から私の暮らしを羨んでいた。
屋敷へ戻れると思って来たことが、つらかった。
「戻せないわ」
「同じことは、絶対にしません」
「あなたがここにいたら、私は小箱を開けるたびに、また確かめると思う。アルヴィン様と別れたと聞いても、それは変わらない」
ヘルミーネの鼻が赤くなった。
「お嬢様は、私の八年間を全部なかったことにするんですか」
「していないわ。だから働いた期間はその通り証明したでしょう。あなたも、八年あった私との関係を知ったうえで、あの東屋にいたのよね」
彼女は返事をしなかった。
私は時計を見た。次の打ち合わせまで、もう時間がない。
「修理代の分割払いは、取り決めた金額のままで構いません。給金が変わった事情があるなら、家令に相談して。仕事に戻すこととは別に扱います」
ヘルミーネは、在職証明を鞄に戻した。
指が震えて、紙の角が折れた。
以前なら、私が取って、綺麗に伸ばしてやったかもしれない。
「私のほうが、愛されていると思ったんです」
立ち上がるとき、彼女は小さく言った。
「あなたがそう思ったことと、私が許すかどうかは、別の話よ」
私も立った。
彼女が扉を出たあと、侍女長が私を見た。
「お茶をお持ちしましょうか」
「いいえ。少しだけ、ここにいてくれる?」
侍女長は椅子に座り直した。
私が鞄の中の書類を整え終えるまで、何も訊かずに待ってくれた。
*
その日の午後、北部の仕入れ人たちに織物を見せた。
ゲルハルト様は紹介を終えると、説明を私と職長に任せた。
並んだ見本のうち、最も手の込んだ織物の前で、一人が首を傾げる。
「綺麗ですが、売り場では高すぎるかもしれません」
私が提案していた商品だった。
値の張る糸を使い、母の図案を少し変えている。
「婚礼用なら、どうでしょう」
「婚礼用は、近隣で織った布を贈る慣習があります。見慣れない産地のものを、初めての取引で多くは買えません」
言葉に詰まった。
母が好きだった柄で、私も好きだった。
好きなものを断られただけなのに、胸に堪えた。
ゲルハルト様が、横から別の見本を一枚引き出した。
先月、挿絵の訂正を相談した薄手の織物だ。
「暖炉のある部屋なら、使えますね」
仕入れ人が笑う。
私も、その言い方で肩の力が抜けた。
「こちらでしたら、装飾の糸を減らして、洗ったあとの縮みを抑えています。現物を洗った試料もあります」
職長が奥から試料を持ってくる。
そこから話が動き、小口の試験販売が決まった。
客が帰ったあと、私は最初に勧めた布を畳んでいた。
ゲルハルト様が、向かいに立つ。
「残念でしたね」
「ええ。少し、押しすぎました」
「柄は私も好きです。ただ、初めて会う人に大量に買ってもらうには、先方の事情を知らなすぎました」
「慰めては、くださらないのね」
「必要ですか?」
顔を上げると、彼は困ったように笑っていた。
私は、少し考えた。
「……今日は、いらないわ」
「では、次に何を持っていくか考えましょう」
その言葉が、ひどくありがたかった。
失敗をなかったことにも、私だけの失敗にもせず、次の相談をしてくれる。
私は布の端を揃え、卓上へ置いた。
「見本を、もう少し小さくしてはどうかしら。持ち帰って、手持ちの家具や服と合わせられるように」
「いいですね。貸し出すか、売るか」
「最初の一組は商会で管理していただける?」
「数を決めましょう。職人の手がかかった見本ですから、大切に扱います」
ゲルハルト様は見本の角を揃え、一枚ずつ重ねた。
その手つきを見ながら、私は貸し出し用の帳面を開いた。
「……一枚ずつ、番号を振ります」
「助かります」
私たちは、そのあと日暮れまで話し込んだ。
*
七月から、新しい販路のために会う機会が増えた。
商会の利益と工房の利益は、いつもぴたりと合うわけではない。
輸送費を誰が持つかで揉めた日もあったし、彼の提案する納期では職人の休みが足りないと、私が断ったこともある。
「荷馬車は、その日を逃すと十日後になります」
「では十日後で。急ぎの分だけ別便にすると、結局そちらの負担も増えるでしょう」
「秋の市に間に合わないかもしれません」
「無理に間に合わせて、次の年に注文を受けられなくなるほうが困ります」
彼はしばらく予定表を見て、それから鉛筆で線を引いた。
「全部を持っていくつもりで考えていました。先行分を半数にします」
「それなら、こちらも合わせられます」
話が決まったあと、私は自分が早口になっていたことに気づいた。
彼は怒っていなかった。
相手を言い負かしたとか、我慢してもらったとか、そういう疲れ方をしない。
工房の人たちも、彼が来ると少し気楽そうだった。
買い手を案内する前に、仕事場へ入ってよいか職長に訊く。糸束を踏みそうになると、慌てて大きな体を引っ込める。
職人の手を取って褒めたりはしないが、次の注文に改善点をきちんと反映する。
ある日、染め上がりを待っているあいだに、私は尋ねた。
「どうして、交易のお仕事を?」
「兄ほど、領地の中にいるのが得意ではありませんでした」
「兄君は、領地に?」
「はい。私は外へ出るたびに、別の国の橋や市場ばかり見ていたので。父に、それなら見たものを役立てろと言われました」
家の名前を使うのは商談の最初だけで、あとは自分で仕事を取るのだという。
商会に損を出して叱られたことも、荷馬車を手配し直すため一晩かかったことも、彼は淡々と話した。
「立派な理由ではなくて、残念でしたか」
「いいえ。うまくいったお話だけより、聞きたいです」
彼が笑った。
私は、彼が笑うと右の目尻が少し深くなることに気づいた。
帰りの馬車でも、彼の目尻を思い出した。
八月の終わり、試験販売の結果が届いた。
室内用の織物は半分以上が売れ、次の注文も来ていた。婚礼用に勧めた布は、見本を見た一軒の店から、少量だけ取り寄せたいと言われた。
「少量ですね」
私が言うと、ゲルハルト様は頷いた。
「少量です。来年も買ってくれたら、嬉しい量です」
「ええ。とても」
私は手紙をもう一度読んだ。
母の柄を、知らない土地の誰かが手に取る。
それを一緒に喜べる人が、卓の向こうにいた。
*
九月、修理の済んだ耳飾りを、ようやく自分で着けた。
留め具の修理そのものは、五月には終わっていた。
箱を開けて眺められるようになり、掌に載せられるようになっても、身に着けるところまでは進めなかった。
その朝は工房で、秋の交易市へ出す品の最終確認があった。
特別な日でもない。けれど、箱の中の真珠を見ているうちに、今日は着けたいと思った。
侍女が髪を上げる。
鏡の中の耳元に、白い光が二つ戻った。
「いかがですか」
「……ええ。これでお願い」
襟元には、濃い緑の上着を合わせた。
母が見たら、その色はずいぶん強いと言ったかもしれない。
それから、似合うわ、と言ってくれただろうか。
工房では、ゲルハルト様が荷札を確認していた。
私の挨拶に顔を上げ、目元を和らげる。
「今日は、いつもと雰囲気が違いますね」
耳飾りに気づいたのだとわかって、私は片耳に触れた。
「母にもらったものなの。しばらく、着けられずにいて」
「……そうでしたか」
そのままでは、修理に時間がかかったと思わせたかもしれない。
私は言葉を探し、結局、簡単に説明した。
「嫌なことがあったとき、これも一緒にあったから。見ると、その日を思い出してしまって」
彼は荷札を置いた。
東屋で何があったか、誰が着けていたかは話さなかった。
そこまで聞かれることもなかった。
「今日、着けようと思われたのは?」
「あなたに見せる新しい布が、この緑だったから。母なら、この真珠を合わせると思ったの」
ゲルハルト様は少し間を置いて、頷いた。
「よく合っています。ご自分で、そう選べたのですね」
「ええ」
それ以上は、言わないでいてくれた。
似合うという言葉が、誰かと比べるために使われなかった。
私は耳から手を離し、彼の前に新しい見本を広げた。
その日、仕事の間に東屋を思い出したのは、一度だけだった。
帰宅して耳飾りを外したときには、緑の布と、顔を上げた彼の目を先に思い出した。
*
十月の交易市は、王都から馬車で二日ほどの町で開かれた。
私は父と、工房の職長たちと一緒に出向いた。
ゲルハルト様の商会が借りた展示室には、北部からの客も来ていた。
午前中は声が嗄れるほど話した。
見本を貸し出し、納期を確かめ、小さな注文を幾つも受けた。
母の図案を使った布を、ある婦人が長い時間眺めていた。
「娘の部屋に、掛けてやりたいの」
そう言ってくれたとき、私は一度、裏の部屋へ引っ込んだ。
嬉しいときにも、人前にいられなくなることがあるのだと知った。
夕方、店じまいを終えると、父が広場を歩いてくると出ていった。
私は椅子に座って、靴の中で足の指を動かしていた。
ゲルハルト様が入口から顔を出す。
「焼き林檎が売られていますが、いかがですか」
「ここで?」
「外で。歩くのが大変でしたら、持ってきます」
「……少しだけなら、歩きたいです」
彼は私の侍女にも声をかけ、三人で広場へ出た。
店の前で熱い皿を受け取ると、私が持つ前に、露店の主人へ布を一枚頼んでくれた。
「持ち帰ると思ったのですが。これでは歩けませんね」
彼が皿を見下ろす。
林檎はたっぷり蜜を掛けられ、中央に焼き菓子まで添えられていた。
「立ったまま食べるのは、お嫌ですか」
「いいえ。こぼさない自信がないだけです」
私は吹き出した。
少し離れた石の縁に腰を下ろす。侍女は見える位置で、自分の林檎を受け取っていた。
匙を入れると、柔らかい果肉から湯気が上がった。
私が息を吹きかけている間に、ゲルハルト様は一口食べてしまい、しばらく黙った。
「熱かったのですね」
「……はい」
今度は声を出して笑ってしまった。
彼も皿を持ったまま笑った。
広場の向こうで楽師が笛を吹いていた。
仕事の相談をしなくても、沈黙が困らなかった。
焼き林檎を食べ終えたあとも、私は立ち上がりたくなかった。
「今日は、嬉しそうでしたね」
彼が言った。
「ええ。母の布を見てくださる人がいたから」
「マルグリット様が、今まで作り続けてこられた布です」
私は皿の縁に残った蜜を見た。
その言葉を、すぐには受け取れなかった。
「母のものだと思っていると、自分の失敗も許せなくなるの。台無しにしたらどうしようと」
「変えたところもあるのでしょう」
「糸と、幅と……柄も少し」
「私は、今のものを見て注文しました」
顔を上げた。
ゲルハルト様はこちらを見ていた。
胸が鳴って、聞き取れるほどなのではないかと心配になった。
「また、こうして何か食べに来ませんか」
彼の声が、少し低くなった。
「取引の話が、ない日にも」
返事をする前に笑ってしまいそうで、私は一度、唇を閉じた。
それから、頷いた。
「次は、冷めるのを待てるものにしましょう」
ゲルハルト様が困った顔をしたあと、笑った。
帰り道、彼は私の歩幅に合わせた。
私はそのことを、宿に戻ってから何度も思い返した。
*
冬が来るまでに、仕事以外で三度会った。
父も交えた食事や、侍女を伴っての散歩だった。
私の好きなものを尋ねる人に、私はすぐ答えられないことがあった。
それでも彼は、勝手に決めず、次に会う日まで待ってくれた。
十二月、アルヴィンから面会を求める書状が届いた。
代理人を通したものだった。
私は一度だけ、父と家令のいる場で会うことを了承した。これから先も連絡を続けられないよう、私の言葉で断りたかった。
彼は以前より痩せていた。
服はよく整っていたが、爪の端に小さな傷があった。現場に出ているのだろう。
戻りたいとは思わなかった。
「久しぶりだね」
「ご用件を、伺います」
「ヘルミーネとは別れた。君にも聞こえていると思う」
「ええ」
「僕は、何もわかっていなかった」
彼は両手を膝に置いた。
「水路のことも、帳簿のことも、君なら片づけられると思っていた。君がどれだけやっていたか、今はわかる」
「そうですか」
「父に叱られたから言っているんじゃない。君の手紙を読み直したんだ。仕入れのことも、領地のことも、僕に何度も相談してくれていた」
私が真面目すぎるのではなかった。
返事をもらえない相談を、ずっと一人で抱えていたのだ。
彼が今それをわかったとしても、あのころの私が楽になるわけではない。
「もう一度、始められないか」
アルヴィンは卓上へ、小さな花束を置いた。
淡い色の薔薇だった。
母を亡くした年によく持ってきてくれた花と、同じだった。
「君が許してくれるまで待つ。今すぐ結婚でなくてもいい」
「お断りします」
彼は花から手を離せなかった。
「僕が変わっても?」
「あなたが変わることは、あなたのこれからに役立つでしょう。私が戻る約束をしなければ、変われませんか」
彼が黙った。
私は花束を押し返さず、家令を見た。受け取らずに持ち帰ってもらうためだ。
「あなたを好きだったことは、あります。母を亡くした年に、そばにいてくださって嬉しかった。そのことまで嘘だったとは思っていません」
「それなら」
「だからこそ、もう十分です。残っている良い記憶を、あなたを許す理由に使わないでください」
彼の肩がゆっくり下がった。
「ローゼンフェルト家の方がいるからか」
「私が婚約を解消したとき、誰かと結ばれる当てはありませんでした。あのとき、お断りした答えが今も変わらないだけです」
家令が花束を持ち上げた。
アルヴィンは立ち上がり、父に頭を下げた。
最後に私を見たが、名前を呼びはしなかった。
彼が帰ったあと、私は窓を少し開けた。
冷たい風が入って、卓上の紙の端を揺らした。
花の香りは、ほとんど残っていなかった。
*
ヘルミーネから手紙が届いたのも、その冬だった。
修理代の最後の支払いに添えられていたので、家令が別にして渡してくれた。
謝罪と、暮らしの近況が書かれていた。
洗濯場で、染みを見落とさず仕分ける仕事を任されるようになったという。
私はそのくだりを読んで、昔から布の扱いは丁寧だったことを思い出した。
あの丁寧な手で、母のショールを扱ってほしかった。
最後の一行は、いつか直接お詫びをしたい、だった。
私は封筒に戻し、机の引き出しへしまった。
返事は書かなかった。
彼女が自分の暮らしを続けていけるなら、それでよかった。そこへ私が戻る必要はなかった。
*
年が明けてから、私はゲルハルト様にアルヴィンとの面会のことを話した。
彼は途中で口を挟まず、聞いてくれた。
「言っておかないと、あとでほかからお聞きになったら嫌だと思って」
「話してくださって、ありがとうございます」
「気にならないのですか」
「気になります」
率直な返事に、私は顔を上げた。
「その方が戻りたいとおっしゃったと聞けば、落ち着くわけではありません。ただ、断ったと教えてくださった方へ、何度も同じことを確かめたくはないので」
私は膝の上の手を見た。
彼の前では、うまく言えないことも口にしてよいと思えた。
「あなたと会う日が、楽しみなの」
「はい」
「でも、また誰かを好きになるのが、怖い日もあるわ」
ゲルハルト様は頷いた。
「待てる、とは言えます。怖くさせないと断言できるほど、私は出来た人間ではありません」
「……ええ」
「意見も違いますし、失敗もします。そのとき、話を聞いてもらえる相手でいたいです。私からも、聞かせてほしいと頼みます」
冬の庭へ出たとき、私は自分から彼の手を取った。
手袋越しでも、指が長いとわかった。
彼が力を込める前に、私を見た。
私は頷いた。
嬉しくて、少し怖かった。
それでも、離したいとは思わなかった。
*
翌春、ゲルハルト様から、結婚を考えてほしいと言われた。
返事の前に、私は父の書斎で、家のことを話した。
エルデン伯爵家の後継者には、既に私を届け出ている。この国では娘が継ぐこともできるが、婚姻後の家名と領地の管理は、両家で明確にしておかなければならない。
工房は私が経営を続ける。
伯爵位を継ぐのも私で、夫が代わりに当主になるわけではない。
「はい。承知しています」
彼は私の説明を、一つずつ聞いた。
「ローゼンフェルト家とは、お話を?」
「父と兄には、私がそちらへ入ることについて話しました。家としての条件は、代理人にも確認してもらいたいですが、私自身はエルデンを名乗りたいと思っています」
住む場所、商会の仕事、互いが領地を離れる期間。
子が生まれた場合の継承も、決められることは書面にした。
私は、こういう話を嫌がられないだけで、こんなに安心できるのかと思った。
両家の確認と書面の取り交わしが済んだ日、父が席を立った。
「庭の薔薇が、咲き始めている」
そう言って、家令と一緒に部屋を出た。
窓の外に、庭師がいるのが見える。
私はゲルハルト様を誘い、庭へ出た。
東屋の見えるところで、足が少し鈍った。
彼が立ち止まる。
私は首を振って、別の道を指した。
「あちらへ。母が好きだった木があるの」
白い花のついた木の下で、彼は小箱を取り出した。
真珠ではなかった。小さな緑の石が、金の輪に留められていた。
「初めてあなたと長く話した日に、緑の糸の色を直していらしたのを覚えています」
三年前の工房だった。
私は、彼がその日を覚えているとは思わなかった。
「あの日は、ずいぶんうるさく言ったでしょう」
「ええ。違いを説明してくださったので、私にもわかりました」
彼は笑って、それから真面目な顔になった。
「仕事の話がない日にも、あなたと会いたいと思いました。今は、話すことが何もない夜にも、一緒にいたいと思っています。マルグリット様。私と結婚してください」
私は差し出された手に、自分の手を重ねた。
「はい。私も、あなたと暮らしたいです」
指輪が、指の根元に収まった。
少し動かすと、緑の石に花の白が映った。
ゲルハルト様が私の耳元を見て、目を和らげた。
母の真珠を、今日は着けてきていた。
私は片方にそっと触れたあと、彼を見上げた。
「似合う?」
「とても」
返事が早くて、私は笑った。
彼が私の頬に触れ、身を屈める。
私は目を閉じた。
帰り道、白い花の木をもう一度振り返った。
あの場所で今日交わした言葉を、私はきっと何度も思い出す。
窓辺では、父がこちらを見ていた。
重ねた手を少し上げると、父は頷いて、眩しそうに目を細めた。
私はゲルハルト様の手を引いた。
今日のお茶には、焼き林檎を頼んである。
今度は二人とも、冷めるまで待てるだろうか。
そんなことを話しながら、私たちは一緒に家へ戻った。
~完~




