第9話「直すと決めた手」
前の人生で最後に引いた図面は、自分の机の上で途切れていた。
数日間、部屋にこもっていた。修繕作業には出ていない。ジョルジュ棟梁には、リュシーを通じて作業の一時中断を伝えてもらった。
朝日が窓から差し込んでいる。目を開けたまま、天井を見ていた。
前世の最後の日のことを、久しぶりに思い出していた。築四十年の集合住宅の改修図面を引いていた。締め切りが三件重なっていた。胸が痛かったが、手を止めなかった。図面を引く手だけが動いていて、体はとうに限界を超えていた。
机の上に突っ伏したまま、目が覚めなかった。
窓の外に目をやる。朝日の中に、塔が見えた。修繕中の足場が組まれたまま、傾いた尖塔が光を受けている。
あのときも、自分を修繕の対象に入れなかった。体が壊れかけている兆候は全部知っていた。不整脈も、慢性的な疲労も、階段で息が切れることも。建物なら即座に危険と判断する状態を、自分のことだけは後回しにした。
そして今、同じことをしている。崩れかけた梁の下に飛び込んだ。公爵に腕を掴まれなければ、どうなっていたかわからない。
だが——あのとき、選べなかった別の選択が、今はある。
机の上に報告書が残っている。数日前に書斎に持っていくはずだった、修繕の進捗報告。そのまま置いてある。
手を伸ばした。報告書を取り、中身を読み返す。自分の字で書かれた修繕の工程記録。壁面の補修状況、足場の交換記録、構造体の安定性の確認結果。
この仕事を、まだ終わらせていない。
立ち上がった。窓の外の塔を、もう一度見る。傾いたまま朝日に照らされている、あの塔。嘘が隠されていた壁。秘密が埋まっていた構造体。それでもまだ立っている建物。
私は部屋を出た。
書斎の扉の前に立った。
深呼吸をする。手の中に報告書がある。数日分の遅れた報告。それだけではない。伝えなければならないことがある。
扉を叩いた。
「入れ」
中に入る。グランヴェル公爵は机の前にいた。立ち上がりかけて、止まった。私を見る灰色の目に、数日前の書斎での場面が映っている。取引の駒だったという事実を告げたときの、弁明を飲み込んだ横顔。
「グランヴェル公爵。修繕の報告が遅れまして、申し訳ございません」
報告書を差し出す。公爵はそれを受け取ったが、目は報告書ではなく私を見ていた。
「それと——お伝えしたいことがあります」
声が震えそうになるのを、息を吸って抑えた。
「この塔を直したいです。あなたの家を直したい」
公爵の目が微かに見開かれた。
「契約だからではありません。債務の条件でもありません。私が、そう決めたからです」
言い切った。声が廊下に響くほど大きくなっていたかもしれない。自分でもわからなかった。ただ、この言葉は契約書のどこにも書かれていない。感情条項のない契約の、外側にある言葉だった。
公爵は黙っていた。長い沈黙だった。報告書を持ったまま、椅子に座りもせず、立ったまま私を見ている。
「……俺のためではなく」
声が低かった。普段の短い口調とは違う、一語ずつ選ぶような速さ。
「君のために残ってほしい」
その言葉の意味を、理解するのに数秒かかった。
俺のためではなく。罪悪感でも、取引の埋め合わせでもなく。君のために。
公爵の手が、報告書を机に置いた。それから窓の方に顔を向け、また私に戻した。感情を言葉にすることに慣れていない人が、それでも言葉を選んだ結果の、不器用な一文だった。
「……ありがとうございます」
それしか言えなかった。もっと気の利いた返事があるべきだったかもしれない。けれど胸がいっぱいで、技術者の声で抑えることもできなかった。
公爵が小さく頷いた。それから、いつもの短い口調に戻って言った。
「報告は後で読む。先に塔を見てこい」
「はい」
一礼して執務室を出る。廊下に出た瞬間、目の奥が熱くなった。泣くつもりはなかった。泣いていなかった。ただ、視界がにじんだ。
塔に向かう途中、資材倉庫の前を通った。
扉が開いている。中を覗くと、ジョルジュ棟梁が石材の確認をしていた。作業中断の間も、資材の管理は続けてくれていたらしい。
「棟梁。お待たせしました」
「先生。来たか」
ジョルジュ棟梁が振り向いた。私の顔を見て、何か察したのだろう。何も聞かずに道具袋を肩に担いだ。
「足場は全部新しいのに替えてある。梁の仮止めも持っている。いつでもやれるぞ」
「ありがとうございます」
塔に向かって歩き出す。並んで歩きながら、棟梁がぽつりと言った。
「先生。この腕を取り柄なしと言った奴は、目が腐ってるな」
唐突だった。私は足を止めた。
「商人がな、この前また来て言ってたぞ。侯爵邸の建物がひどいことになっているらしい。壁は割れる、雨は漏る、修繕士は捕まらない。先代の頃は何ともなかったのにと、職人たちが嘆いているそうだ」
兄上——オリヴィエが管理する侯爵邸。私が予防的に手を入れていた建物。私がいなくなって、劣化が表面化し始めている。
「先生がいなくなったから、あの邸は壊れ始めたんだ。それがわからん人間は、建物を見る目がないのと同じだ。腕で人を見る目もない」
ジョルジュ棟梁は前を向いたまま言った。独り言のような声だった。だが、その言葉は私の胸のいちばん古い傷に触れた。
取り柄なし。兄が貼ったその札は、十年以上私の中に貼りついていた。この世界で目覚めてからずっと、誰にも剥がしてもらえなかった。
自分でも剥がせなかった。
けれど今、職人の目がそれを見ている。建物と同じ目で、私の腕を見ている。腕で人を見ると言ったこの人が、取り柄なしの札を否定した。
目頭が熱くなった。涙が出そうだった。こらえきれなかった。
笑った。
泣きながら笑うという、自分でもよくわからない顔になった。ジョルジュ棟梁は横目でちらりとこちらを見て、鼻を鳴らしただけだった。
塔の入口で、マルセルさんとすれ違った。
足を止めかけた。数日前の書斎の場面が蘇る。あの人が管理していた書簡のこと。修繕を妨害していた理由。すべてを知った上で、今、この人の前に立っている。
マルセルさんは一礼した。いつもの慇懃な物腰だった。だが、その横を通り抜けるとき、気づいた。
資材倉庫から塔への通路に、修繕用の石材が並べてあった。作業再開に必要な分量が、すでに運び出されている。私が来る前に、誰かが準備していた。
ジョルジュ棟梁の手配ではない。棟梁は倉庫の中で資材確認をしていたのだから、運び出したのは別の人間だ。
振り返る。マルセルさんの背中が本館に向かって遠ざかっていく。
妨害をやめた。それだけではない。黙って、資材を通路に出していた。
何も言わなかった。私も、何も聞かなかった。
塔の中に入る。新しい足場。仮止めされた梁。数日前に中断した作業の続きが、そこにあった。
鑿を手に取る。石の粉で白くなるこの手を、私はもう否定しない。
この塔を直す。この家を直す。それは契約でも取引でも恩返しでもなく、私が選んだことだ。
そして——壊れたままの自分のことも、少しずつ、手を入れていいのかもしれない。
誰かがそれを望んでくれている。この手を取り柄なしと呼ばなかった人たちが、ここにいる。




