第8話「嘘のない場所」
「若様は、知っていたはずだ」
マルセルさんの声だった。書斎の扉越しに、抑えきれない響きが廊下に漏れている。
私は足を止めた。修繕作業の報告書を手に、書斎に向かう途中だった。毎朝この時間に前日の作業内容を報告する。いつもの動線。いつもの手順。
だが扉の向こうから聞こえてくる声は、いつもの公爵邸ではなかった。
「あの文書が壁の中にあることを、若様はご存じだったのではないですか。粉飾のことも、密約のことも」
マルセルさんの声が震えていた。あの慇懃な物腰が完全に崩れている。昨日、塔で文書筒が見つかったときに蒼白になった顔が思い浮かんだ。
「知っていた」
公爵の声。低く、短い。
「全部ではない。だが、壁の中に何かがあることは——薄々、感づいていた」
廊下に立ち尽くしていた。聞くつもりはなかった。だが足が動かない。
「ではなぜ、壁を開けることをお許しになったのです。修繕を止めることもできたはずです」
「止められなかった」
公爵の声に、初めて聞く苦さが混じった。
「あの人が——アニエスが、直せると言ったんだ。壊すしかないと思っていた塔を、直せると。俺にはそれを止める言葉がなかった」
沈黙が落ちた。
私は報告書を胸に抱えたまま、息を殺していた。戻るべきだった。聞いてはいけない会話だった。だが次の言葉が、私をその場に縫い止めた。
「それに——あの契約のことも、いずれ話さなければならなかった」
「契約、とは」
自分の声が出ていた。
扉の向こうが静まり返った。私は報告書を持ったまま、扉を開けた。
書斎の中に、二人がいた。公爵は机の前に立ち、マルセルさんは窓際にいた。二人の顔が同時にこちらを向いた。
「今の話を聞いていました。契約のこととは何ですか」
公爵の灰色の目が揺れた。マルセルさんが一歩踏み出しかけ、止まった。
「グランヴェル公爵。教えてください」
声は静かだった。怒りはまだ形を持っていなかった。ただ、何か重いものが胸の底に沈んでいく感覚があった。
公爵が口を開いた。
「この契約結婚は——セリエール侯爵家の、グランヴェル公爵家に対する債務の一部を減免する条件として結ばれた」
言葉が一つずつ落ちてくる。
「お前がここに住むことが、侯爵家の債務を軽くする。それが契約の裏にある取り決めだ」
手の中の報告書が、微かに震えた。
私がここに住むことが、侯爵家の債務の減免条件。つまり私は——人身担保だったということか。兄のオリヴィエが私を送り出した理由は、取り柄のない妹を厄介払いしたからではなく、債務を軽くするための取引だった。
「私は、取引の駒だったのですか」
声が平坦になっていた。感情が遠のいている。建物の診断をしているときの自分に似ていた。事実を事実として確認する、あの冷静さ。
「そうだ」
公爵が答えた。目を逸らさなかった。
「だが——」
言いかけて、止まった。口を閉じ、顎を引いた。「だが」の先を飲み込んだ。弁明しないことを選んだ顔だった。
私は報告書を机の上に置いた。丁寧に、端を揃えて。手が震えていた。それを悟られたくなかった。
「失礼いたします」
一礼して、書斎を出た。
部屋に戻り、扉を閉めた。
椅子に座る。窓の外に塔が見える。傾いた尖塔。私が修繕を進めてきた塔。壁を開け、文書を見つけ、この家の秘密を掘り出した塔。
あの塔を直すことに意味があると思っていた。この手の仕事が認められて、ここに居場所ができると信じていた。
けれど最初から、私がここにいる理由は決まっていた。侯爵家の債務を減免するための駒。契約の条件。兄が差し出した取引材料。
修繕の許可も、資材の手配も、灯りを運んでくれたことも——全部、罪悪感の裏返しだったのだろうか。取引で連れてきた相手に、せめて自由にさせてやろうという。
窓枠に手をつく。塔の輪郭がぼやけた。目が熱い。だが涙は出なかった。
怒っている。確かに怒っている。騙されていた。知らないのは私だけだった。公爵も、マルセルさんも、兄も——全員が知っていて、私だけが知らなかった。
けれど同時に、あの書斎での公爵の顔が消えない。「だが」と言いかけて飲み込んだ横顔。弁明しないことを選んだ。言い訳をしなかった。
あの人が壊したがっていた理由がわかった。父の粉飾、隣国との密約、そして契約結婚の裏事情。全部、先代が遺した嘘の体系だった。嘘に押し潰されて、壊す以外の方法が見えなくなった人の目だった。
扉が叩かれた。
「アニエス様、お食事をお持ちしました」
リュシーの声だった。扉を開けると、盆を手に立っている。私の顔を見て、一瞬だけ表情が曇った。だがすぐにいつもの笑顔に戻って、盆を机に置いた。
「あの、アニエス様」
リュシーが振り返り、声を落とした。
「公爵様、ずっと廊下にいらっしゃいます」
「廊下に?」
「書斎の前の廊下です。アニエス様のお部屋の方を見て、でも来ないで、ずっと立ってて。もう一時間くらい」
私は何も言えなかった。
リュシーが出ていった後、食事には手をつけなかった。
書斎ではマルセルさんの声が聞こえていた。
あの人は今、何を話しているのだろう。扉越しに聞こえたのは途中までだった。あの後、公爵とマルセルさんの間で何があったのか。
しばらくして、廊下から靴音が聞こえた。二人分。書斎の方角から。
足音が止まった。私の部屋の前ではない。少し離れた場所。それから、マルセルさんの声が微かに届いた。
「若様を守りたかったのです」
声が掠れていた。あの慇懃な敬語が、崩れたまま戻っていない。
「届いた書簡も、外に出る情報も、すべて私が——先代のお恥を世に出すわけにはいかないと。若様にこれ以上の重荷を背負わせるわけにはいかないと」
手紙だ。侯爵邸から一通も届かなかった便り。あれもマルセルさんが選別していたのか。安全管理の名目で修繕を妨害したことも、資材の調達を遅らせたことも——すべて、この家を守るためだった。
「守り方を間違えた」
公爵の声だった。
「——俺もだ」
足音が遠ざかっていった。
私は部屋の中で、窓の外の塔を見ていた。
怒りはまだある。消えていない。知らなかったのは私だけだったという事実は変わらない。
だが、あの声を聞いてしまった。マルセルさんの掠れた声。公爵の短い自責。二人とも、嘘の中で苦しんでいた。先代が壁の中に隠した嘘が、生きている人間を縛り続けていた。
建物と同じだ。歪みの原因は一箇所でも、影響は構造体全体に広がる。基礎が沈めば壁にひびが入り、壁がひび割れれば窓枠が歪み、窓枠が歪めば雨が入り、内部が腐る。先代の嘘が基礎の沈下だとすれば、公爵の沈黙もマルセルさんの隠蔽も、兄の取引も——全部、歪みが波及した結果だ。
怒りの中に、理解が混じっている。それが苦しかった。単純に怒れるなら楽だった。裏切られたと叫んで、出ていくことができたなら。
でも私は、あの人の顔に浮かんだものを見てしまった。弁明を飲み込んだ横顔に、悪意はなかった。あったのは——自分の弱さへの嫌悪だった。言えなかったことへの。
窓の外の塔が、夕日に照らされている。傾いたまま、それでも立っている。
あの塔をどうするか、まだ決めていない。修繕を続けるのか。この家を出るのか。
今は答えが出ない。ただ、完全に断ち切れないものがある。あの人が叫んだ名前の響きも、廊下に立ち続けているという事実も、消すことができない。
机の上の報告書が、そのまま残っている。今日提出するはずだった、修繕の進捗。
手を伸ばしかけて、止めた。今日は、この手を動かす気力がなかった。




