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私が直せるのは建物だけですが、契約結婚の相手は何故か私の心まで修繕してきます  作者: 月雅


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第7話「崩れた梁の下」

頭上で、木が裂ける音がした。


反射的に見上げる。塔の上階、天井を支える梁の一本が、ゆっくりと軋んでいた。木材の繊維が引き裂かれる低い音が、石壁に反響する。


「棟梁、離れて!」


叫んだ。ジョルジュ棟梁が作業台から飛び退く。同時に、梁が中央から折れた。


太い木材が傾き、壁面に激突する。衝撃で石の粉が舞い上がり、視界が白くなった。梁の片端が床に落ち、もう片端が壁に食い込んだまま止まっている。


粉塵の中で、私は壁を見ていた。


梁が壁に食い込んだ場所。そこは中層よりさらに奥——構造体の深部だった。昨日までの解体では到達できなかった位置。通常の修繕工程では、この深度まで壁を開ける必要はない。


梁の衝撃で、深部の石材が数個、砕けて落ちていた。その奥に、暗い空間が覗いている。


足が動いていた。


崩れかけた梁の下をくぐり、壁に近づく。手を伸ばす。深部の空洞の中に、指先が何かに触れた。革の感触。昨日と同じ——文書筒だ。


取り出さなければ。梁がもう一度動けば、壁ごと潰れる。今しか——


「アニエス!」


背後から腕を掴まれた。強い力で引き戻される。足が床を滑り、体が後ろに倒れかけた。支えたのは、私の腕を掴んだ手だった。


グランヴェル公爵の手だった。


振り返る。灰色の目が、すぐ近くにあった。普段の静けさはなかった。呼吸が荒い。階段を駆け上がってきたのだろう、額に汗が浮いている。


アニエス、と。


この人は今、私を名前で呼んだ。


「何をしている」


公爵の声は低く、震えていた。怒りなのか、恐怖なのか。


「梁の下に——構造体の深部に空洞があります。文書筒が——」


「そんなものはいい」


遮られた。公爵の手が私の腕をまだ掴んでいる。指に力がこもっている。


「また自分を壊して他人のものを直すのか」


声が裂けるように響いた。石壁が反響を返す。


私は口を閉じた。


この人の言葉が、胸の奥の何かを正確に突いていた。壊れかけた梁の下に飛び込んだのは、文書を救うためだった。壁が崩れる前に取り出さなければと思った。建物の中の物を守るために。自分の体のことは、考えなかった。


前世でもそうだった。築四十年の小学校の耐震診断で、余震の中に飛び込んだことがある。調査機材を回収するために。同僚に怒鳴られた。同じ言葉だった。自分を壊すな、と。


「……申し訳ございません」


声が小さくなった。公爵の手がゆっくりと離れる。指の跡が、腕に残っている気がした。


ジョルジュ棟梁が粉塵の向こうから歩いてきた。梁の状態を確認し、壁の損傷箇所を見ている。


「先生。梁は完全に折れたが、周囲の構造には波及していない。仮支保工が効いている」


「ありがとうございます」


技術者の声に戻る。だが視線は、梁が壁に食い込んだ場所に向いていた。


崩落で露出した深部の空洞。そこに文書筒がある。梁が食い込んだ衝撃で、空洞の入り口が開いた。通常の修繕工程では決して到達しない位置だった。梁が崩落しなければ、見つからなかった。


「棟梁、あの空洞から文書筒を回収する必要があります。梁を固定してからであれば安全に取り出せますか」


「ああ。梁を仮止めすれば手が届く。だが——」


ジョルジュ棟梁が公爵を見た。公爵は壁を見つめていた。その横顔には、昨日の執務室で見たのと同じ——いや、それより深い何かが刻まれていた。


「……やれ」


公爵が言った。昨日と同じ言葉。だが声の温度が違う。諦めでも覚悟でもない。追い詰められた人間の、最後の呼気のような重さだった。


ジョルジュ棟梁が梁を仮止めし、私が空洞に手を入れた。指が文書筒に触れる。昨日のものより一回り大きい。封蝋の紋章は——グランヴェル家のものではなかった。


見たことのない紋章だった。


文書筒を開ける。中の書面には、二つの紋章が並んでいた。一つはグランヴェル家。もう一つは、その見知らぬ紋章。


書面の形式は契約書だった。日付は十年前。グランヴェル公爵家と——ヴァルスタイン公国。領土の一部を担保とした借款の契約。先代公爵の署名と、ヴァルスタイン公国側の署名が並んでいる。


領土を担保にした、隣国との密約。


昨日の粉飾帳簿の断片とは、規模が違った。これは公爵家の内部問題ではない。隣国との契約だ。露見すれば外交問題になる。


「グランヴェル公爵」


私は書面を手に、公爵の方を向いた。


「これは——先代と隣国の間で交わされた契約書です。領土の一部を担保とした借款の」


公爵の顔から表情が消えた。


書面を受け取る手が、微かに震えていた。目が文字の上を走る。読み終えるまでの沈黙が、長かった。


ジョルジュ棟梁が静かに場を離れ、階下に降りていった。職人の直感で、これ以上ここにいるべきではないと判断したのだろう。


塔の上階に、二人だけが残された。粉塵がゆっくりと沈んでいく。折れた梁が壁に食い込んだまま、沈黙の中で軋んでいた。


「あなたは、これを知っていたのですか」


問うた。昨日の帳簿の粉飾。今日の密約文書。壁を開けることに表情を強張らせたあの瞬間。壁の中に何かがあると、この人は感づいていたのではないか。


公爵は答えなかった。


書面を手に、窓のない壁を見つめている。灰色の目に映っているのは、石壁ではなく、もっと遠い何かだった。


沈黙が続いた。


私は待った。建物の調査と同じだ。壁に問いかけたら、返答を待つ。無理にこじ開けてはいけない。構造が壊れる。


だが返答はなかった。公爵はただ黙って、先代が残した文書を握りしめていた。


階段を降りる。塔を出て、外の空気を吸った。


あの人が叫んだ名前が、まだ耳の奥で鳴っている。アニエス、と。それまで「ルヴェール嬢」だった呼び方が、あの瞬間だけ変わった。咄嗟に出た声だった。取り繕う余裕のない、剥き出しの声。


だが、同時に見えてしまった。名前を呼んだ後、密約文書を受け取ったときの、あの目。怯えていた。私に知られることを。


怒るべきなのかもしれない。壁の中に何があるか薄々知りながら、修繕を許可した。壁を開ける報告に表情を強張らせながら、それでも「やれ」と言った。


信じたいと思っていた。この人の「好きにしろ」という言葉を。夜中に灯りを運んでくれた手を。建物ではなく私を見ていたあの目を。


その裏に、隠していたものがあった。


手を見る。石の粉と、梁の木片で汚れた指。さっき公爵に掴まれた腕が、まだ熱い。


この手は壊れかけた梁の下に飛び込んだ。自分の体より文書を優先した。いつも通りだ。壊れたものを直すためなら自分を差し出す。


あの人はそれを見て、怒った。また自分を壊すのか、と。


怒りの中に、恐怖があった。私が怪我をすることへの。そして私が真実を知ることへの。二つの恐怖が、あの声に混じっていた。


密約文書の政治的な意味は、私には計りきれない。だが建物の構造なら読める。この塔に隠されていた秘密は、壁の中層の粉飾帳簿では終わらなかった。もっと深い場所に、もっと大きな歪みが埋まっていた。


マルセルさんはどこまで知っていたのだろう。昨日の動揺は帳簿の粉飾に対するものだった。だがこの密約については——あの反応の中に、密約の存在を知っている素振りはなかった。


公爵は、何を知っていて、何を隠していたのか。


答えはまだ、あの人の沈黙の中にある。

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