第6話「壁の中の声」
アニエスの鑿が、最後の目地を砕いた。
細かな石の粉が舞い上がる。布で口元を覆いながら、私は壁の断面を見つめた。
北面の壁。築年の違う、不自然に厚い壁。ジョルジュ棟梁と二週間かけて準備を整え、今日ようやく中層部の解体に入った。
仮支保工は万全だ。周囲の構造体に荷重が逃げるよう、ジョルジュ棟梁が丁寧に支えを組んでくれている。新しい足場の木材はしっかりと乾燥した良材で、あの日のような崩落の心配はない。
「先生、ここの目地が最後だ」
ジョルジュ棟梁が壁の反対側から声をかけた。私が鑿で表層を崩し、棟梁が石材を外す。二人一組の手順を、この数日で何度も繰り返してきた。
石を一つ外す。また一つ。壁の内部が露わになっていく。
「棟梁。あの足場の木材のこと、確認できましたか」
作業の合間に尋ねた。先日崩れた古い足場の件だ。
「ああ。芯まで腐っていた。十年放置すればああなる。外は乾いていても、中は湿気で朽ちるんだ。誰が何をしたわけでもない。ただの経年劣化だ」
ジョルジュ棟梁は石材を下ろしながら、淡々と言った。職人の目で見た事実。それ以上でも以下でもない判定だった。
十年の放置が招いた劣化。それはこの塔全体に言えることだった。
壁の内側、表層の石材を外した奥に、本来あるはずのない空間が見えた。
「棟梁」
「ああ。見える」
二人で壁の開口部に灯りを向けた。石材と石材の間に、拳ほどの隙間がある。壁を厚くした際に意図的に設けられた空間だ。構造的には不要——むしろ壁の強度を落とす。何かを納めるために作られた空洞。
その中に、細長い筒が横たわっていた。
革で包まれ、封蝋で口を塞がれた文書筒。革の表面には埃が積もっているが、封蝋の紋章はまだ判別できる。
グランヴェル家の紋だった。
私は手を伸ばし、慎重に筒を取り出した。革は乾燥して硬くなっているが、封蝋が湿気を防いでいたのだろう、中身は守られているように見えた。
「先生。中身を確認するなら、ここではなく公爵様のもとに持っていくべきだ」
ジョルジュ棟梁が言った。政治には疎い人だが、公爵家の紋章が押された文書を勝手に開けることの意味はわかっている。
「そうですね」
文書筒を抱え、塔を出た。
本館に向かう途中、胸の中で二つの感覚がせめぎ合っていた。
建物の構造体の中から出てきた文書。壁を厚くしてまで隠されていたもの。先代公爵が修繕を中止した理由。ジョルジュ棟梁が八年前に聞かされた突然の凍結命令。
すべてが繋がりかけている。だが私は技術者だ。壁を開けるのは修繕のためであり、隠し事を暴くためではない。
それでも。
壊れた構造の原因を追う手と、隠された真実を掘り出す手は、同じ手だった。
グランヴェル公爵の執務室の扉を叩く。
「入れ」
中に入ると、公爵は窓際に立っていた。私の手にある文書筒を見た瞬間、灰色の目が変わった。
驚きではない。もっと深い何か。来るべきものが来た、というような。
「グランヴェル公爵。北面の壁の中層を解体したところ、構造体の内部から文書筒が出てきました」
机の上に文書筒を置く。公爵はしばらくそれを見つめていた。手を伸ばさない。
「封蝋の紋章はグランヴェル家のものです。公爵家のお品ですので、お渡しいたします」
「——開けろ」
短い指示だった。公爵は窓際から動かない。
封蝋を慎重に剥がす。革の筒から、折り畳まれた紙が数枚出てきた。
一枚目は書簡の形式だった。筆跡は古く、インクが少し褪せている。日付は八年前。宛名はない。
読み進める。
帳簿の記載。数字の羅列。収支の一覧。だがその数字は——
「この邸の負債は——帳簿と合っていない」
声が漏れた。
二枚目以降は帳簿の写しだった。公爵家の正式な帳簿とは別の、もう一つの帳簿。収入は実際より多く記載され、支出の一部が消えている。差額は——巨額だった。
粉飾だ。帳簿が二重に存在していた。
「グランヴェル公爵。これは先代のお手元の帳簿の写しと思われます。公式の帳簿と数字が一致しません」
公爵は文書を受け取った。紙を見る目が動かない。読んでいるのか、読めないでいるのか。
長い沈黙の後、公爵は紙を机に置いた。
「それを、見てはなりません!」
声は背後から飛んできた。
振り返ると、執務室の扉にマルセルさんが立っていた。いつもの慇懃な物腰はなかった。顔が蒼白で、目が大きく見開かれている。
「アニエス様、その文書は——若様、なぜ見せたのです。あれは——あれは——」
声が震えていた。この人がこれほど取り乱すのを、初めて見た。
「マルセル」
公爵の声は低く、静かだった。
「もう遅い」
三つの言葉だった。マルセルさんの体から力が抜けるのが見えた。扉の枠に手をつき、かろうじて立っている。
「若様……」
「壁を開けた。中身が出た。それだけのことだ」
公爵は机に両手をつき、文書を見下ろしていた。その横顔に怒りはなかった。疲弊と、それから——長い間待っていたものがようやく来たような、奇妙な静けさがあった。
私はその場に立ち尽くしていた。
先代公爵が帳簿を粉飾していた。その証拠を壁の中に隠した。マルセルさんはそれを知っていた。だからこの人は、修繕を——壁を開けることを、恐れていた。
鍵を握りしめていた手。資材の調達を遅らせた理由。安全管理の名目で立ち入りを制限した意味。すべてが一本の線で繋がった。
だが同時に、新しい疑問が生まれた。グランヴェル公爵は、この文書のことをどこまで知っていたのだろう。壁を開ける報告をしたとき、あの一瞬の強張り。薄々感づいていたのではないか。
「グランヴェル公爵」
声をかけた。公爵が顔を上げる。
「壁の中層はここまでですが、構造体の奥に、さらに空洞があります。今日の解体ではまだ到達していません」
技術者の報告だった。壁の構造を調べる過程で、叩いた音の反響から判断して、中層より奥——構造体の深部に、もう一つの空間がある可能性が高い。
公爵の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……今日はここまでにしろ」
「承知いたしました」
一礼して執務室を出る。廊下で、マルセルさんとすれ違った。扉の脇に立ったまま、動けずにいたらしい。
「マルセルさん」
呼びかけると、マルセルさんは顔を上げた。いつもの端正な表情に戻ろうとしていたが、目の奥がまだ揺れていた。
「……失礼をいたしました、アニエス様。取り乱しました」
声は平静を装っていた。だが握られた手の甲に、血管が浮き出ている。
「お気になさらず」
それだけ言って、私はその場を離れた。
部屋に戻ると、窓の外に塔が見えた。傾いた尖塔。その中の壁を、今日、私は開けた。
建物は嘘をつかない。壁を開ければ、中にあるものが出てくる。隠しても、石は正直に経年を語り、モルタルは配合を偽れない。
人は、どうだろう。
マルセルさんの蒼白な顔。公爵の静かすぎる声。二人とも、何かを抱えている。壁の中の文書のように、外からは見えない場所に。
そして壁の奥には、まだ到達していない空洞がある。今日見つけた帳簿の断片は、序章に過ぎないのかもしれない。
修繕という行為が、隠されていたものを暴く鍵になっている。私はただ壁を直そうとしただけだ。それなのに、鑿を入れるたびにこの家の秘密が一つずつ剥がれていく。
小さな行為が、思いもしない場所に届いている。
手を見る。石の粉で白くなった指。この手は建物を直す手だ。それだけのはずだった。
なのに今、この手が触れたものは、建物の傷だけではなくなりつつある。




