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私が直せるのは建物だけですが、契約結婚の相手は何故か私の心まで修繕してきます  作者: 月雅


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第5話「届かない便り」

なぜ、侯爵邸から何の便りもないのだろう。


朝食を終えて部屋に戻り、机の上を見る。図面の束と製図道具。手紙は一通もない。


公爵邸に来てから一月半が過ぎた。侯爵邸にいた頃、建物の管理を手伝ってくれていた職人たちとは簡単なやり取りがあった。次姉からも、たまに短い手紙が届いていた。それが、ここに来てからは一通もない。


誰も書いてこないのか。それとも——届いていないのか。


マルセルさんに尋ねてみることにした。公爵邸では公式の書簡はすべて執事長が受領するとリュシーから聞いている。私宛の私信も、同じ経路を辿るはずだった。


廊下でマルセルさんを見つけた。


「マルセルさん、少しよろしいでしょうか。私宛のお手紙は届いていますか」


マルセルさんは足を止め、丁寧に一礼した。


「アニエス様宛のお便りでございますか。確認いたしましたが、現在のところ届いておりません」


「一通も?」


「はい。一通も。馬便の遅延も考えられますが、今のところは何も」


淀みのない受け答えだった。表情にも不自然な動きはない。ただ、私の質問を受けた瞬間——目の奥が一瞬だけ硬くなったように見えたのは、気のせいだろうか。


「わかりました。ありがとうございます」


それ以上追及する根拠がなかった。届いていないと言われれば、それまでだ。侯爵邸との距離は馬で三日。商人の往来なら一週間。一月半の間に一通も届かないのは不自然だが、兄のオリヴィエが私に手紙を書く理由がないことも事実だった。次姉にしても、嫁ぎ先からの手紙がこちらに届くには時間がかかる。


——考えすぎかもしれない。


だが、どこかに引っかかりが残った。


塔に向かう途中、資材倉庫の前を通った。


扉が開いている。中を覗くと、壁の修繕に使う補修用の石材が積まれていた。先日ジョルジュ棟梁と確認した調達リストに基づいた資材——だが、量が多い。


リストに載せた石材に加えて、壁面補修用の特殊なモルタルの原材料が木箱に入って並んでいる。これは私が発注していない。ジョルジュ棟梁にも頼んでいない。北面の壁を開ける工事で必要になるものだが、まだ発注の段階ではなかった。


「リュシー」


ちょうど通りかかったリュシーを呼び止めた。


「この倉庫の資材、誰が手配したかわかる?」


「えっ? ジョルジュさんじゃないんですか?」


「ジョルジュ棟梁のリストにはなかったものが入ってるの」


リュシーが首をかしげる。


「うーん……倉庫の鍵を持ってるのは執事長とジョルジュさんと、あと公爵様くらいですけど。執事長が手配したとも思えないし」


確かに、マルセルさんが修繕の資材を自ら手配するとは考えにくい。むしろこれまで調達を遅らせる側だった。ジョルジュ棟梁でもない。となると——。


仕事上、必要になる資材を先回りで手配できるのは、修繕計画の全体図面を見た人間だけだ。あの図面を見たのは、私とジョルジュ棟梁とグランヴェル公爵の三人。


合理的な判断だ、と思うことにした。修繕が円滑に進むための環境整備。それ以上の意味を読み取る必要はない。


そう思いながらも、胸の奥にある温かさが少しだけ広がったのを感じた。


塔の二階。ジョルジュ棟梁と北面の壁の解体準備を進めていた。


足場を組む。壁を開ける工事のために、まず周囲の構造に影響が出ないよう仮支保工を設置する必要がある。古い木材の足場を確認しながら、ジョルジュ棟梁が作業台を組み立てていく。


私は壁の上部を確認するために足場に上がった。木材の表面を確かめる。表面は乾いているが、断面の色が暗い。


「ジョルジュ棟梁、この木材——」


言いかけた瞬間だった。


足元の木材が音を立てた。乾いた割裂音。足場の横木が中央から折れ、私の体が傾いた。


手が反射的に壁を掴む。指が目地に食い込む。足元は空間——折れた木材が下に落ちていく音がした。


「先生!」


ジョルジュ棟梁が手を伸ばし、私の腕を掴んだ。引き上げられる。足が別の横木に着く。安定した足場に移るまでの数秒が長く感じた。


「大丈夫か」


「はい。ありがとうございます」


息が荒い。掌が痛い。目地の石で擦りむいている。だがそれよりも——


「木材が腐ってる。表面は乾いていたけど、芯が駄目になっていた」


折れた木材の断面を見下ろす。外側は正常に見えるが、内部が黒く変色している。十年以上放置された足場。表面だけ乾いて、芯は湿気で朽ちていた。


「ルヴェール嬢!」


塔の入口から声がした。グランヴェル公爵が駆け込んでくる。足場の下の木材の破片を見て、それから上にいる私を見上げた。


「何があった」


「足場の木材が経年劣化で折れました。大事には至っていません」


私は足場を降りながら答えた。降り切ったところで、公爵が私の前に立った。距離が近い。


「怪我は」


「手を少し擦りむいただけです。建物には問題ありません。足場を新しい木材に交換すれば——」


「建物の話をしていない」


低い声だった。


公爵の目がまっすぐにこちらを見ている。普段の短い言葉とは違う、抑えたような重さがあった。


「怪我はないかと聞いた」


私は口を閉じた。


公爵の手が伸びて、私の右手を取った。掌の擦り傷を確認している。指先が傷の周囲に触れて、血が滲んでいないか見ている。


「……すぐ手当てをしろ」


手を離して、公爵は踵を返した。ジョルジュ棟梁に「足場の木材を全て交換しろ。費用は俺が出す」と短く指示して、塔を出ていった。


ジョルジュ棟梁が私を見た。


「先生。あの人は建物の心配で走ってきたんじゃないぞ」


「……わかっています」


わかっている。わかっているが、それを認めると、何かが変わってしまう気がした。


公爵が去った後、ジョルジュ棟梁が折れた木材の断面を改めて確認した。


「この壁の内側、先生の言う通りだ。叩いた音が周囲と明らかに違う。この厚さは構造的に不要だ。何かを入れるために壁を厚くしている」


技術者の声に戻る。壁の内部構造。不自然な厚み。修繕のためではない増厚。


「壁を開ける手順は確定しています。足場を新しくして、仮支保工を入れてから解体に入ります」


「ああ。やれるな」


ジョルジュ棟梁が頷いた。


塔を出て、本館に戻る。手の傷にリュシーが布を巻いてくれた。


「大丈夫ですか、アニエス様。公爵様、すごい勢いで走っていきましたよ。塔の方から音がしたって」


「うん。足場が古くて折れただけ。大したことはないの」


「大したことないって……手、血が出てるじゃないですか」


リュシーに叱られながら、私は窓の外を見ていた。


あの言葉がまだ耳に残っている。建物の話をしていない。


私はいつも建物の話をする。壊れた箇所の報告、修繕の手順、資材の確認。建物を間に挟んでしか、人と向き合えない。


前世でもそうだった。何百棟もの建物を直して、自分の体が壊れていることには気づかなかった。気づいていても、建物の方が先だと思っていた。


グランヴェル公爵は——建物ではなく私を見ていた。


それがどういう意味なのか、考えるのが怖い。考えてしまえば、この関係が契約の範囲を超えてしまう。


壁の中には何かがある。それは確定した。あとは開けるだけだ。


手の傷が、じんと熱を持っている。建物の傷なら修繕の手順がわかる。自分の傷は——どう扱えばいいのか、まだわからないままだった。

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