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私が直せるのは建物だけですが、契約結婚の相手は何故か私の心まで修繕してきます  作者: 月雅


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第4話「灯りと図面」

製図台に向かう私の手が、三本目の蝋燭に火を移した。


深夜の部屋。机の上には、この二週間で描き溜めた図面が何枚も重なっている。塔の各階平面図、壁面展開図、基礎断面図。そしていま取り組んでいるのは、修繕計画の全体工程表だった。


基礎補強を第一工程とし、壁面クラックの補修を第二工程、躯体歪みの矯正を第三工程とする。北面の壁——あの築年が違う壁——は第二工程の中で開ける必要がある。構造的に、あの壁を避けて修繕を進めることはできない。壁の内側にクラックが走っている可能性が高く、補修するには一度中を確認しなければならない。


鉛筆を走らせる。工程ごとの必要資材、職人の日数、手順の順序。前世で何度も作成した改修工程表の要領で、頭の中の知識をこの世界の条件に読み替えていく。


肩が凝っていた。首を回す。窓の外はまだ暗い。何時だろう。蝋燭の残りから逆算すると、三本目に火を移してから少なくとも二時間は経っている。


もう少し。あと一枚で全体工程が繋がる。


目が霞む。鉛筆を持つ指の感覚が鈍くなっている。でもあと少し——


意識が途切れた。


額に冷たい感触があった。


紙だ。図面の上に突っ伏していた。頬に鉛筆の線が写っている。蝋燭は燃え尽きかけていたが、代わりに、机の端に新しい燭台が一つ置かれていた。


そして肩に、重い外套がかかっていた。


私のものではない。生地が厚く、仕立てが良い。微かに革と、書斎の紙の匂いがする。


誰が。いつ。


外套を手に取る。大きい。男物だ。この邸で、私の部屋に入れる男性は限られている。


「——アニエス様! おはようございます!」


扉が開いて、リュシーが朝食の盆を持って入ってきた。私の肩の外套を見て、目を丸くする。


「あれ、それ公爵様の——あっ!」


リュシーが盆を机に置き、声を潜めた。が、潜まっていなかった。


「公爵様、またアニエス様の部屋に灯り持っていってましたよ! 夜中に廊下で見かけたんです。燭台を持って、こっちの方に」


また。


「また、というのは」


「前にもあったんです! アニエス様が夜遅くまで図面引いてる日に、公爵様が燭台持って廊下をうろうろしてて。あたし、夜回りの時に二回見てます」


私は机の端の燭台を見た。新しい蝋燭が据えてある。そして、肩の外套。


灯りを足してくれていた。私が気づかないうちに。いつから。


「あの、リュシー。このことは——」


「誰にも言いませんよ! でも公爵様がアニエス様のこと気にしてるのは確かです。あの方、普段は誰のことも気にしないのに」


リュシーは盆の上の朝食を示して「ちゃんと食べてくださいね」と言い残して出ていった。


外套を畳む。返さなければ。


だが先に、修繕計画を提出する方が先だ。昨夜のうちに全体工程表は完成していた。自分が意識を失う前に、鉛筆は最後の線を引き終えていたらしい。私が倒れても手だけは仕事を終わらせている——我ながら、前世から何も変わっていない。


グランヴェル公爵の執務室。外套を腕にかけ、図面の束を携えて扉を叩いた。


「入れ」


中に入ると、公爵は立っていた。窓際で、領地の帳簿を手に何かを確認している。私を見て、一瞬——外套に目が行った。すぐに視線を逸らした。


「グランヴェル公爵。修繕計画の全体工程が完成いたしました。ご確認いただけますか」


「ああ」


机の前に立ち、図面を広げる。全体工程表、各階の修繕図面、壁面展開図。公爵は帳簿を置き、図面の前に来た。


「第一工程は基礎補強。ジョルジュ棟梁と確認した手順で進めます。第二工程で壁面の補修に入りますが——ここで一つ、ご報告があります」


公爵の目が図面の上を追っている。


「北面の壁を開ける必要があります」


公爵の手が止まった。


図面を指していた指が、一瞬だけ硬直したのを私は見た。すぐに動きを再開したが、その一瞬の強張りは確かにあった。


「この壁だけ築年が異なり、構造的に不自然な厚さがあります。内部にクラックが走っている可能性を否定できません。壁を開けて内部の状態を確認しない限り、修繕の安全性を保証できません」


技術的な報告だった。事実だけを述べた。だが公爵の表情に走ったものは、技術的な懸念ではなかった。


建物の歪みには必ず原因がある。壁のクラックは応力の偏りを示し、基礎の沈下は地盤の問題を示す。構造物の異常は、必ずどこかの原因に繋がっている。


人の表情も、同じだろうか。


この人の顔に走った一瞬の強張りには、原因がある。壁を開けることに対する、技術とは別の理由がある。


「……やれ」


公爵が言った。短く。顔を図面に向けたまま。


「壁を開ける許可をいただけますか」


「今そう言った。必要な工程なら、やれ」


声に感情が混じっていた。諦めか、覚悟か、判断がつかない。だが許可は明確だった。


「ありがとうございます。それと——これを」


外套を差し出す。公爵の目が一瞬だけ泳いだ。


「灯りも、ありがとうございました」


「……邸の修繕に必要な作業だ。暗い中で図面を引いて目を悪くされても困る」


早口だった。普段の短い口調とは違う、言い訳じみた速さ。外套を受け取る手が少しだけ乱暴で、それから公爵は窓の方を向いた。


「体は壊すな。修繕が止まる」


背を向けたまま、それだけ言った。


仕事の話だ。修繕のためだ。それはわかっている。


だが、夜中に灯りを運び、眠り込んだ私に外套をかけた人の言葉としては——少し、温度がある気がした。


「承知いたしました。お体のことも気をつけます」


一礼して退室する。廊下に出てから、自分の鳩尾のあたりが温かいことに気づいた。


仕事として必要だから。修繕が止まると困るから。それが理由だと言われた。合理的で、筋が通っている。


でも、合理性だけでは説明がつかないことがある。夜中に燭台を持って廊下を歩く公爵の姿は——帳簿の数字だけを見ている人の行動ではない。


この人には壁を開けたくない理由がある。それでも許可を出した。なぜだろう。何を抱えているのだろう。


建物を通じて、私はこの人を少しずつ知り始めている。塔の傾きの原因を追うように、この人の中の歪みの原因にも、手が伸びかけている。


——それは修繕の範囲を超えている。


わかっている。私が直せるのは建物だけだ。人の心に踏み込む資格はない。


それでも。


あの一瞬の強張りが、壁のクラックのように頭から離れなかった。原因を突き止めたい。構造を理解したい。それが建物であれ人であれ、歪みを見つけたら目を逸らせない性分なのだ。


部屋に戻ると、机の上に図面が広がったままだった。昨夜の作業の跡。インクの染みと鉛筆の粉。そして——外套が置かれていた場所に、微かな温もりの記憶。


誰かが私の仕事を見ていた。暗い部屋で図面を引き続ける私のために、灯りを足してくれていた。


それがどれほど久しぶりのことか、私はまだ言葉にできなかった。

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