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私が直せるのは建物だけですが、契約結婚の相手は何故か私の心まで修繕してきます  作者: 月雅


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第2話「線を引く朝」

直してもいい、と言われたわけではない。でも——


蝋燭の灯りの下、私の手は止まらなかった。


夜中の部屋。机の上に広げた紙に、塔の北面基礎の断面図を引いている。昨日の夕方、外壁を一周しただけで得た情報を、頭の中の前世の記憶と照らし合わせながら。


基礎幅の推定値から不同沈下の進行度を逆算する。北東側の地盤が軟弱であれば、アンダーピニング工法で基礎を補強できる。壁のクラックは、基礎が安定すれば進行が止まる。窓枠の変形も躯体の歪みに起因するものだから、基礎と壁を先に直せば——


「アニエス様っ?」


扉が開いた。リュシーが燭台を手に立っていた。目を丸くしている。


「こんな時間に何を——って、それ、図面ですか?」


「ごめんなさい、起こしてしまった?」


「いえ、夜回りの途中で灯りが見えたから気になって。すごい、これ全部あの塔の?」


リュシーが机を覗き込む。基礎の断面図、壁面の展開図、クラックの分布図。一晩で三枚。私の手は、一度動き出すと止め方を知らない。


「アニエス様って、建物のことすっごく詳しいんですね。どこで勉強したんですか?」


「幼い頃から、建物が好きで。侯爵邸でも建物の管理を少し手伝っていたの」


嘘ではない。セリエール侯爵邸の建物管理を非公式に担っていたのは本当だ。ただ、その知識の本当の出所は——言えない。言ったところで信じてもらえるはずもない。


「侯爵邸の管理を? アニエス様が?」


「非公式にね。兄上は私のことを取り柄なしと思っていたから、正式な仕事ではなかったけれど」


口にしてから、少し後悔した。けれどリュシーの表情は同情ではなく、率直な怒りだった。


「取り柄なしって——こんな図面が引けるのに? お兄様、目が悪いんじゃないですか?」


思わず笑ってしまった。リュシーは真顔で首をかしげている。


「あ、そういえば!」


リュシーが声を弾ませた。


「この前、領に来た商人が言ってたんです。セリエール侯爵邸の職人さんたちが困ってるって。壁にひびが入ったとか、雨漏りが止まらないとか。修繕士に頼もうにも何年待ちかわからないって」


手が止まった。


侯爵邸の壁のひび。雨漏り。それは私が予防的に手を打っていた箇所だ。定期的に目地の補修を入れ、排水路の詰まりを確認し、屋根材の劣化を早期に交換していた。私がいなくなれば——。


「大変そうですよね。修繕士って本当に少ないんですって」


リュシーは何気なく言っただけだろう。だが私の胸に、妙な痛みが走った。


あの家にいた意味は、あったのだろうか。いや、今考えることではない。


「リュシー、ありがとう。もう寝るね」


「はい! でもアニエス様も早く休んでくださいね」


リュシーが去った後、私は図面を見つめた。蝋燭の炎が揺れて、紙の上の線が影になる。


直すと決めたわけではない。まだ何も。ただ手が動いただけだ。


——本当に?


自分に問い返す。昨日、塔の基礎に手を当てた瞬間から、私はもう決めていたのではないか。


翌朝、私はグランヴェル公爵の執務室の前に立っていた。


三枚の図面を革鞄に入れ、深呼吸を一つ。扉を叩く。


「入れ」


短い許可。中に入ると、グランヴェル公爵は机に向かっていた。書類の山。帳簿が何冊も開いている。昨日の夕方と同じ上着を着ている——寝ていないのか。


「グランヴェル公爵。お時間をいただけますでしょうか」


「何だ」


「塔の件です」


公爵の手が止まった。羽根ペンを置き、灰色の目がこちらを見る。


「昨日の目視診断の結果を基に、修繕計画の概案を作成いたしました。ご覧いただけますか」


革鞄から図面を取り出し、机の端に広げる。公爵は無言で図面を見た。


「基礎の補強、壁面のクラック補修、躯体の歪み矯正。この三つを順に行えば、塔は修繕できます。倒壊の危険も解消されます」


「修繕。壊すのではなく」


「はい。建替えの場合、概算で石材・職人工賃を含めて相当な費用がかかります。修繕であれば、その十分の一以下で済みます」


公爵の目が図面から私に移った。


「十分の一」


「基礎のアンダーピニングに使う石材と、壁面の補修材、それに石工の工賃。見積もりはこちらに」


三枚目の紙を差し出す。概算の数字を並べた一覧。前世で何百回と作った見積書の要領で、この世界の石材価格と職人の日当を概算した。セリエール侯爵邸で建物管理をしていた頃の相場感が役に立った。


公爵はしばらく数字を見つめていた。


「これを、昨日の夜に?」


「はい」


「……一晩で」


沈黙が落ちた。公爵は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。何かを考えている。壊すつもりだったと言った塔。その修繕に金を出すかどうか。


「石工がいる」


公爵が言った。


「領内にジョルジュという石工棟梁がいる。腕は確かだ。そいつに話を通す」


私は一瞬、言葉を失った。許可が出た。それだけではない。職人の手配まで。


「ただし」


公爵が立ち上がった。机の向こうから、まっすぐにこちらを見る。


「好きにしろ」


それだけ言って、公爵は帳簿に目を戻した。


好きにしろ。突き放すようで、その実——許可としてはこれ以上なく明確だった。私は図面を丁寧にまとめ、一礼して執務室を出た。


廊下を歩いていると、角を曲がったところでマルセルさんと出くわした。


「アニエス様。少しよろしいでしょうか」


穏やかな声だった。だが目は笑っていない。


「はい、何でしょう」


「塔の修繕をご提案なさったと伺いました。若様もお認めになったとのこと。ですが、安全管理上の観点から、一つお願いがございます」


マルセルさんは姿勢を正したまま続けた。


「あの塔は十年以上手つかずの状態です。内部の構造がどこまで劣化しているか、誰にもわかりません。アニエス様お一人での立ち入りは、恐れながらお控えいただきたく存じます」


丁寧な物腰。理路整然とした理由。安全管理。反論の余地がないように見える。


だが昨日、この人が塔の鍵を握りしめていたときの指の白さを、私は忘れていない。安全管理は本当の理由だろうか。それとも、塔に近づかせたくない別の理由があるのだろうか。


——今はわからない。だが、ここで対立するのは得策ではない。


「ごもっともです、マルセルさん。では、こうしてはいかがでしょう。作業中は必ず職人と同行します。グランヴェル公爵が手配してくださる石工棟梁と一緒であれば、安全上の問題はないかと存じます」


マルセルさんの表情が微かに動いた。断る理由を探しているように見えた。だが私の提案は筋が通っている。公爵が許可し、職人が同行する。安全管理の名目で拒否する根拠がない。


「……承知いたしました。くれぐれもお気をつけくださいませ」


一礼して去るマルセルさんの背中を見送る。


足音が遠ざかるのを待って、私は小さく息を吐いた。


部屋に戻ると、リュシーがお茶を用意してくれていた。


「どうでした? 公爵様、何ておっしゃいました?」


「好きにしろ、と」


「えっ、それだけ?」


「それだけ。でも、石工棟梁の手配もしてくださるって」


リュシーが目を輝かせた。


「公爵様が自分から職人を! あの方、普段は何も頼んでもいないのに——すごいですね、アニエス様」


窓の外に目をやる。塔が見える。朝の光の中で、傾いた輪郭がくっきりと浮かんでいる。


好きにしろ。あの言葉は諦めだったのか、それとも別の何かだったのか。壊すつもりだった塔の修繕を、なぜ止めなかったのか。


わからないことが多い。公爵のこと。マルセルさんのこと。この邸に漂う、触れてはいけないもののような空気。


でも一つだけ、はっきりしていることがある。


直すと決めたのは、私の意思だ。


契約で来た。一年で終わる。ここにいられる理由を作らなければと焦っている自分がいることも知っている。


それでも、あの塔を前にして図面を引いた手は、恐怖でも義務でもなく、ただ「直したい」という衝動で動いていた。


机の上の図面に手を置く。乾いたインクの感触。まっすぐな線の連なり。


この手が覚えている仕事を、今度はこの世界で。


塔の内部に何があるのか、まだわからない。壁の向こうに何が隠されているのかも。だが、まず直す。直しながら、この建物が抱えているものを読んでいく。


建物は正直だ。歪みには必ず原因がある。


——人の心も、そうだろうか。


窓越しに見える傾いた塔を、私はじっと見つめていた。

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