第10話「あの橋を直しましょう」
塔の最上階の窓が、初めて朝日を通した。
光の筋が石の床に落ちている。埃が舞い上がり、金色の粒のように輝いた。板で塞がれていた窓を外し、枠を補修し、ガラスを嵌め直したのは昨日のことだ。数週間かけた修繕の主要工程が、この窓の開放で一つの区切りを迎えた。
「先生。やったな」
ジョルジュ棟梁が隣に立っていた。太い腕を組み、窓から差す光を目を細めて見ている。
「はい。棟梁のおかげです」
「わしは手を動かしただけだ。設計と段取りは全部あんたの頭から出てきた」
基礎の補強から始まった工事は、壁面のクラック補修、躯体の歪み矯正と進み、最後の仕上げ工程に入っている。傾きの進行は止まった。構造体は安定している。あとは内装と細部の仕上げが残るだけだ。
階段を上がってくる足音が聞こえた。
シルヴァンが最上階に姿を現した。窓から差す朝日の中に立ち止まり、光に照らされた空間を見回している。
「開いたのか」
「はい。主要工程が完了しました」
シルヴァンの灰色の目が、窓の外に向いた。最上階からは公爵領の全景が見渡せる。丘陵地帯に広がる畑と林、その間を縫う川、そして川に架かる石造りの橋。
「あの橋を直しましょう」
口にしてから、自分でも驚いた。塔の修繕が終わったばかりなのに、もう次を見ている。けれどそれは衝動ではなかった。窓から見える領地の全景の中に、補修が必要な箇所がいくつも見えていた。橋の欄干が傾いている。石材の目地が痩せている。このまま放置すれば、数年で通行に支障が出る。
シルヴァンが私を見た。それから、窓の外の橋に目を戻した。
「ああ。だが、先に休め」
短い返答だった。だがその声に、以前の「好きにしろ」とは違う響きがあった。突き放すのではなく、受け止めた上で言っている。
「……はい」
ジョルジュ棟梁が鼻を鳴らした。「まず塔の仕上げを終わらせてからだな」と言い添えて、道具袋を担ぎ直し階段を降りていった。
塔の最上階に、二人だけが残った。
朝日が石の壁を温めている。傾いたまま放置されていた塔が、光を通している。この場所に最後に光が入ったのは、十年以上前のことだろう。
「シルヴァン」
私を見た。呼ばれたことに気づくのに、一瞬かかったようだった。灰色の目がわずかに見開かれ、それから——静かに、笑った。
口角がほんの少しだけ上がる、小さな変化だった。だがこの人が笑うのを、私は初めて見た。
「もう一度言ってくれ」
「シルヴァン」
二度目は、自分でも驚くほど自然に出た。名前を呼ぶことが、もう特別なことではなくなっている。
シルヴァンは窓枠に手をつき、外を見た。領地の風景を見ているのか、それとも別の何かを見ているのか。
「この塔を壊すつもりだった」
「知っています」
「壊せば、全部なかったことにできると思っていた。親父の嘘も、負債も、壁の中のものも。全部砕いて、なかったことに」
「でも、なかったことにはならなかった」
「ああ。——お前が壁を開けた」
沈黙が流れた。重い沈黙ではなかった。朝日の温度がある、穏やかな静けさだった。
「壊すより、直す方がずっと手間がかかる。金もかかる。時間もかかる。だが——」
シルヴァンが窓から私に視線を戻した。
「直した方がいい、と。お前に教わった」
私は何も言えなかった。技術者の声では受け止められない言葉だった。ただ、窓から入る光が温かかった。
本館に戻る途中、廊下でマルセルさんが待っていた。
いつもの執事服。皺のない仕立て。銀混じりの髪をきちんと撫でつけた、端正な佇まい。だが、目の色が違っていた。
「アニエス様。少々お時間をいただけますか」
「はい。何でしょう」
マルセルさんは姿勢を正した。それから、深く頭を下げた。
腰が九十度まで折れるのを、私は見ていた。この人がここまで頭を下げるのを、見たことがなかった。
「お力を、お借りしたい」
声が低く、はっきりとしていた。慇懃な前置きも、婉曲な言い回しもなかった。
「この邸には、塔以外にも修繕が必要な箇所が数多くございます。若様の——シルヴァンの代になってから、手が回らなかった場所がいくつも。私の力だけでは、とても」
頭を上げたマルセルさんの目は、あの書斎の日の動揺とは違っていた。覚悟を決めた人の目だった。
「マルセルさん。顔を上げてください」
「ですが——」
「書簡のことも、資材のことも、全部知っています。でも、あなたがこの家を守ろうとしていたことも知っています」
マルセルさんの唇が、微かに震えた。すぐに引き結ばれた。三十年この家に仕えた人の、矜持が震えを押さえている。
「修繕箇所の一覧を作ってください。優先順位は私がつけます。ジョルジュ棟梁と三人で、工程を組みましょう」
「……かしこまりました」
マルセルさんが頭を上げた。目の奥が赤かったが、声は執事長のそれに戻っていた。
「アニエス様。——ありがとうございます」
一礼して、マルセルさんは廊下を去っていった。足音が規則正しく遠ざかる。いつもの足音だった。だが、背中が少しだけ軽く見えた。
部屋に戻ると、リュシーがお茶を用意してくれていた。
「アニエス様! 塔の工事、終わったんですね! さっきジョルジュさんが嬉しそうに帰っていきました。あの人が嬉しそうなの、初めて見ましたよ」
「ありがとう、リュシー。あなたにもたくさん助けてもらったわ」
「あたしは何もしてないですよ! お茶淹れてただけで」
リュシーは笑って、それからふと声を落とした。
「あのですね、アニエス様。また商人が来てて、言ってたんです。セリエール侯爵邸の話がだいぶ広まってるみたいで。修繕士を何年も待ってるのに捕まらないって、社交界でも噂になってるらしくて。お兄様、大変みたいですよ」
兄上——オリヴィエのことだった。私が予防的に手を入れていた建物の劣化が、社交界にまで伝わっている。取り柄なしと言って送り出した妹がいなくなった結果が、目に見える形で広がり始めている。
「そうなの」
それだけ答えた。怒りでも溜飲でもなかった。ただ、事実として受け止めた。
窓の外に塔が見える。朝日はもう高く昇り、塔の影が短くなっている。傾いたまま、それでも光を通す塔。壁の中に秘密を抱えたまま、修繕を受け入れた塔。
密約文書の処理はまだ終わっていない。隣国との関係にどう影響するかは、これからの問題だ。契約結婚の期限も、まだ残っている。解決していないことの方が多い。
それでも。
この場所を選んだのは私だ。契約でも取引でもなく、自分の意思で。
机の上に製図道具が並んでいる。定規、コンパス、分度器、鉛筆。侯爵邸から持ち出した、私の全財産。この道具で塔の図面を引き、壁を開け、秘密を見つけ、嘘と向き合い、それでもここにいることを選んだ。
鉛筆を取った。新しい紙を広げる。窓から見えた橋の概略図を引き始める。欄干の傾き、石材の劣化箇所、補修の優先順位。手が動く。前世から変わらない、この手の動きが。
だが一つだけ、変わったことがある。
この手が直すものの中に、自分自身を入れてもいいと思えるようになった。壊れたまま放置していた自分に、少しずつ手を入れていい。誰かがそれを望んでくれている。
扉が叩かれた。
「アニエス。橋の件だが、領の記録に古い図面がある。使えるか確認してくれ」
シルヴァンの声だった。扉越しに、書類を持っている気配がする。
「はい。すぐ確認します」
立ち上がって、扉を開ける。シルヴァンが古い羊皮紙の束を手にしていた。目が合った。
「ここにいます」
なぜその言葉が出たのか、自分でもわからなかった。橋の図面の話をしていたはずだった。だがシルヴァンは羊皮紙を差し出す手を一瞬止めて、それから小さく頷いた。
「ああ」
羊皮紙を受け取る。指が触れた。シルヴァンの手は温かかった。
壊すのではなく、直す。この家も、あの橋も、この人との間にあるものも。残された問題は山積みで、密約の処理も、侯爵家との関係も、まだ何一つ片付いていない。
それでも、今はこの手に図面がある。隣に、一緒に直そうとしてくれる人がいる。
それだけで、今は十分だった。
(完)
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