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私が直せるのは建物だけですが、契約結婚の相手は何故か私の心まで修繕してきます  作者: 月雅


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第1話「傾いた塔の声」

馬車の窓から、傾いた尖塔が見えた。


私はその瞬間、息を止めていた。


窓枠に指をかけ、身を乗り出す。車輪が石畳の継ぎ目を拾い、体が揺れた。それでも目が離せなかった。


北東方向への傾斜。目測で——三度弱。


基礎の不同沈下だ。北東側の地盤が軟弱なのか、あるいは地下水の流路が変わったか。尖塔の中腹、南面に走る斜めのひび割れが見える。あの角度は、基礎の片側沈下による剪断応力の典型的な発現だ。


指が動いていた。膝の上で、何もない空間に線を引いている。基礎幅、壁厚、梁の位置——前の人生で何百回と繰り返した初動診断の手順を、この指はまだ覚えていた。


「お客様、間もなく到着でございます」


御者の声で我に返る。私は膝の上の手を見下ろし、それから窓の外の尖塔をもう一度見た。


グランヴェル公爵邸。契約結婚の相手が住む屋敷。期限は一年。条件は、この邸に住むこと。それだけ。


馬車が正門をくぐる。砂利を踏む音が変わった。敷石の目地が痩せている。馬車の振動で体がわかるほどだから、相当な年月、補修がされていない。


門を抜けた先に広がる敷地は、広大だった。だが手入れが行き届いているのは正面の本館周辺だけで、東翼は窓の半数に板が打たれ、西翼の屋根には苔が厚く乗っている。


そして、あの塔。近づくほどに傾きが明瞭になる。


馬車が止まった。


扉が開く。石段の上に二人の人影があった。


「ようこそ、グランヴェル公爵邸へ」


低い声だった。石段の上に立つ長身の青年が、こちらを見下ろしている。黒髪に灰色の目。腰に剣を帯びているが、鞘に傷が多い。実用の剣だ。仕立ての良い上着は肘のあたりが微かに擦れていて、頻繁に机仕事をしていることがわかる。


グランヴェル公爵、シルヴァン。契約結婚の相手。


私は馬車を降り、裾を整えてから頭を下げた。


「セリエール侯爵家三女、アニエス・ルヴェールでございます。本日よりお世話になります」


「ああ。聞いている」


短い返答だった。歓迎でも拒絶でもない、事務的な声。彼の視線は私を一瞥した後、すぐに背後の邸へ戻った。


「マルセル、案内を」


「かしこまりました、若様」


一歩後ろに控えていた初老の男が進み出た。銀混じりの髪をきちんと撫でつけ、執事服に皺一つない。五十代半ばだろうか。背筋が真っ直ぐで、その目は——私を値踏みしていた。


「アニエス様、長旅でお疲れでしょう。お部屋へご案内いたします」


「ありがとうございます、マルセルさん」


丁寧な物腰だった。声も穏やかだった。だが私の荷物——製図道具の入った革鞄——に目が留まった瞬間、眉の筋肉が一瞬だけ動いたのを、私は見逃さなかった。


本館に入ると、すぐに若いメイドが駆け寄ってきた。


「アニエス様ですね! お部屋の準備、ばっちりですよ! あたし、リュシーって言います。何でも聞いてください!」


栗色の髪を揺らして笑う少女は、十代の終わりくらいに見えた。砕けた敬語だったが、邸の中で育った親しみがあるのだろう。執事長のマルセルさんもそれを咎めない。


「リュシー、よろしくお願いします」


「こっちです、こっちです!」


廊下を歩きながら、リュシーは矢継ぎ早に話してくれた。


「あの塔、見ましたか? 先代様がお亡くなりになってから、もう誰も近づかないんです。危ないからって、ずっと立入禁止で」


「先代様は——」


「二年前に。ご病気だったって聞いてます。奥方様は先代のお亡くなりの後すぐに、ご実家にお戻りになって。それからずっと、公爵様おひとりで」


リュシーの声が少しだけ沈んだ。すぐに明るさを取り戻して「でも今日からアニエス様がいらっしゃるから!」と笑ったが、その間が気になった。


部屋は本館の二階、東向きの一室だった。質素だが清潔で、窓からは中庭と——あの塔が見えた。


「何か必要なものがあったら呼んでくださいね!」


リュシーが去った後、私は窓辺に立った。


夕日の中で、尖塔の傾きが影になって地面に落ちている。あの影の角度を測れば、正確な傾斜角が出る。


——やめなさい。ここに来た理由は修繕ではない。


言い聞かせても、目が勝手に読んでしまう。壁のクラック。目地の欠損。窓枠の変位。建物の異常が視界に飛び込んでくるたびに、頭の中で前世の自分が診断書を書き始める。


前の人生で、私は一級建築士だった。構造設計事務所で十二年、耐震診断と改修設計をやっていた。何百棟もの建物を診て、直して、そして最後は自分の机の上で死んだ。


この体で目覚めたとき、セリエール侯爵家の三女だった。魔法適性は最低。この世界では、魔法適性の高さがそのまま人の価値になる。兄上——オリヴィエの評価は簡潔だった。取り柄なし。


だから契約結婚の駒として、ここに送られた。それだけのこと。


革鞄を開き、製図道具を机に並べた。定規、コンパス、分度器、鉛筆。侯爵邸から持ち出せたのはこれだけだ。


役に立たなければ、ここにもいられなくなる。


それは前の人生から変わらない、私の中の確信だった。


日が落ちきる前に、私は中庭に出ていた。


塔を一周する。ただそれだけのつもりだった。近くで見るだけ。触れるだけ。それで戻ろうと思っていた。


北面の基礎石に手を当てた瞬間、口が勝手に動いた。


「北東方向に約三度の傾斜。基礎の不同沈下——北東側の地盤支持力が不足している。南面の壁に斜め四十五度のクラック、幅は二ミリ以上。剪断破壊の兆候。東面の窓枠が平行四辺形に変形、躯体全体が菱形に歪んでいる」


指が壁を這う。目地の風化度合い、石材の劣化、モルタルの状態。手が覚えている。前世で何百回と繰り返した現場調査そのものだ。


「放置すれば、あと五年で倒壊する」


言い切ってから、背後に気配があることに気づいた。


振り返ると、シルヴァン・グランヴェル公爵が立っていた。


灰色の目がこちらを見ている。驚きとも困惑ともつかない表情で、微動だにしない。その数歩後ろに、マルセルさん。塔の鍵を両手で握りしめていた。指の関節が白くなるほど強く。


「——失礼いたしました」


慌てて敬語に戻る。壁に触れていた手を引いた。建物を前にすると前世の口調が出る悪癖を、まさか初日にやるとは思わなかった。


「グランヴェル公爵、申し訳ございません。差し出がましいことを——」


「五年で倒壊する、と言ったか」


公爵の声は低かった。怒りではない。確かめるような響き。


「はい。あくまで目視での概算ですが、基礎の沈下速度と壁面の損傷の進行度から推定すると、そうなります」


「そうか」


公爵は塔を見上げた。夕闇の中で、傾いた尖塔の輪郭がまだ見えている。


「壊すつもりだった」


短い一言だった。


壊す。この塔を。


私は公爵の横顔を見た。その目には、傾いた塔に向ける何かの感情があった。嫌悪でも無関心でもない。もっと複雑な——目を背けたいのに背けられないような。


「若様、お体が冷えます」


マルセルさんが一歩踏み出して遮った。公爵を促すためだったのか、私と塔の間に割って入るためだったのか。鍵を握る手は、まだ強張ったままだった。


「ああ——戻るか」


公爵は踵を返した。マルセルさんがその後に続く。


私はしばらくその場に立ち尽くしていた。


壊す、と言った。この塔を壊すつもりだったと。


なぜ。


壁に手を当てる。石の冷たさが掌に伝わる。百年以上を耐えてきた石積みの、静かな温度。


傾いている。ひびが入っている。基礎が沈んでいる。けれどまだ立っている。直せる。この塔は、まだ直せる。


——余計なことを言った。


わかっている。契約結婚で来た身で、初日から邸の建物に口を出すなど、立場をわきまえていない。


でも。


建物を前にすると止められない。壊れた構造が目に入った瞬間、頭の中で修繕の手順が走り出す。基礎のアンダーピニング、壁の補強、クラックの注入——前の人生でも、今の人生でも、それだけが変わらない。


私が直せるのは建物だけだ。人の心は直せない。自分の居場所も作れない。


でも、建物なら。


部屋に戻り、窓から塔を見た。闇の中に傾いた輪郭だけが浮かんでいる。


公爵はなぜ、壊したいのだろう。


マルセルさんは、なぜあれほど鍵を握りしめていたのだろう。


リュシーの言葉が蘇る。先代が亡くなってから、誰も近づかない。危ないから立入禁止。


——危ないから、ではない。


あの塔は危険だが、「危ないから」立入禁止にしたのではない。十年以上放置して修繕もしない理由は、危険だからではない。建物を放置する理由は、いつだって別のところにある。


製図道具に手が伸びていた。


まだ何も始まっていない。許可も出ていない。関係もない。ただの契約で、一年で終わる。


それなのに指が鉛筆を取り、紙の上に最初の一本の線を引いた。


——北面基礎、現状推定。


壊れたものを見ると、指が勝手に動く。この衝動は制御できない。前の人生でもそうだった。何百棟の建物を直して、自分のことは一度も直せなかった。


そういう人間だ。それだけが、二つの人生を跨いでも変わらない。

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