お母さん
お母さんが家に帰って来なくなって
もう2週間……
食べ物はもう無い。
残ってたカビたパンも
米粒ももうかじれるとこが残っていない。
近くで物音がするたび、
お母さん?と呟く自分の声が
部屋中にこだまする。
もう待てない。
スーパーに行けばたくさんの食べ物が溢れてる。動物的本能で身体がそこへ動き出す。
玄関の鍵は、かけたかどうか思い出せなかった。
そもそも、もう誰も入ってこない家に、
鍵なんて必要だろうか。
階段を降りると、足がふらついた。
二週間分の空腹は、思ったより重い。
軽くなったはずの身体が、
鉛みたいにだるい。
外は明るすぎた。
太陽は何も知らない顔で、アスファルトを照らしている。
世界はちゃんと動いているのに、
自分だけが置き去りだ。
スーパーは、相変わらずだった。
自動ドアが開いた瞬間、匂いが殴りかかってくる。
焼きたてのパン、
惣菜の油、
果物の甘さ。
胃が、声をあげた。
「……すごい」
思わず呟いてしまうほど、食べ物は無防備に並んでいた。
誰もが当たり前に、カゴに入れている。
当たり前、という言葉が、急に遠い。
パン売り場で足が止まる。
袋越しでも、ふわふわしているのがわかる。
カビていない。
固くない。
噛みちぎれる。
考える前に、手が伸びた。
カゴは持っていない。
持つという発想が、もうなかった。
ジャケットの内側に滑り込ませた瞬間、
心臓が跳ねた。
怖さじゃない。
生き延びた、という感覚だった。
そのあと、何個取ったか覚えていない。
ただ、視界の端で人が動くたび、身体がびくっと反応する。
お母さん?
違う。
誰も呼んでいないのに、耳が勝手に期待する。
出口が見えた。
あと数歩。
ドアの向こうは、きっと外。
「ちょっと、君」
声は、やけに落ち着いていた。
振り向くと、制服の男の人が立っている。
怒っている顔ではなかった。
困った顔だった。
言葉が出なかった。
謝る、
逃げる、
言い訳する。
どれも思いつかなかった。
ジャケットの中のパンが、急に重くなる。
奪ったものの重さじゃない。
生きたかった重さだ。
「お母さんは?」
その質問で、全部崩れた。
足が、力を失った。
気づいたら、床に座っていた。
パンは回収されて、袋に戻されている。
世界は整然としている。
乱れているのは、自分だけだ。
「仕事で遅くなってるだけで……」
声は、自分のものじゃないみたいだった。
スーパーの天井は高くて、やけに白い。
連れていかれる途中、
もう一度だけ振り返った。
パン売り場は、何事もなかったように補充されている。
食べ物は、いつでもここにある。
でも、それを取りに来る理由は、誰にも同じじゃない。
自動ドアが閉まる音が、
家で一人、物音に耳を澄ませていたときの静けさに、少しだけ似ていた。
あのとき、名前を呼ばれた気がした。
本当は、誰も呼んでいない。
お母さん。
怒らなくていいから、叱らなくていいから、
迎えに来てほしかった。
パンはいらない。
ごはんも、もういい。
ただ「大丈夫だよ」って言ってほしかった。
あの家で待っていたのは、空腹じゃない。
あなたの足音だった。
それを伝える方法を、
僕は最後まで、見つけられなかった。




