43 脱出
夜明け前のクロウリー邸は、深い雪に沈んでいた。
まだ灯も上がらぬ冬の空。屋敷の門前では黒い馬車が四台、静かに待機している。吐く息が白く霧のように流れ、馬たちの鼻面が凍るほどの冷気だった。
エドガーは厚手の黒のコートに身を包み、襟を立てて空を仰いだ。
暗い雲の向こうで、わずかに東の空が灰色に明けかけている。
クロウリー公爵は玄関先で立ち止まり、リリアンの肩に手を置いた。
「幸せになりなさい」
「はい。お祖父様も……どうかお元気で」
抱き合う二人の背に、雪が静かに降り積もっていく。
その光景を見つめながら、エドガーは深く一礼した。
「行ってきます、閣下」
「……頼む、エドガー」
四台の馬車のうち、一台にはリリアンと侍女、そしてエドガー。
残り三台――屋敷裏から別ルートで出発するそれらは、ダミーだ。
木の板に毛布を巻き、人影に見えるように配置された人形。
荷台には空のトランクと、紙束のような荷物。
もし、王の影達が真実に気づき、王の非嫡出子に手を出そうとするのなら、今日この時が最後になる。
「よくあんなの思いついたな」
御者台に乗り込むルシアンが笑う。
エドガーは淡く微笑んだ。
「小説で読んだ。ロンドンの名探偵が、似たようなことをしていたんだ。あれは部屋の窓だったけど」
「……お前、ほんとそういうとこだけ器用だな」
馬蹄の音が雪を叩き、扉が閉まる。
馬車は静かに門を離れた。
クロウリー公爵はその場に立ったまま、遠ざかる灯を見送っていた。
◇◇◇
夜明け前の街は、息を殺したように静かだった。
霧と雪の白が混ざり合い、ランプの光がぼやけて滲む。
馬車の中、リリアンは緊張で手を握りしめていた。
窓越しに見える街並みが、どこか遠い世界のように感じられる。
「霧の街ともお別れですね」
エドガーが静かに呟いた。
「はい……」
彼の声は、いつも通り穏やかで静かだった。
ふと目が合うと、群青の瞳が優しく細められる。
侍女がカーテンを閉めると、車内は淡い闇に包まれた。
ストーブの火がほのかに揺れ、彼の横顔を照らす。
唇は引き結ばれ、瞳はただ前だけを映していた。
◇◇◇
ミルフォード貨物駅まであと少し。
中央駅ではなく、貨物専用駅を選んだのは、王の影の目を少しでも欺くため。
何事もなく着ける――そう思った矢先だった。
突如、馬が嘶く。
御者台のルシアンが叫ぶ。
「影だ! 伏せろ!」
先頭を走っていたダミーの馬車が、爆ぜるような音を立てて横転した。
人影のような人形が崩れ落ち、木片と毛布が雪に散る。
車輪の横を黒い影が掠め、雪煙が上がる。
次の瞬間、窓ガラスが砕けた。侍女が悲鳴を上げる。
「リリアン様、こちらへ!」
エドガーは彼女の腕を掴み、馬車の反対側の扉を蹴り開けた。
冷気がなだれ込み、雪が舞い上がる。
通りの角では、影の一人がルシアンへと刃を振り下ろしていた。
「やらせるかよ!」
ルシアンはナイフを抜き、雪の上で相手の腕をはじく。
火花のような金属音。
「走れ、エドガー!」
「分かってる!」
エドガーはリリアンを横抱きにかかえ、倒れた車輪を飛び越えた。
雪の中、靴音と荒い息が混じる。
霧の向こうから石が飛び、影が顔をしかめて後退する。
貨物倉庫の屋根の上から、ミストラッツの少年たちが石を投げていた。
「こっちだ!」「急げ!」
子どもたちの声が夜に響く。
ルシアンが片膝をつきながらも立ち上がる。
血が雪に落ちる。
「ったく……本気で殺る気か、あいつら!」
公爵家の騎士たちも応戦していた。
刃と刃がぶつかり、火花が散る。
雪がすぐにその赤を覆い隠していく。
エドガーはリリアンを抱える腕に、ぎゅっと力を込めた。
侍女がその後を必死に追う。
貨物駅の灯が、ようやく見えてきた。
雪の向こうに、蒸気の白が立ちのぼっている。




