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41 閑話 雪の午後に

 火曜日のお昼、彼は喫茶店“ミルフォード・ティールーム”に現れる。

 水曜日の晴れた日には、王立自然公園を一人で散歩する。

 木曜日の夕方には、決まって書店の同じ棚を覗くの。


 几帳面な彼は、いつも同じ時間に、同じ道を歩く。

 そして、もしわたくしに気づけば――

 ボウラーハットをひょいと上げて、あの柔らかな笑みを見せてくれる。


 群青の瞳が少し細まり、低く穏やかな声で「こんにちは、お嬢さん」と。

 それだけで、一日が幸福になる。


 ……もちろん、わかっている。


 公女であるわたくしが、許される交際の範囲も。

 彼とは、身分も年齢も、あまりに違うことも。

 婚約破棄が確定した今でも、

 これ以上、近づくことは叶わないということも。


 恋というより、憧れ――

 けれど街を歩けば、つい探してしまうの。


 霧の中に浮かぶ背中。

 黒い髪の揺れ。

 あの、深い青のコートを。


◇◇◇


 朝は晴れていたのに、昼過ぎには雪が舞い始めていた。

 王立自然公園の白い並木道。

 しんしんと降る雪に、足音さえ沈んでいく。


「これでは……お会いできないわね」


 侍女が傘を差す。

 胸に抱いた詩集。

 落としかけた時に、彼が拾ってくれた本――それだけなのに、今では宝物。

 雪の中では、ページを開くこともできない。


 空を見上げ、吐息をひとつ。


「あぁ、こんにちは、お嬢さん。……雪が降り出してしまいましたね」


 振り返る。


 黒のコートに身を包んだ男が立っていた。

 ダークブルーのマフラー。白い息がふわりと舞う。

 エドガー・レイブンズ。


 いつものように帽子を軽く上げ、微笑む。

 その穏やかさに、胸がきゅっとなる。


「……こんにちは、レイブンズさん。寒い日は黒のコートなんですね」


 彼は一瞬、驚いたように目を見開いた。

 その仕草が少し幼く見えて、思わず笑ってしまう。


「あぁ、そうですね。いつもはダークブルーですから。

 黒と青――僕はその二つが好きなんです」


 “僕”。

 公の場では決して使わない一人称。

 それだけで、少し近くなれた気がした。


「どちらも、とてもお似合いです」

「ありがとうございます。……お嬢さんこそ、プラム色のベルベットがよくお似合いです」


 言葉は丁寧なのに、声が少し柔らかい。

 社交辞令と分かっていても、胸が熱くなる。


「大切なお身体です。冷やさないように。それではまた」

 軽くお辞儀をして、彼は歩き去る。


「ごきげんよう」


 その声は、たぶん届かない。

 黒い背が、白い雪の向こうに溶けていく。


 追いかけはしない。

 これでいいの。……これで。


「帰りましょう」

「はい、お嬢様」


 雪が音もなく、詩集の表紙に落ちた。

 まるで、胸の奥の秘密を包み隠すように。

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