38 雪の裁定院
雪の中を馬車が通り過ぎていく。
白い轍は幾重にも重なり、やがて静かに雪に覆われて消えた。
しんしんと、音のない世界。
エドガーは窓枠にもたれ、腕を組み、吐息を静かに白くした。
机上には婚約破棄の事後処理書類。
上級法務官マルコムの承認印が押されれば、この案件は終わる。
懐中時計を取り出す。
しゃらり――金の鎖が微かに鳴る。
そろそろだろう。
――ドンドン。
「レイブンズ法務官殿、ご在室ですか?」
エドガーは時計をしまい、すぐに扉に向かった。
「はい」
「申し訳ありません、またハートリー卿が……」
「すぐに向かいます」
報告書は今朝方、ハートリー家に届いたはずだ。
本当に、生真面目で、まっすぐな方だ。
◇◇◇
玄関ホールに降り立った途端、怒声が響いた。
「レイブンズ法務官殿!」
軍務卿ハートリーの肩には雪が積もっていた。
払うこともせず、真っすぐこちらへ歩み寄る。
「おはようございます。ハートリー卿」
挨拶を終えるより早く、エドガーの胸ぐらが掴まれた。
「破棄などと! 受け入れられるはずがない!」
「父上、やめてください!」
アドリアンが後ろから必死に引き剥がそうとするが、歴戦の軍人の腕は鉄のように固い。
そして――その背後。
黒い外套の男たちが数人、冷たい目でこちらを観察していた。
王太子派の顔ぶれだ。
「裁定は覆りません」
エドガーの声は静かだった。
雪解け水のような群青の瞳が、怒れる軍務卿を真っすぐ見据える。
「これが、我々の審議の結果です。どうぞお引き取りください」
「なぜだ……! なぜ破棄なのだ!」
「婚約継続の意思が確認できない状態が、長期に続いたからです」
「そんな曖昧な……!」
「法とは、そういうものなのかもしれませんよ」
ハートリーの拳が震えた。
歯ぎしりのあと、拳が振り下ろされる。
――乾いた音。
玄関ホールの空気が凍りついた。
職員が悲鳴を上げ、警備員が駆け寄る。
エドガーはよろめきながらも倒れず、二歩下がって姿勢を正す。
「ハートリー卿、拳で法は曲げられません。
治安監察局が到着する前に、お引き取りを」
アドリアンが父の腕を掴み、必死に引く。
「父上、もうおやめください!」
ハートリーはしばし呆然と自分の手を見つめ、やがて雪の中へと去っていった。
黒い外套の男たちは何も言わず、面白そうな笑みを浮かべてその背を追う。
◇◇◇
玄関に静寂が戻る。
エドガーはしゃがみ込み、頬を押さえた。
「……痛い。さすがに痛いな」
職員たちが濡らした布巾を持って走り回る。けれどその表情には、どこか安堵の色もあった。
長く続いた案件が、ようやく終わったのだ。
そこへマルコムが駆け寄り、エドガーを立たせた。
「本当に君は、面白い男だな!」
「まさか本当に殴るとは思いませんでした」
「あっはははは!」
「笑いすぎですよ……」
マルコムがエドガーの肩を叩く。
エドガーは苦笑し、視線を外へ向けた。
外では雪がいっそう強くなっていた。
白い世界の中、先ほどの黒い外套の一団が遠ざかっていくのが見える。
その背を、群青の瞳がじっと追っていた。
――音のない世界の底に、かすかな不穏の影だけが残った。




