37 沈黙の印
夜明け前の裁定院は、まだ薄闇の中にあった。
窓の外では雪がしんしんと降り続き、石畳を静かに白くしていく。法務官室のストーブには火が入り、コンと軽い音を鳴らしていた。
机上に広げられた書類に、エドガーは群青の瞳を落とす。指先でペン先の角度を確かめ、インクを吸わせる。
書く手は迷わない。
一行ずつ、冷たい理性の下に言葉が並べられていった。
――
《婚約破棄認定報告書(裁定院 第七法務局控)》
案件番号:第271-FA/王暦947年灰月期
申請者:ハートリー伯爵家(当主:レナード・ハートリー)
被申請者:クロウリー公爵家(令嬢:リリアン・クロウリー)
一、経緯
本件は、ハートリー伯爵家嫡子アドリアン殿と、クロウリー公爵家令嬢リリアン殿の婚約契約に関し、両家の合意事項に基づく婚約継続の意思が確認できない状態が長期にわたり続いたため、当裁定院が中立の立場より審問を行ったものである。
二、審理の概要
1. 双方より提出された婚約契約証書、及び破棄理由に関する陳述書を精査した結果、明確な契約違反行為、または一方の名誉を毀損する行為は認められなかった。
2. しかしながら、関係修復に向けた両家の協議が複数回不調に終わり、当事者双方の婚約意思が喪失していると判断された。
三、裁定
以上を踏まえ、当裁定院は以下の通り判断する。
一、両家の婚約契約は、当事者双方の合意不成立により、法的効力を失うものとする。
二、婚約破棄に伴う賠償請求権及び再請求権は、いずれの当事者にも認められない。
三、本件に関し、これ以上の審問および追調査は不要とする。
本裁定は、当事者の名誉及び社会的地位を保全するため、
原本を裁定院記録庫に封印し、写本の提出は両家の代理人に限るものとする。
王都裁定院 第七法務局
法務官 エドガー・レイブンズ (署名・印)
――
ペン先を置くと、室内に沈黙が戻る。
ストーブの火がくすぶり、紙の上の黒いインクが、ゆっくりと乾いていく。
雪はまだ降っていた。窓の向こうの白が、静かに夜明けを押し返している。
エドガーは書類を封筒に納め、封蝋を垂らす。王国の紋章を刻んだ印章を押し、軽く息を吐いた。その吐息は、まるで祈りのように静かに空へと消えていく。
インクの匂い。蝋の熱。
全てが落ち着いた頃、エドガーはペンを置き、窓の外に目を向けた。
――何も言わない。
ただ、群青の瞳が雪明かりを映す。
沈黙の中で、彼はわずかに目を伏せた。




