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36 雪の訪問

 街のざわめきが、雪に吸い込まれていた。

 馬車の車輪が石畳をきしませる音も、遠くの鐘の響きも、白い世界に沈んで、かすかに尾を引く。


 霧と雪が混じりあい、オルドンの空は限りなく灰に近い。

 吐く息は淡く、すぐに形を失って消えていく。


 エドガーは辻馬車の窓を開け、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 肺の奥が痛むほどの冷たさだったが、その痛みが心地よい。

 目を閉じる。

 これから語ることは、真実そのもの。

 そして――それを語らぬ選択をするための訪問でもある。


 馬車が停まる。

 黒鉄の門。白に覆われた並木。クロウリー公爵邸は、冬の中でもひときわ静謐だった。


 扉が開く音。

 靴底が、凍った砂を踏んでしゃくりと鳴る。

 肩に降り積もる雪を払うことなく、エドガーは杖を片手に門へと歩を進めた。


 門番が敬礼し、帽子を取る。

「お寒い中を……」

 その言葉は途中で霧に溶け、エドガーは小さく頷くだけで通り過ぎた。


 白い息。黒い外套。

 雪が彼の群青の瞳に淡い光を落とす。


  石造りの階段を上ると、扉の前で執事が出迎えた。

 「クロウリー公閣下は、暖炉の間でお待ちです」


 頷き、帽子とマフラーを外す。執事が恭しくそれを受け取る。

 エドガーは玄関マットの上で杖を片手に、靴底の雪を軽く払った。

 凍てついた空気の匂いが、扉の向こうの暖かい空気に溶けていく。


 扉が開かれる。暖炉の匂いと赤い灯が、頬を撫でた。

 外とは、まるで別世界のようだった。


 ――沈黙の答え合わせ。

 そのために、ここまで来た。


 エドガーは一度深く息を整え、杖を手に扉の前に立つ。

 ノッカーに手を掛ける。

 金属が冷たく、指先がわずかに震える。


 コン、コン、と、音が廊下に響く。

 そして、扉がゆっくりと開かれた。


 扉の向こう、暖炉の火が静かに揺れていた。クロウリー卿は椅子に腰掛け、杖の上に両手を重ねている。その横顔を、赤い光がなぞっていた。


「……来たか、エドガー」


「はい。少し、お話を」


 エドガーは帽子を手にしたまま一礼し、示された向かいの椅子に腰を下ろした。雪のしずくがマフラーから落ち、絨毯に静かな染みを作る。


 二人の間に、長い沈黙が落ちた。

 外では風が、かすかに窓を叩いている。


「――調べました」

 エドガーの声は低く、揺れがない。

「オルドウィン家。王城の侍女。セント・アシュウェル修道院。そして……閣下の国外送金記録」


 クロウリーの灰の瞳が、微かに動いた。

 だが、何も言わない。


「ノルドレア公国、オルテン侯爵家。

 “出身地、アルストリア王国”――そう記されています」


 火のはぜる音だけが響いた。


「……そこまで掘ったか」

 クロウリーの声は、まるで灰の底から響くように低い。

「もう、全て分かっているのだろう」


「推測です」

 エドガーは静かに言う。

「証拠はない。けれど――」


「――あの方のお子だ」


 暖炉の火がぱちりと弾けた。

 それは初めて、クロウリーが“真実”を言葉にした瞬間だった。


「守らねばならなかった。

 王は死の床で、そう仰せになった。

 “あの子を、罪のない子を守れ”――と」


 彼は杖を握る手に力を込めた。

 節の浮いた指が、震えていた。


「正妃派が嗅ぎつけた時、もう逃がすしかなかった。

 オルドウィン家を国外に。娘を修道院へ。

 私の沈黙は、あの方への忠誠であり……贖罪でもある」


 エドガーは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

 言葉は喉まで出かかったが、飲み込んだ。


「……閣下、これ以上はお答えいただかなくて結構です」


「そうだな。

 真実は、語られた瞬間に汚れてしまう」


 二人の視線が交わる。

 暖炉の火が、灰の中で静かに燃え続けている。


 外では雪がやまぬ。

 窓の向こうで白い世界が静まり返る中、クロウリー卿はわずかに微笑み、囁いた。


「君のような若者に託せるのなら――

 この沈黙も、少しは報われるだろう」


 エドガーは深く一礼し、椅子から立ち上がる。


「……必ず、守ります。レディ・リリアンを」


 その言葉に、クロウリー卿は目を閉じた。

 わずかな安堵がその頬を撫で、長い沈黙が、再び二人を包み込んだ。


 扉が閉まる。

 厚い木戸の向こうに、暖炉の赤が遠のいていった。


 外は、なおも雪。白い粒が街灯の光を受けて、淡く瞬いている。


 石段を降りるたび、靴底が雪を噛む。

 誰の声もない。

 ただ、馬車の影が霧の中でぼやけて揺れている。


 エドガーはゆっくりと足を止めた。

 吐く息が白く広がる。

 指先の感覚が消えていくのも構わず、彼は杖を雪の上に立てたまま、片手を額に寄せた。


 ぎゅっと、目を瞑る。

 拳が額に触れ、呼吸がひとつ、震える。

 まるで胸の奥で嵐を押し込めるように――

 沈黙のまま、彼はその姿勢を崩さなかった。


 雪が肩に積もる。

 夜が静かに、彼を包み込んでいく。


 やがてエドガーは顔を上げ、何も言わず、ただ杖を手に再び歩き出した。


 白い息が途切れ、霧の街の闇に、群青の背が消えていった。

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