35 紫の記憶
グレイハウンド・ティーサロンの最奥。
厚いカーテンで仕切られた静かな個室には、外の喧騒さえ届かない。
銀のポットから立ちのぼる紅茶の湯気と、ガス灯の柔らかな光だけが二人を包んでいた。
アリシア・ハートリー夫人は、深い葡萄色のドレスを纏い、うねる黒髪を上品に結い上げている。
華奢な輪郭に似合わず、その眼差しには意志が宿っていた。
「……お忙しいところ、ありがとうございます、レイブンズさん」
「いえ、レディ・ハートリー。またお会いできて光栄です」
エドガーは帽子を胸に下ろし、静かに一礼する。
その声音に、夫人はほっとしたように小さく息を吐いた。
カーテンの隙間から降りしきる雪が薄く差し込み、白が室内の影を淡く染める。
「……夫が、王太子派の方々と頻繁に会うようになりましたの」
夫人はカップを持つ指先を重ね、声を潜めた。
「あれは……社交の域を超えていますわ。……貴方はもう何かつかんでおいでですの?」
エドガーは琥珀色の紅茶を見つめたまま、静かに頷いた。
「レディ、私は貴女が思っておられるより、多くの情報を集めています。
そして、クロウリー卿とは協力関係にある……ともいえますね」
その名が出た瞬間、夫人の瞳がかすかに見開かれた。
置いたカップの皿が、微かに音を立てる。
「そうですか……。
若いころ、実はわたくしは王城で礼儀見習いをしておりましたの」
夫人の声は、過去の記憶の底をそっとなぞるようだった。
「ほんの短い期間ですが、“エリス”という侍女を知っています。
関わりはありませんでしたが、とても聡明で、上役の信頼も厚い方のようでした」
細い指先が膝の上で絡む。
「その後すぐにわたくしは結婚し、城を離れました。
けれど今も親しい侍女仲間がいて――彼女たちが言ったのです」
雪の白光が、夫人の横顔を淡く照らした。
「ある時期を境に、“エリス”は忽然と姿を消した。
そして同じ時期、数名の侍女が“急な縁談”で一斉に遠方へ嫁がされた、と」
夫人の声が少し震える。
「誰も理由を語らなかった。
何か重大な出来事があったのだと思います。
ただ、誰にも真実が届かないように……意図的に人が散らされたのだと」
エドガーの瞳が細く揺れる。
――正妃派の目眩まし。
その判断は、彼の推測とも一致していた。
「……そして、リリアンの瞳を見たとき、思い出したのです」
夫人は胸に手を置くようにして言った。
「エリスの瞳と……同じ色でした。淡い紫。光を含んだ、美しい色」
確信に似た静かな痛みが、夫人の表情を曇らせた。
「まさか、とは思いました。
けれど婚約破棄の話を聞いたとき――
ああ、きっと、と」
彼女は息を詰まらせ、やがて静かに続けた。
「証拠は何もありませんわ。所詮“女の勘”です。
でも、もし本当に彼女が……“あの血”を引くなら、王太子派となった我が家から閣下が距離を置くのも当然でしょうね。
クロウリー公閣下は、誰よりも慎重なお方なのですから」
言い終えると、夫人はわずかに肩を落とした。
エドガーは席を立ち、丁寧に礼を取る。
「貴重なお話、感謝いたします。
どうか、今後もお気をつけてお過ごしください」
夫人も立ち上がり、群青色の瞳をまっすぐに見つめる。
「……貴方は本当に、その誠実な青が似合うわね」
エドガーはほんの一瞬だけまばたきし、
柔らかく微笑んだ。
「ふふ……夫人、ありがとうございます」
◇◇◇
ティーサロンを出ると、雪が石畳を白く覆っていた。
街灯の光が霧に滲み、吐く息が淡く揺れる。
エドガーは群青の瞳で白い空を見上げた。
――真実は、静かに散らされた。
意図的に。丁寧に。
誰にも辿れないように。




