33 霧の街の残響
霧の街オルドン。
下町の外れ、ミルフォード貨物駅。
夜更けでも絶えない汽笛が、湿った空気の中に長く尾を引いていた。
錆びた線路には油の匂いと石炭の煙が漂い、霧と煙が混ざり合ってゆらめいている。
荷を積み下ろす人足たちの怒号、遠くで鳴く犬の声。
その隙間を縫うように、煤けた外套を羽織った小さな影が何人も駆け抜けた。
貨車の影から影へ――ミストラッツの子どもたちだ。
「兄貴!」
「よぉ、チビども」
制服の上から黒いコートを羽織り、琥珀色の瞳をした男――ルシアン・ヴェイル。
彼の姿を見つけるや、子どもたちは群がるように集まってくる。
ルシアンはポケットから琥珀色のトフィーを取り出し、一人ひとつずつ手渡していった。
「何か収穫は?」
黒髪の少年トビーが、トフィーを頬張りながらルシアンの袖を引っ張る。
「昔、王城で下女をしてたって婆さんがいるんだ」
赤毛の少女エルザが続けた。
「でもね、口が固いの。ピップがいないとやっぱり話してくれなくて」
「こういう交渉はピップが一番だったもんな」
トビーが頷く。二人はじっとルシアンを見上げた。
「ここは、お財布の出番だと思うの」
「なぁ、兄貴?」
「……俺のことを財布って呼ぶな」
ルシアンがじとっと睨むと、二人はキャアキャア笑いながら霧の中に散っていった。
◇◇◇
「婆さん!」
下町の石段。煙突の煙がたなびく空の下、腰掛けていた老婆がゆっくりと顔を上げた。
「また来たのかい、あんた達」
「婆さんの話、面白いからさ!」
トビーが隣に腰を下ろし、エルザは少し離れて見守る。
そこへ、コツコツと靴音。ルシアンが姿を現すと、老婆の顔がぴたりと固まった。
黙って彼はトビーの反対側に腰を下ろす。
「二十年くらい前の、王城の話を聞きたい。面白い噂、何かないか?」
銀貨をちらりと見せる。老婆はすばやくそれを奪い、服の中に隠した。
「王城なんて噂だらけさ。だが……そうだね。あたしが下女をしてた頃、有能な侍女がいたよ。えらく聡くて、上役の覚えもめでたかった。けどある日、忽然と姿を消した」
「病気か? それとも結婚か?」
「誰も知らないんだ。どんな理由でいなくなったのか、名前すら口にされなかった。しかも時期を合わせたように他の侍女も一斉にいなくなった。だからこそ覚えてるのさ。あまりに不自然だったからね」
ルシアンは小銅貨数枚を差し出す。
「ありがとよ、婆さん」
立ち上がり、霧の夜へ消えていく背中をミストラッツの子らが追いかけた。
トビーが振り返って手を振ると、老婆は煙草をくゆらせながら笑った。
◇◇◇
ミストラッツを貨物駅まで送り届けたあと、ルシアンはその足で郊外の住宅街へ向かった。
街灯が霧にぼやけて滲み、白い息が宙に消える。
木造の邸宅の門を叩き、出てきた老婦人に徽章を見せた。
「外部調査局 特別調査員、ルシアン・ヴェイルです。――ライナス・グレイン氏はご在宅でしょうか?」
案内された応接室。
ストーブの火が赤く灯り、椅子に座る老人がこちらを見た。
髪も髭も雪のように白く、目だけが鋭く光っている。
「外部調査局だと?」
「ええ。昔の話を、少しだけお聞かせ願いたい。
あなたは、かつてオルドウィン家の従者だったと伺いました」
老人――ライナス・グレインの表情がわずかに強張った。
ルシアンは両手を開いて見せる。
「我々はクロウリー閣下とオルドウィン家を守るために動いています。どうか、十八年前のことをお話しください」
その名を出した瞬間、老人の瞳が小さく揺れた。
「……閣下に沈黙の誓いを立てた。それがわしの誇りだ」
ルシアンはポケットから小さな麻袋を取り出した。
「これは?」
「クロウリー閣下が冬によく飲まれていたお茶だそうです」
老人が袋の香りを嗅ぐと、かすかに目を細めた。
「懐かしい匂いだ……。閣下には、本当に世話になった」
「信じていただけますか?」
ルシアンが静かに頷く。老人はしばし沈黙し、そして語り始めた。
「冬の晩だった。オルドウィン侯爵は家族と従者を連れて北へ向かった。馬車五台――没落手前とはいえ、侯爵には似つかわしくない粗末なものだったよ」
「ご家族全員で?」
「奥方と旦那様、それに長男と従者数名。
……若い娘はいなかった。行き先も教えられず、残った者は皆、散り散りになった。今どこにいるのかも知らん」
ライナスは遠い目をした。
「だが、あの夜、侯爵の目は悲しみに満ちていた。――誰かを置いて行く者の目だったよ」
ルシアンは静かに立ち上がり、深く頭を下げた。
「ありがとうございました、ライナスさん」
外へ出ると、街は白い粉雪に包まれ始めていた。
家々の窓から漏れる灯りが並び、霧の夜に滲んでいく。
マフラーを鼻まで引き上げ、白い息を吐きながら、ルシアンはゆっくりと歩き出した。
――霧の向こうに、真実の輪郭が見えかけていた。




