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30 陽だまりを失くした者

 父の知人の屋敷への挨拶を終えた帰り道。

 馬車の窓に映った自分の顔は、ひどく疲れて見えた。

 アドリアン・ハートリーは、霧の街並みをただ茫然と眺めていた。


 リリアン。

 彼にとって彼女は、陽だまりそのものだった。

 初めて出会った日の柔らかな笑み。落ち着いた声。

 その存在が、人生を照らす光のように思えた。


 ――だからこそ、奪われた痛みは深い。


 破棄の理由も知らされないまま時間だけが過ぎ、

 世間は勝手に噂を積み上げていく。

「ハートリー家こそ何かを隠しているのでは」と。


 誠実こそ家の誇りと信じてきた父が、裁定院で声を荒げた日。

 アドリアンは、胸の奥で何かがぽっきりと折れる音を感じていた。



 ふと、霧の向こうに淡い金の髪が揺れるのが見えた。

 目を疑うはずもない。


「馬車を停めてくれ! 俺は降りる!」

「どうした、アドリアン」

「リリアンがいた。……話さなければ」


 馬車が王立自然公園の前で止まると同時に、

 アドリアンはコートの裾を翻して駆け出した。


「リリアン!」


 ベンチに座っていた彼女が振り返る。

 膝に置いていた詩集を胸に抱きしめ、戸惑ったように瞳を揺らした。


「……アドリアン様? なぜこちらに……」

 白地に小花柄のドレス。白い帽子。

 春の柔らかい光を纏ったその姿は、変わらぬ温もりを宿していた。


「今日も……君は綺麗だ」


 声は掠れていた。

 胸の奥で何度も練習した言葉が、今は重く震える。


「俺は、婚約破棄など望んでいない。

 せめて理由を聞かせてほしい」


 差し出した手は宙に残る。

 リリアンは詩集を抱きしめて一歩後ろへ退いた。


「祖父がそう決めました。わたくしは従うまでです」


 穏やかな声。揺れない瞳。

 その静けさが逆に、距離を際立たせた。


「君の意思は? 俺を……慕ってくれていたはずだ!」


 リリアンはまっすぐに彼を見た。

 金の後れ毛が風に揺れ、頬を柔らかく撫でる。


「祖父に従う――それが、わたくしの意思です」


 時間が止まったようだった。


「そんな……そんなこと、あるか!」


 気づけば、彼女の手を強く掴んでいた。

 失いたくなかった。ただ、それだけだった。


「どうしてなんだ!!」


 リリアンの肩が震える。

「ハートリー様、おやめください!」

 侍女の声も耳に入らない。


「君を迎えたいんだ! なぜ拒む! 俺たちは何も悪くない!」


 力の入りすぎた手で、リリアンの指は白くなり――

 薄紫の瞳が、恐怖に揺れた。


「やめないか!」


 鋭い声が霧を裂いた。

 次の瞬間、腕を捻られ、アドリアンはよろめく。


「ぐっ……!」


 止めに入ったのは、エドガー・レイブンズ。

 もう片方の腕で、倒れかけたリリアンを抱きとめている。


「お前は……法務官じゃないか!」


 アドリアンは怒りと混乱で声を震わせた。

 エドガーは静かにリリアンを侍女へ預けると、

 淡々とした声で告げた。


「女性の手を掴んで怒鳴る。――紳士のすることではありません」


 その時。


「大馬鹿者が!」


 怒号とともに拳が飛び、

 ハートリー卿の拳がアドリアンの頬を弾いた。


「これ以上醜聞を広げてどうする!

 “英雄に逆らえぬ負け犬”などと噂されているのだぞ!」


「父上……!」


 頬を押さえたまま、アドリアンは父の顔をまともに見ることができなかった。


 ハートリー卿はリリアンに深く頭を下げた。

「愚息が無礼を。どうかお許しを」

「……もう、関わらないでくださいませ」


 静かだが揺るぎない声に、卿は眉を寄せ、再び頭を下げた。

 そしてアドリアンの腕を掴み、強引に連れ去った。


 残されたのは、落ちたままの詩集と、リリアンの小さな吐息だけ。


◇◇◇


 野次馬の視線が散り、ようやく空気が静まった。

 エドガーは黙って去っていく二人の背を見送っていた。


「レイブンズさん……助けてくださって、ありがとうございます」


 リリアンがかすかな声で言うと、エドガーはダークブルーのフロックコートの裾を揺らし、静かに振り返った。


「ご無事で何よりです」


「……今回の件で、破棄を確定できませんか?」


 淡い期待を宿した瞳。

 だがエドガーは静かに首を振った。


「残念ながら」


「そう、ですか……」


 リリアンは微笑んだ。

 その笑みは、涙よりも痛かった。


「――ありがとうございました」


 霧の向こうへ消えていく白い帽子の姿は、

 春の気配さえも遠ざけるように静かだった。

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