30 陽だまりを失くした者
父の知人の屋敷への挨拶を終えた帰り道。
馬車の窓に映った自分の顔は、ひどく疲れて見えた。
アドリアン・ハートリーは、霧の街並みをただ茫然と眺めていた。
リリアン。
彼にとって彼女は、陽だまりそのものだった。
初めて出会った日の柔らかな笑み。落ち着いた声。
その存在が、人生を照らす光のように思えた。
――だからこそ、奪われた痛みは深い。
破棄の理由も知らされないまま時間だけが過ぎ、
世間は勝手に噂を積み上げていく。
「ハートリー家こそ何かを隠しているのでは」と。
誠実こそ家の誇りと信じてきた父が、裁定院で声を荒げた日。
アドリアンは、胸の奥で何かがぽっきりと折れる音を感じていた。
◇
ふと、霧の向こうに淡い金の髪が揺れるのが見えた。
目を疑うはずもない。
「馬車を停めてくれ! 俺は降りる!」
「どうした、アドリアン」
「リリアンがいた。……話さなければ」
馬車が王立自然公園の前で止まると同時に、
アドリアンはコートの裾を翻して駆け出した。
「リリアン!」
ベンチに座っていた彼女が振り返る。
膝に置いていた詩集を胸に抱きしめ、戸惑ったように瞳を揺らした。
「……アドリアン様? なぜこちらに……」
白地に小花柄のドレス。白い帽子。
春の柔らかい光を纏ったその姿は、変わらぬ温もりを宿していた。
「今日も……君は綺麗だ」
声は掠れていた。
胸の奥で何度も練習した言葉が、今は重く震える。
「俺は、婚約破棄など望んでいない。
せめて理由を聞かせてほしい」
差し出した手は宙に残る。
リリアンは詩集を抱きしめて一歩後ろへ退いた。
「祖父がそう決めました。わたくしは従うまでです」
穏やかな声。揺れない瞳。
その静けさが逆に、距離を際立たせた。
「君の意思は? 俺を……慕ってくれていたはずだ!」
リリアンはまっすぐに彼を見た。
金の後れ毛が風に揺れ、頬を柔らかく撫でる。
「祖父に従う――それが、わたくしの意思です」
時間が止まったようだった。
「そんな……そんなこと、あるか!」
気づけば、彼女の手を強く掴んでいた。
失いたくなかった。ただ、それだけだった。
「どうしてなんだ!!」
リリアンの肩が震える。
「ハートリー様、おやめください!」
侍女の声も耳に入らない。
「君を迎えたいんだ! なぜ拒む! 俺たちは何も悪くない!」
力の入りすぎた手で、リリアンの指は白くなり――
薄紫の瞳が、恐怖に揺れた。
「やめないか!」
鋭い声が霧を裂いた。
次の瞬間、腕を捻られ、アドリアンはよろめく。
「ぐっ……!」
止めに入ったのは、エドガー・レイブンズ。
もう片方の腕で、倒れかけたリリアンを抱きとめている。
「お前は……法務官じゃないか!」
アドリアンは怒りと混乱で声を震わせた。
エドガーは静かにリリアンを侍女へ預けると、
淡々とした声で告げた。
「女性の手を掴んで怒鳴る。――紳士のすることではありません」
その時。
「大馬鹿者が!」
怒号とともに拳が飛び、
ハートリー卿の拳がアドリアンの頬を弾いた。
「これ以上醜聞を広げてどうする!
“英雄に逆らえぬ負け犬”などと噂されているのだぞ!」
「父上……!」
頬を押さえたまま、アドリアンは父の顔をまともに見ることができなかった。
ハートリー卿はリリアンに深く頭を下げた。
「愚息が無礼を。どうかお許しを」
「……もう、関わらないでくださいませ」
静かだが揺るぎない声に、卿は眉を寄せ、再び頭を下げた。
そしてアドリアンの腕を掴み、強引に連れ去った。
残されたのは、落ちたままの詩集と、リリアンの小さな吐息だけ。
◇◇◇
野次馬の視線が散り、ようやく空気が静まった。
エドガーは黙って去っていく二人の背を見送っていた。
「レイブンズさん……助けてくださって、ありがとうございます」
リリアンがかすかな声で言うと、エドガーはダークブルーのフロックコートの裾を揺らし、静かに振り返った。
「ご無事で何よりです」
「……今回の件で、破棄を確定できませんか?」
淡い期待を宿した瞳。
だがエドガーは静かに首を振った。
「残念ながら」
「そう、ですか……」
リリアンは微笑んだ。
その笑みは、涙よりも痛かった。
「――ありがとうございました」
霧の向こうへ消えていく白い帽子の姿は、
春の気配さえも遠ざけるように静かだった。




