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3 霧の中の違和感

 午後も、エドガーは聴取室にいた。

 相手は婚約を破棄された側――ハートレー卿である。一回目の聴取では当主だけでよいと伝えていたが、当人のアドリアンと夫人までが列席していた。


 軍務卿であるハートレー卿は、短く刈られた灰褐色の髪に鋭い眼差しを持つ男だった。その声は低く落ち着いていたが、抑えた憤りが滲む。


「我が家には非がありません。当人同士も良い関係を築いておりました。

 何故、突然このような破棄を――理由もなく受け入れろと言われては、納得できません」


 最もな言葉だ。

 事前調査でも、ハートレー家に不正や醜聞はない。

 むしろ、軍務卿らしく端正で規律ある家風で知られていた。


 エドガーは静かに相槌を打ちながら、調書に記述を進める。

 彼の視線の端で、当人のアドリアンが父の背後に立っていた。若いが、表情には落ち着きがある。黒い切長の瞳がじっとエドガーを見据えていた。


 怒りではない――どこか、哀しげに沈んだ眼差しだった。

 夫人もまた、手を膝の上に重ね、終始静かに夫の言葉を支えている。

 品のある女性だが、その指先には緊張が滲んでいた。


 ペンの音が止む。

 エドガーは記録を確認し、微笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。お話はすべて記録いたしました。

 本日はこれまでといたします。後日、改めてご連絡を差し上げます」


 穏やかな声に、ハートレー卿は深く頷き、一家は一様に立ち上がって深々と頭を下げた。


 エドガーは席を立ち、扉の前で彼らを見送る。

 夫人だけが、去り際にもう一度振り返った。

 たおやかに結われた黒髪が、少し疲れた頬を掠める。

 その瞳は、言葉を選びかねて揺れていた。


 エドガーは静かに微笑み、軽く一礼を返した。

 ――伝えたいことがあるのかもしれない。

 けれど、彼女は何も言わずに去っていった。


◇◇◇


「……違和感があります」


 エドガーは調書を差し出しながら、ぼそりとつぶやいた。受け取ったのは、上司であり上級法務官のマルコム・ヘインズ。


 五十を過ぎた男。白髪が混じった髪は常に寝癖があり、どんなに身なりを整えても“昨日脱いだままの服を着てきた人間”に見える。少し出た腹、くたびれた上着、煤けた袖口。ぱっと見には、うだつの上がらない役人そのものだ。


 だが、裁定院の誰もが知っている。

 その外見の奥に、膨大な経験と審美眼が隠れていることを。


「違和感?」


 マルコムは寝癖をいじりながら片眉を上げる。

 エドガーは群青の瞳をマルコムの手元に落とした。細いひと束の黒髪が耳からはらりと落ちる。


「はい。何かが噛み合わない気がします」


「どのあたりが?」


「……わかりません。まだ形にならないんです」


 マルコムは乾いた指で“陳述なし”の文字をなぞった。

「ふむ……」

 霧に包まれた窓の向こうで、午後の鐘が小さく鳴った。静かな部屋に、時計の音と紙をめくる音だけが響く。


「まあいいさ」

 マルコムは調書を閉じ、机の端に置いた。そして、柔らかな笑みを浮かべる。


「やってみたらいい。君が感じた違和感は、たいてい何かを見逃していない証拠だ。

 尻拭いは私の仕事だ。好きにやりなさい」


 エドガーはわずかに目を見開き、すぐに微笑みを返した。


「……はい。ありがとうございます」


 穏やかな口調のまま、礼を述べる。その横顔に、マルコムはふと目を細めた。


 窓の外では、再び霧が立ち上がっていた。

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