26 月の見えぬ夜
「なぜ見つからぬ!」
激昂とともに、ワイングラスが宙を舞った。
男は身をひねってそれを避け、壁にぶつかったグラスが砕け散る。
赤い滴が絨毯をじわりと染めていった。
王太子リチャード・ヴァレンタインは乱れた呼吸のまま、拳でテーブルを叩いた。
響いた音が静寂を切り裂き、燭台の炎がかすかに揺れる。
――いつまでも消えぬ、先王の非嫡出子の噂。
現王エドマンドでさえ、その話題を避けるように沈黙している。
だが、貴族たちは噂を囁き、民はそれを面白がる。
リチャードがどれほど有能であろうと、血統への疑念が一度植えられれば、玉座は遠のく。
「……そんなものが本当にいたとして、何の意味がある……!」
ワインの残り香が鼻を刺す。
胸の奥で怒りと恐怖が入り混じる。
非嫡出子の存在を知る者はすでにほとんどが鬼籍に入った。
だが、なぜか噂だけは消えない。
まるで、誰かが“意図的に残している”かのように。
かつて、王族の愛人が身を隠したとされる修道院を探らせたが、報告はどれも曖昧だった。
名前も年齢も、時代すらも曖昧。
霧の中に手を伸ばし、掴んだのは影ばかり。
だが、いまは違う。
――裁定院の法務官が、修道院を調べている。
それが偶然とは思えなかった。
「早く、まともな情報を持ってこい! 愚図が!」
王太子の怒声が広間に響く。
命じられた男は無言で一礼し、踵を返して去った。
扉が閉まると、リチャードは深く息を吐いた。
こみ上げる不安を押し殺すように、指先でこめかみを押さえる。
――もし本当にその“子”が見つかったなら。
玉座どころか、自らの存在さえ危うくなる。
ならば、消すしかない。
爪を噛む音が静かに響いた。
金の髪がランプの光をはじき、焦燥に滲む青い瞳が揺れている。
窓の外の月は、厚い霧に埋もれ、姿を隠していた。
◇◇◇
同じ夜。
王都の外れ、下宿街。
エドガー・レイブンズの部屋では、暖炉の火が小さく揺れていた。
ピップは机の上の紙束を前に、文字を写している。
エドガーはその隣で、紅茶のカップを手に、夜空を見上げていた。
「今日は、月が見えませんね」
ピップの小さな声に、エドガーは頷く。
「そうだね。……だけど、雲の向こうには必ず月がある」
群青の瞳が窓に映り込む。
その奥には、霧の王都を覆う見えない網のようなものが確かにあった。
火がまた、ぱちりと音を立てた。
◇◇◇
翌朝、裁定院の執務机の上に、黒い封蝋が置かれていた。
――クロウリー公爵家より。




