23 霧の街の小さな影
「おばちゃん、またね!」
夕暮れの王都オルドンは、また霧に沈みつつあった。
街灯がともり始め、濡れた石畳が橙に光を返す。
ピップは花屋の女性に手を振ると、足早に路地裏へと入っていった。
手のひらほどの紙片を覗き込みながら、口の中でぶつぶつと呟く。
「オルドウィン家は侯爵家なのに、十八年前に突然いなくなった? そんなことあるか? おばちゃんも知らないって言ってたし……でも、若い女性がいたなら、多分ビンゴだな」
背後では、トビーとエルザが小声で言い合っていた。
「幽霊だったりして」
「そういう話やめてよ!」
トビーが舌を出し、ふたりは荷車の影に身を隠す。
エリス・オルドウィン――その名を追っていた。
彼女が何者で、なぜ修道院で亡くなったのか。
分かっているのは、アルデン暦九二九年に二十六歳で没したこと、そして高貴な身分の出だったということだけ。
市場から流れてくる魚の匂い、遠くの酒場から漏れる音楽。
ピップは紙を折りたたみ、上着の内ポケットにしまうと、いつもの集合場所――路地裏の古い掲示柱へと歩き出した。
その時だった。
――コツ、コツ、と、誰かの靴音が背後に重なる。
振り返る。霧の向こうに、黒い外套の男が立っていた。
帽子を深く被り、顔は見えない。
ピップの胸がどくん、と跳ねる。
足を速める。足音も速くなる。
次の瞬間、背中を強く押され、石畳に転がった。
手からメモが滑り落ち、霧の中を舞う。
「おっと、これは」
低い声。黒い外套の男の手が紙片を掴もうと伸びる。
「返せっ!」
ピップは叫んで飛びついた。だが体格差がありすぎる。
小さな体が持ち上げられ、石壁に叩きつけられた。
咄嗟にポケットの中の小石を相手の顔に投げつける。
「ちっ……」男がたじろぐ。
ピップはその隙に紙片を奪い返し、路地を全力で走った。
「エルザ! 逃げろ!」
霧の奥で、少女の悲鳴が響く。影が二つ、三つ、霧の中から現れる。
ミストラッツの子どもたちは蜘蛛の子を散らすように逃げた。
ピップは狭い裏通りを駆け抜け、胸の奥が焼けるように痛む。
足がもつれ、転びかけたその時――
「ピップ!」
霧を裂いて飛び込んできた声。
ルシアン・ヴェイル。
黒いコートを翻し、琥珀の瞳が一瞬、霧を照らした。
追手の一人が短剣を抜き、振りかざす。
ルシアンは拾い上げた杖で受け、柄で相手の手首を払った。
「子ども相手に何してやがる!」
背後からもう一人。肘で鳩尾を突き、短く息を吐かせる。
ピップの手を掴み、
「走れ!」
二人は霧の中を駆けた。
石畳を蹴る音、追っ手の足音。
曲がり角を三つ、四つ。霧が深くなるにつれ、背後の気配が遠のいていく。
息を切らしながら、ルシアンは壁際に身を預けた。
ピップは肩で息をし、顔も服も泥だらけだ。
「……追ってきてねぇな」
そう言うルシアン自身も、頬に血が滲んでいた。
ピップは泣きそうな顔で、それでもメモをぎゅっと握っている。
「……取られてないな?」
「はい……ちゃんと、あります」
「さすがリーダー。よくやった」
ルシアンは小さく笑い、ぐったりしたピップを片腕で抱え上げた。
そのまま夜の路地を抜け、雨の気配のする空の下へ。
◇◇◇
王都の外れ、石造りの下町寄りのブラクストン街。
エドガー・レイブンズの部屋の扉が、深夜にノックされた。
エドガーは小さく眉を寄せて灯を持ち、扉を開ける。
そこに立っていたのは、血のにじむ襟元と泥にまみれた靴を履いたルシアン――
そして、その腕の中にはぐったりした少年。
「悪い。……少し、匿ってくれ」
ルシアンの声は低く掠れていた。
エドガーの群青の瞳が、瞬間、冷たく光を帯びる。
「中へ」
静かに扉が閉じられ、王都の夜の霧が、また外へと押し出された。




