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2 沈黙の公爵

 聴取室は静まり返っていた。

 窓は厚いカーテンで覆われ、外の霧の光も、街の喧噪も届かない。

 壁際の時計が一定のリズムで音を刻み、その音がやけに響く。


 エドガー・レイブンズは机の上に手を組み、正面の老人を見据えた。

 王立裁定院の聴取室――ここでは、貴族の契約、婚約、遺産、土地の権利といった、“貴族の体面では片づけられぬ事柄”が、法の名のもとに調停される。


 沈黙が続いていた。

 エドガーが一言も発していないのではない。

 彼が投げかけた質問に、目の前の老人が一言も答えていないのだ。


 アルバート・クロウリー公爵。

 かつて戦を止め、王の信任を受けた大英雄。

 だが今、その名は「孫娘を理不尽に婚約破棄した老人」として王都中の話題を攫っていた。


「まず、確認させていただきたいのですが――」

 エドガーは声を落とした。

「本件の婚約は、あなたのご判断により破棄されたと伺っています。

 その理由をお聞かせ願えますか」


 老紳士は微動だにしない。

 光を吸うような灰色の瞳が、机の一点を見つめていた。


 ――灰。

 あの令嬢の、淡く紫がかった瞳とはまるで違う。

 血が繋がっていようが、瞳の色が違うことなど珍しくもない。

 それでもエドガーは、なぜか一瞬、

 「同じであってほしかった」という感覚に襲われた。

 すぐに理性でそれを打ち消す。

 そんな感情は、この場にふさわしくない。


「ご令孫に非があるという話は、どこにもありません。

 社交界でも、皆が彼女を高く評価している。

 ――では何が問題なのでしょう」


 応えはない。

 沈黙が部屋を満たす。

 それはもはや無視ではなく、意志のある沈黙だった。


 エドガーは姿勢を崩さず、淡々と続ける。


「ご理解いただきたい。

 貴族の契約は、感情や気まぐれで覆すことはできません。

 婚約も同じです。

 それは家と家との契約であり、王立裁定院はその法的効力を守るために存在します。

 ですから、公爵。

 ――あなたの言葉を聞かせてもらわねば、

 この破棄を正式には受理できません」


 彼の声は穏やかでありながら、揺るぎなかった。

 それでも、公爵は動かない。

 背筋を伸ばし、まるでそこに彫像が据えられているかのように静止している。


 エドガーはペンを取り、白紙の記録用紙に視線を落とした。

 そこには、まだ一文字も書かれていない。

 沈黙を文字にすることはできない――

 それを理解していても、職務上、何かを書かねばならない。


『第一回聴取:陳述なし』


 その文字を、彼はゆっくりと記した。


「本日はこれで――」

 そう言いかけたとき、公爵が初めて口を開いた。


「法務官殿」

 低く、澄んだ声だった。

 老いを感じさせぬ響き。

 エドガーの手がわずかに止まる。


「私の言葉を、よく聞いていただきたい」

 短い間。

 空気が張り詰める。

 だが公爵はそのまま立ち上がり、ゆっくりと背を向けた。


「それでは」


 扉が閉まる。

 わずかな風が残り、机の上の書類をかすかに揺らした。


 何を聞けばよかったのか――

 何を聞かされたのか。


 エドガーには、まだその答えが見えなかった。

 ただ一つ、胸の奥で何かが静かに動き出すのを感じていた。


 まるで、沈黙そのものが言葉を持っているように。

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