18 非公式会談
午後三時の少し前、エドガーは時計店の前で立ち止まった。
硝子越しに、幾つもの針が淡く光を受け、静かな音を刻んでいる。
手にした黒壇の杖で、コツリと石畳を一度だけ叩く。
その向こう、霧の街路に馬車の影が止まった。
エドガーはウェストコートから金時計を取り出す。
チク……タク……チク……タク――。
霧の中を人々が行き交う。
店内では懐中時計と振り子がゆっくりと揺れ、光と影を映していた。
針が三を指した瞬間、彼は金時計の蓋を閉じ、革手袋を整える。まるで“刻”を見計らっていたかのように、ゆっくりと歩き出した。
――グレイハウンド・ティーサロン。
王都でも評判の老舗カフェ。その扉を押し開け、給仕に合図を送ると、彼は奥の個室へと通された。
ベルベットのカーテンが引かれた、窓のない小部屋。ランプの灯りが柔らかく揺れ、空気が静かに閉じている。椅子には、緊張に頬をこわばらせたレディ・ハートレーがいた。
「応じてくださって感謝いたします、レイブンズさん」
夫人の声はかすかに震えていた。赤いベルベットの椅子に映るその姿は、どこか脆く、けれど気品を失ってはいない。
「こちらこそ、お目にかかれて光栄です。
ヴァイオレットのドレスがよくお似合いですね」
微笑んで言うと、夫人は少しだけ頬を緩めた。緊張の糸がわずかにほどける。
やがて紅茶が運ばれ、静かに注がれる音と共に、ふわりと立ちのぼる香りが個室を満たした。
給仕が一礼して去る。足音が遠ざかるのを確かめ、エドガーは口を開く。
「単刀直入に伺いましょう。お話とは?」
夫人はわずかにうつむき、手袋越しに指先を組む。ひとつ深く息を吐き、ようやく言葉が零れた。
「……リリアン嬢のことです。彼女には、これ以上……関わらないでいただけませんか。
夫の説得はわたくしからいたします。
どうか、婚約破棄をお認めください」
「理由をお聞かせ願えますか」
夫人は目を伏せたまま沈黙する。
エドガーは柔らかくも鋭い声で続けた。
「我々は誰かを裁くためにいるのではありません。ただ法に則り、正しく記録を残すことが仕事です。
そして、この場の会話は決して外に漏れません。
――レディ、何かを恐れておられるのですか」
静かな声だった。
それでも夫人の瞳がかすかに揺れた。
「……詳しいことは存じません。
ただ、幼いころからリリアンを我が娘のように見てきました。
彼女を守るためには、これしかないと……。それだけは確かに申し上げられます」
「守る――何から、ですか」
夫人は首を振った。それ以上の言葉を拒むように。
エドガーは小さく息を吐く。
「アドリアン様は、どのように?」
「息子は夫によく似ています。曲がったことが嫌いで……きっと時間がかかるでしょうね」
「なぜ御子息ではなく、リリアン嬢の側に?」
「……女だから、でしょうか」
その答えにエドガーは瞬きをした。
夫人はわずかに微笑む。その笑みは痛ましいほどに優しかった。
ちょうどその時、カーテンの外から給仕の声がした。
「――お時間でございます」
夫人は立ち上がり、ドレスの裾を整えた。
「わたくしは、あなたならリリアンを守ってくださると信じております。
紳士ですもの」
その瞳には、リリアンへの愛情と、言葉にできない恐れの色があった。
エドガーも立ち上がり、静かに一礼する。
夫人の姿がカーテンの向こうに消えたあとも、彼はしばらく席を動かなかった。
紅茶を飲み干し、十分に時間を置いてから、彼はゆっくりと立ち上がる。
◇◇◇
外はすでに陽が落ち、街に霧が戻り始めていた。
裁定院に戻ると、人影はまばらで、ガス灯の光が書棚と壁をゆらめかせている。
静かな廊下を歩きながら、エドガーは思う。
――レディ・ハートレーは、真実を知っている。
だが、それを語れない理由がある。
群青の瞳に、ガス灯の炎が淡く揺れた。




