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17 霧の帰還

 翌日。

 王都オルドンは霧が晴れ、久しぶりに澄んだ空を見せていた。

 修道院から戻って一晩。エドガー・レイブンズは裁定院の机に向かっていたが、書類に目を落としながらも、どこか心が浮ついていた。

 一昨日見た古い墓碑の列が、いまだ瞼の裏に残っている。


 昼を回ると、彼は手帳を閉じて立ち上がった。

 外套を羽織り、街へ出る。霧のない街は、やけに明るく見えた。


 いつもは裁定院内の食堂で昼食をとるが、今日はたまに訪れる喫茶店“ミルフォード・ティールーム”へ。

 ガラス越しに陽光が差し、窓際には青い花瓶が飾られている。給仕に軽く会釈して、いつもの席に腰を下ろした。頼んだのは紅茶と、スープと、温かなロールパン。

 ベルガモットの香りが湯気に混じり、心を少しだけほぐしていく。


 その時、窓の外をラベンダー色の帽子が横切った。

 金の髪が光を受け、レースのベールが風に揺れる。


 ――リリアン・グレイ。


 街路の向こうで、彼女は侍女を従えながら歩いていた。

 陽の下では、どこか幼く、まだ少女の面影が残る。


 リリアンの瞳がこちらに気づき、わずかに見開かれた。

 ほんの数歩、足が止まる。侍女が「お嬢様?」と声をかけるまでの、ほんの一瞬。


 エドガーは、目を細めて穏やかに微笑み、彼女に小さく手を上げた。


 彼女は小さく帽子のつばに触れ、微笑みを返してから歩き出した。

 その頬がうっすらと染まっていた。


 窓の外の彼女の背が人波に溶ける。

 エドガーは再びカップを持ち上げ、冷めかけた紅茶を一口、静かに飲み干した。


◇◇◇


「珍しいこともあるものだ。引きこもりの法務官殿が突然の休暇だなんて」


 いつものようにノックもせず、ルシアン・ヴェイルが法務官室に入ってきた。

「引きこもり? 僕が?」

「自覚ないのか? 嘘だろ……」


 調査書類を手渡される。以前頼んだ、王太子派と保守派の派閥に関する報告書だ。

 群青の瞳が素早く文字の上を走る。ルシアンは本棚にもたれるようにして腕を組んだ。


「新しい情報はない。保守派は穏健派だし、王太子は野心家だが、このまま何もなければ殿下がそのまま玉座に座るだろう。

 まともな継承者がいないからな。だからといって派手な対立もない。

 ただ……いまだに燻ってる。先王陛下の非嫡出子がいるって噂、あれが本当なら話は変わる」


「十年以上前、エドマンド陛下の指示で本格的な調査が行われたはずだが、成果はなかった」

「まあ、噂は消えないのが噂ってやつさ」


 エドガーは小さく息を吐き、書類を机に置いた。

「もう、リリアン嬢について調べるしかないだろうな。彼女が、どこで、誰から生まれたのか」

「了解だ、サー。シンプルだけど難しい仕事だ」


 ルシアンはニヤリと笑い、役者めいた仕草で襟元を整えると、軽やかに部屋を出て行った。

「よろしく」

 声をかけるが、返事の代わりにバタンと扉が閉まる。


 エドガーはウエストコートのポケットから金時計を取り出し、時間を確かめた。

 書類を鍵付きの引き出しにしまい、文具をケースに戻し、机の上を布巾で軽く拭う。

 その布をたたんでしまい、フロックコートを羽織り、マフラーを肩にかけ、帽子を被る。


 今日の仕事が終わったのだ。

 彼は静かに部屋を後にした。


◇◇◇


 昼は晴れていたが、夜には再び霧が出ていた。

 ガス灯がぼんやりと橙に霞み、酒の入った紳士たちの笑い声がバーの外まで漏れている。

 濡れた石畳に光が散り、空気は湿って冷たい。


 エドガーはふと足を止めた。


 再び歩き出し、コツ、コツ、と黒革のブーツが音を立てる。

 数歩進んで、また止まり、振り返る。


「どちら様ですか?」


 レストランやバーの喧騒はあるのに、道を歩く者はいない。

 少し離れた場所に、黒いコートの男が立っていた。

 霞んだガス灯の下、帽子の影で顔は見えない。


「調査をやめろ」


 霧をも震わせるような低い声。

 エドガーは眉をひそめる。


「命は惜しいだろう」


 それだけ言い残し、男は霧に消えた。


 昨日、礼拝堂の脇で彼を見つめていた男――おそらく同一人物。


 ――そうか。やはり、あの修道院には何かある。


 エドガーは汗ばむ手で杖を強く握った。

 群青の瞳にガス灯の光が差し込み、赤く燃え立つようだった。

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