16 沈黙の修道院長
翌朝。エドガーはサミュエルの後ろについて、院長室へと向かっていた。
古い煉瓦の壁には湿り気が宿り、遠くから焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。石畳を照らす朝の光は淡く、修道院全体を柔らかな金色に染めていた。
コツ、コツ、と靴音だけが長い回廊に響く。修道女たちや生徒の姿はどこにも見えず、息を潜めるような静寂が広がっている。まるで世界が祈りの中で止まっているかのようだった。
院長室の扉の前でサミュエルがノックすると、内側から「どうぞ」と声が返る。
扉が開けば、シスター・マルグリット・アシュウェルが執務机の前に立っていた。白いベールが朝の光を受け、やわらかく光る。
「おはようございます。お時間をいただき感謝いたします」
エドガーが礼を取ると、彼女は微笑んで椅子をすすめた。
「いえいえ、とんでもございません。どうぞお掛けくださいませ」
ソファに腰を下ろすと、衣擦れの音がやけに鮮明に響いた。サミュエルが静かに茶器を用意し、紅茶を注ぐ音が部屋の空気に溶けていく。
「レイブンズ殿は、何かお知りになりたいことがおありですか?」
穏やかだが、わずかな緊張を含んだ声音。
エドガーは膝の上に置いた手にわずかに汗を感じながら、ゆっくりと首を振った。
「いえ。今回は私用で見学をさせていただきたかっただけなのです。お時間を頂いて申し訳ありません」
マルコムの紹介状を静かに畳み、シスターは脇に置く。
「そうでしたか」
その言葉に安堵が混じっていることを、エドガーは感じ取っていた。
「今、クロウリー公閣下と仕事で少し関わっておりまして。閣下がこちらへ寄付をされていたことを思い出したのです。それに、知人の御息女もこちらで学ばれていると伺いました。……ええ、噂に違わず、歴史と静けさに満ちた素晴らしい場所です。来てよかった」
穏やかに笑む。その声音が、やけに部屋の奥で反響するように聞こえた。
「そう言っていただけて、うれしく思いますわ」
彼女の笑顔の奥には、どこか測りがたいものが揺れていた。
それからしばらくは修道院の沿革や行事の話が続き、特に波風の立たぬまま会談は終わった。
◇◇◇
部屋を辞し、サミュエルの案内で回廊を歩く。ふと気づけば、礼拝堂の塔の影が足元に落ちていた。
深い赤茶の煉瓦に、風雨の痕が刻まれている。梯子を上った先に青銅の鐘があり、ひび割れの補修跡が鈍く光っていた。
――ゴォォーン。
昼を告げる鐘が鳴る。重く低い音が霧の中を渡り、丘陵を越えて遠くまで響いていく。
「この音は王都まで届くでしょう?」
「はい」
サミュエルは遠くを見るように目を細めた。
「私は以前、王都の大聖堂に勤めていました。ですが……内部の政治に疲れてしまってね。この音を聞くと、時々あの喧騒を思い出すのです」
鐘を見上げる彼の横顔に、かすかな寂寥が射していた。
「そうでしたか」
「王都はお忙しいでしょう? ……また疲れたら、どうぞいらしてください」
「ありがとうございます」
互いに微笑み、礼を交わす。
門前では、昨日も御者を務めた若い司祭が待っていた。
エドガーは帽子を取って礼を述べ、セント・アシュウェル修道院を後にする。
◇◇◇
馬車の揺れの中で、エドガーはふと外を見た。
霧の奥、礼拝堂の脇にひとつ黒い影が立っている。
鍛え上げられた体躯を黒いコートで包み、帽子を深く被った男が、彼の背をじっと見送っていた。
風が吹く。次の瞬間、影は霧に溶けて消えた。
――まるで、初めからそこには存在しなかったかのように。




