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15 沈黙の証人

 馬車を降りると、門前にシスター・マルグリット・アシュウェルが待っていた。

 静かな眼差しの奥に、何かを計るような光が一瞬きらめいた。

 挨拶を交わし、石畳を進む。


 セント・アシュウェル修道院――三百年の時を刻んだその建物は、まるで時間そのものが壁に染みついているようだった。手焼き煉瓦の礼拝堂は風雨に晒され、蔦が褪せた赤煉瓦を覆う。ステンドグラス越しの光が床に淡く散り、埃の粒がその中をゆるやかに舞っていた。


 渡り廊下に差しかかったところで、マルグリットが言った。

「修道院というのは、過去を保存する場所でありながら、いつも少しだけ未来を取り込もうとするものなのです」

 その声は、礼拝堂の静けさと同じ温度で、胸の奥に染み込んでくる。


 新設された学舎は、礼拝堂の古びた壁に白く寄り添うように建っていた。古い煉瓦と新しい漆喰、その継ぎ目をエドガーは黒革の靴で静かになぞる。

 向こうには白と灰の制服を着た若い令嬢たちの姿。

 彼と目が合うと、小さな黄色い悲鳴が上がった。


「はしたないですよ!」

 マルグリットの声は静かだが、よく通る。

 少女たちは一斉に姿勢を正し、礼をして走り去った。


「みっともないところを見せてしまいましたね」

「いえ、とんでもない」

 エドガーが穏やかに笑うと、シスターはほっと微笑んだ。



 その後の案内は、男性司祭サミュエル・ロークに引き継がれた。

 四十代半ば、物腰は柔らかいが、どこか怯えを滲ませるような人物だった。


 修道女寮へ続く道をそれ、古い裏庭の方へ足を向ける。崩れかけた石造の門、ひび割れた噴水、傾いた小塔。遺構の数々が、薄い霧の中にぼんやりと立っている。


「……本当に、歴史がある場所なのですね」

 エドガーが独り言のようにこぼすと、サミュエルは短く頷いた。


「この修道院には、古い約束が眠っています。……私も、深入りはしたくありません」


 その声音に、薄氷のような緊張が走った。

 エドガーが顔を上げた時には、司祭はもう視線を逸らし、「いえ、なんでもありません」と小さく呟いた。



 案内を終えて客人館の部屋に通されても、エドガーは落ち着かなかった。薄暗い灯りの中、椅子に腰掛けたまま手帳を閉じ、ゆっくり立ち上がる。

 気の向くままに廊下を歩き、礼拝堂の裏庭に出た。


 苔むした石畳、湿った風。

 手入れは行き届いているのに、どこか沈んだ気配が漂う。

 墓標がいくつも並び、刻まれた名はなく、ただ年月と、故人を称える言葉だけが淡く刻まれていた。


 かつてこの修道院は、政治亡命者や貴婦人の避難所でもあったという。彼らは「沈黙の証人たち」と呼ばれ、名を持たずに眠っている。


 陽が落ちていく。

 赤い光が、エドガーの瞳をかすかに染めた。


 ふと、一つの墓の前で足が止まる。

 墓碑には“アルデン暦九ニ九年”の刻印。

「……十八年前」

 リリアンの年齢と、同じ数字。

 偶然だろう。だが、胸の奥が冷たく沈む。


 そっと手を伸ばし、指先で文字をなぞる。

 その時――


「レイブンズ殿。あなたは法を司る方でしたね」


 静かな声が、背後から降ってきた。

 振り返ると、ランプを手にしたシスター・マルグリットが立っていた。橙色の灯が彼女の白いヴェールを照らし、その影が墓石に淡く揺れる。


「法は、いつも真実の味方とは限りませんよ」


 その言葉が、霧の中に溶けて消えた。


「……食事の時間ですよ」

「……はい」


 エドガーが返事をした時、鐘楼の方で小さな鐘が鳴った。

 陽はすでに沈み、白くぼやけた月が、闇の中にひとつ浮かんでいた。

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