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13 助言

 上級法務官マルコム・ヘインズは、机の前に立つ男の顔を見上げた。派手さはないが端正な顔立ちのエドガー・レイブンズは、その群青の瞳にわずかばかりの興奮を溶け込ませている。

 普段は表情をほとんど崩さぬ男だ。だが今は、わずかに熱がある。


「何かあった?」

 マルコムは丸っこい手を差し出し、促した。

 エドガーは手を組み、少し前屈みになる。

「リリアン・グレイの件です。彼女の出生に疑惑が生まれました」

「クロウリー閣下の孫ではない可能性が浮上したということ?」

「はい」


 マルコムはしばし天井を仰ぎ、椅子の背にもたれた。

 英雄クロウリー卿の血を継がぬ子。沈黙を貫く老公爵。

 そこに、ただならぬ影が横たわっていることを悟らぬほど、彼も鈍くはない。


 指で後頭部の寝癖をいじりながら、マルコムは青年を見つめる。

 この若者は誠実だ。だが同時に、危ういほど真っすぐだ。

 目の奥に宿る青が、時に鋭すぎる。


「エドガー、調べたいんだね?」

 老練な声が静かに落ちた。

「ここで調査を止めて、公爵の立場を重んじて破棄を受け入れるという選択もある。それは怠慢でも逃げでもない。己と組織を守るための判断だ」


 群青の瞳は揺るがなかった。

 マルコムは微笑を含ませて小さく頷く。

「いいよ。好きにやりなさい。ただし、事がことだ。極秘事案として進めて」

「はい」


 返事を聞くと、マルコムは口角を上げた。

「明日は休日だ。家内が今晩、シチューを煮込むと言っていた。良かったら一緒に食べないか?」

「いいんですか?」

「もちろん。どうせお前、冷えたパンとチーズで済ませる気だったんだろう?」

 からかう声に、エドガーは苦笑した。


◇◇◇


 夕刻。ヘインズ家の食卓には、温かな灯がともっていた。

 王都の北側、レンガ造りの三階建て。貴族といっても下級の家柄で、暮らしぶりは質実だが品があった。


 マルコムの夫人ヘレンは小柄で朗らかで、柔らかな金髪を後ろで束ね、エプロンの裾を直しながら笑っていた。

「あら、エドガーさん。自慢のシチューよ。たくさん食べてって」

 言いながら、陶器の鍋の蓋を外す。赤ワインでじっくり煮込まれたビーフシチューの香りが、部屋いっぱいに広がった。

 焼きたてのパン、ポテトのグラタン、薄切りのローストラム。使用人が手際よく皿を並べ、シャンパンの栓が軽い音を立てて弾けた。


 この晩餐は、月に一度程度の習慣だった。

 人当たりはいいのに人付き合いをしないエドガーが、自分から顔を出す数少ない場。ルシアンとマルコム夫婦以外に、彼が食卓を共にする相手はいない。


 マルコムは、丸みを帯びた体を揺らしながらグラスを掲げた。


「さぁ乾杯だ。裁定院一の律義者が、今月も無事にうちの飯にありついたことを祝して」

 

 エドガーはいつもの穏やかな笑みを浮かべ、少しだけ肩をすくめた。

「マルコム卿の晩餐は、僕の心の栄養ですから」

「まったく、口の減らない男だねぇ」

 夫人が笑い、マルコムも豪快に笑った。


 食卓には、穏やかな笑いが絶えなかった。

 夫人が旅先の話をすれば、エドガーは楽しそうに笑い、グラスを手に肩を揺らした。


 ヘレンはそんな彼を見て、まるで息子を見るような目を向けていた。

「あなた、もう少し食べて。細いんですから」

「そうですか? 食べてるつもりなんですが」

「この“つもり”ってところが怪しいのよ」

「まるで母に叱られている気分です」

「それは光栄ね」

 暖炉の火がぱちりと弾け、三人の笑い声が重なった。


 話題は街の噂へ、そして最近の書籍の話へと移った。夫人が旅の話を、マルコムが古い友人の失敗談を披露し、エドガーはそのたびに目を細めて笑った。


 そんな折、ふと夫人の口から上がったのが――セント・アシュウェル修道院の名だった。


「聞いたことはあります。オルドン郊外、セイブル丘陵に建つ古い女子修道院ですよね」


 エドガーのグラスに、使用人がシャンパンを注ぐ。


「そうなの。今は貴族令嬢が学問や礼儀を学ぶ場所でもあるのだけど、知り合いの娘さんが今そちらにいるのよ。とても美しいところらしいわ」


 マルコムが続ける。

「王政転換期には、政治亡命者や王の愛人が身を寄せたこともあってね。“静寂の墓所”なんて呼ばれていた」


 その言葉に、エドガーは短く息を飲んだ。

「……そういえば、クロウリー公閣下もあの修道院に寄付しておられたはずですね」

 グラスの縁に唇を当て、ゆっくりと一口。泡が静かに舌を撫でた。


「気になる?」

「……はい。理由は分かりませんが、妙に引っ掛かります」


 マルコムは頷き、椅子の背に体を預けた。

「じゃあ、一日休暇をあげよう。休日と合わせれば二日になる。日帰りでもギリギリ行ける距離だが、余裕は欲しいだろう? 帰る前に執務室に寄ってくれ。紹介状を書いておく」


 暖炉の火がぱちりと弾けた。

 穏やかな夜の静けさの中で、エドガーはグラスを見つめる。


 修道院――“静寂の墓所”。


 その名が、遠い鐘の音のように耳の奥で響いていた。

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