10 再調査
ざぁっと音を立てて雨足が強くなった。エドガーは与えられた法務官室の窓際に立ち、調査書類を片手に外へ視線をやった。
王立裁定院から見える大通りを、馬車が泥を跳ねさせながら通り過ぎていく。ガラスに触れた髪が湿り気を帯びて、革紐から抜けた一房が頬に落ちた。
ノックもなく背後の扉が開き、エドガーは顔だけそちらに向ける。
「エドガー、追加だ。ハートレー家について調べてきた。ミストラッツにも動いてもらった。だが、これも空振りだと思う」
髪と肩を雨に濡らしたルシアンが、脇に抱えた革のケースから書類を取り出した。調査書類は無事だが、彼の髪先から雫が一滴、床に落ちる。
「降られたのか。災難だったね」
ポケットからハンカチを取り出し、それを差し出しながらエドガーが言うと、ルシアンは片手を上げて「大丈夫」と断った。
「ここへ来る前に事務室で布巾を借りてきた。お前のシルクのハンカチは使いたくない」
ルシアンは片眉を上げて白い布を掲げて見せる。エドガーは手元のハンカチを見て、またポケットに戻した。
ルシアンは壁際の椅子にドカリと音を立てて座る。
「リリアン嬢のお相手、アドリアン・ハートレー。父は軍務卿、母は名家の令嬢。本人も騎士勲章を授かるほどの、いわゆる“理想的な青年貴族”だ。王政への忠誠心が強く、穏やかで潔白。リリアン嬢とは社交界でも模範的カップルとして評判だった。
裏で女に暴力を振るうような男も多いから、その線でも探ったが成果はゼロ。むしろそういう行為を嫌う傾向の方が強い。まさに理想的な男だ」
「婚約の経緯は?」
「王政安定の象徴として、裁定院を介して結ばれた政略婚。だが当人同士の関係は極めて良好だった」
エドガーも静かに腰を下ろして、書類を捲る。先日面談した時の印象も確かに悪くはなかった。
「ハートレー卿は?」
目線を上げると、ルシアンはガシガシと髪の雫を拭いながら答える。
「貴族嫌いな俺でも好感が持てるほどに現実主義者で堅実な人だ。不正もない」
エドガーが書類の一部を指でなぞった。
「ここ一年で、王太子派になったのか」
「確かにそこは気になる。かつては穏健な保守派だった。しかし二年前に現国王エドマンド陛下の弟が病没し、跡を継いだ王弟の孫――王太子が権力基盤を固めるため、保守派を束ねる軍務卿ハートレー卿を重用した。結果、彼は保守派から王太子派の中枢へと移った」
エドガーは前髪をかき上げ、窓の外に視線を向ける。
「だけど……」
ルシアンは布を肩にかけ、自分の太ももを手で軽く叩いた。
「そう、だけど、クロウリー卿は保守派の人間だ。保守派同士だからこそ婚約が結ばれたとも考えられるが……」
エドガーが先を引き取る。
「閣下はすでに政治闘争からは身を引いている。彼が保守派としての立場を維持しているわけでもないし、まして反王太子派でもない。たとえハートレー卿が王太子派に転じても、過激なことをしていない限りは影響はない。破棄に至るほどの強い動機とは思えない」
ルシアンは両掌を上に向け、肩をすくめる。
「だろう? 今回も空振りだ。あの爺さんが破棄したがる理由がさっぱり分からん」
エドガーは調査書類を机にそっと置いた。
「でも、掘り下げるなら、ここしかない気がする」
顎に手を当て、視線を宙に泳がせる。
金の髪がふわりと揺れ、ルシアンは勢いよく天を仰いだ。
「政治戦争か。苦手分野だが、お前がやれと言うならやる。何が知りたい」
エドガーは苦笑しながら答える。
「すまないな。派閥について一度洗ってくれ。それから――」
その時、背後の窓から電閃が走り、直後に雷鳴が轟いた。黒髪を揺らして窓を見るも、大粒の雨に遮られて外は霞んでいる。
「大荒れだな」
ルシアンがため息を吐くと、エドガーはふとその琥珀の瞳を見た。
「そういえば、君は貴族嫌いだったな」
彼は足を組み直し、脇に置いた革の書類ケースを膝に置く。
「そうだが? 俺は戦争帰りだ。あそこでは人間の本性が剥き出しになる。お貴族様には辟易だ」
「……僕も貴族の一員なんだが、忘れてないよな?」
「シルクのハンカチを持ち歩く男爵家の三男だろ? そこはいかにも貴族っぽいよな。だが、お前みたいな風変わりな貴族がそうそういてたまるか」
「褒められてるんだか、貶されてるんだか……」
エドガーが眉を顰めると、ルシアンは楽しげに笑った。
一呼吸おいて、ルシアンが群青の瞳を覗き込む。
「で? エドガー、何か言いかけただろう?」
「そうそう、クロウリー卿の実の娘について、もう一度調べて欲しい」
エドガーが薄く笑みを浮かべて書類に手を置くと、また稲光が走った。
それはまるで、禁忌に触れようとする者への警告のようだった。




