壊れた鏡
私は墓の前に立ちつくしていた。五月のまだ冷たい雨が墓石に降り注いでいた。黒い御影石の表面には戒名が書かれている。そこには、私の戒名が書かれている。そうだ。三年前のこの日、私は死んだのだ。今日は私の三回目の命日なのだった。
しかし、今の私は、この場にいる私は生きている。生きているのだ。しかし、それは私ではない。ここにいる私はもはや別の人格なのだ。
「総帥…」
雨に打たれ続けていた私の後ろから傘が上がった。振り返ると、秘書の黒田が側に寄っていた。私が子供の頃から、何十年も前から我が家に、そして我が社に仕えてくれている。まるで古武士のようないかつい風貌と眼光を持つ。
「やはり、ここでしたか」
「そう…だって、今日は私の命日ですもの」
私は、久しぶりに女の言葉を使った。それを使うことは三年前から禁じられていた。禁じなければならない所行だった。しかし、今墓地には私と黒田以外の人影は見えない。黄昏に近づいた雨の中、こんな場所に好きこのんでいる者はまずいない。この場であるからこそ、そして、側にいるのが黒田であるからこそ、私は女の言葉を使うことが出来る。
「もう…三年…由希人様が逝かれてから…」
「違うわ。死んだのは私…」
私は寂しく墓石を眺めた。そこに書かれているのは紛れもない私の名前だった。その下に埋まっている人間が私ではないとはいえ、本来の私は三年前に死んだのだ。
私の家はその地方でも知られた旧家であり、財閥だった。多くの山を持ち、材木の管理から一代で財を築いた曾祖父。それから連綿と、その家系と莫大な財貨は受け継がれていた。
そんな環境だったから、私の双子の兄である由希人は、随分期待され、また、厳しい教育を受けていた。父の後を継いで、いずれはグループを仕切る存在だった彼は、どこまでも拘束され、周囲の人々の目に晒されていた。
それに比べて私は気楽だった。女には後を継がせないのが方針だったから、私はただ嫁に行くことだけを考えて日々を暮らせばよかった。もっとも、相手だけは父が選ぶはずだったので、恋に身をまかせるわけにはいかなかった。しかし、そんなことからどこか冷めていた私は、特に誰も愛さずに日々を過ごしてきた。
兄は、強い男だった。正直、私はこの兄を愛していた。線の細い、男にしては華奢な体つきだったが、芯はしっかりして、指導者としての器を持っていた。大学を出た後、すぐに父から一つのグループを任されて、着実に実績を伸ばしていた。一年も経つと、彼の任された分野の実績は倍近くハネ上がり、翌年には更なる飛躍を期待されていた。それにひきかえ、私はなにもしなかった。いや、できなかった。また、父から近々、相応な企業の社長と見合いをする話も内々に出ていた。学生時代よりはいっそう何もなくなった私は、無為に日々を過ごすしかなかった。
兄が会社に加わって一年経った。そんな時、父がまさかの飛行機事故であっさりと逝った。そのため、すぐに兄が後を継いだ。しかし、その予想外の出来事に、盤石と見えていた我が家のグループも、急速に揺らぎ始めた。同族企業などは所詮そんなものかもしれない。父の弟、私たちにとって叔父に当たる人物が、様々に兄と張り合うようになってきた。軋轢は直に、会社としての業績にも響き始めた。
そんな中で、兄は全力を振り絞り、会社を建て直し、叔父を始めとした親戚達からの攻撃もはね除けていた。ただ、感嘆するしかない精神力だった。同じ双子でもこれだけ違うと、私は劣等感や羨望を通り越して、ただ憧れるしかなかった。
今だから分かるが、叔父達は相当に卑劣な行為を、兄に対して繰り返していたらしい。他の企業を巻き込み、カルテルやダンピングを行って、わざわざ兄の管轄する分野に大きな損害を与えていたようだ。兄はそれらの損を補填すべく、ほとんど超人的な働きをしていた。
しかし、とうとうそれが尽きた。具体的には、彼の肉体が尽きてしまったのだ。信じられない話だった。まさか、彼が病に倒れようとは。いつの間にか、彼の骨髄は蝕まれ、髄液の移植ももはや無理な状態へ成り果てていた。
五月の深夜のことだった。あの日もこんな風に雨が降っていた。黒田が密かに手配してくれた車で、私はグループ関連の病院に駆けつけた。
集中治療室にいると思った兄は、その部屋にはいなかった。黒田が駆け寄り、四階のある個室の場所を告げた。私はほっとしたが、黒田は逆に険しい顔をした。もう、一刻の猶予も無いと彼は言った。集中治療室を出たのは兄と黒田の強い意志だった。そうだ。兄は誰もに聞かれずに遺言をすることを考えていたのだ。
私は慌てて階段を駆け上った。病棟の四階にある個室群は、四の連想から普段は使われることがない場所だった。この階の奥まった個室に兄はいた。私は急いで部屋に入った。
誰もいなかった。医師も、看護師さえもいなかった。ただ、兄がベッドに横たわっていた。粗末なベッドだった。高熱にやつれたその顔を見て、私は即座に彼の死期を悟った。
言葉もなく立ちつくしていた私の前で、兄が半身を起こした。死に近いその体に、そんな力が残っているのが大きな驚きだった。しかし、次に彼が発した言葉は、更に私を驚愕させた。
「死んでくれ」、と兄は言った。私は言葉も無かった。もう一度、彼は言った。「死んでくれ」、と。苦しい息で喘ぎながら、彼は訥々と語った。このまま自分が死んでは、グループは叔父の一派に乗っ取られてしまう。それだけは絶対に許されない。死んだ後に父に会わせる顔が無い。兄は続けた。この夜、死ぬのは鍋畑由希人ではない。その妹である遥香なのだ、と。男女で二卵性の双子だが、私と兄はかなりよくその容貌が似通っている。兄は私に自分の身代わりになれというのだ。
思わず身を引いた私に対して兄は言った。ホルモン注射で声と体型を変えることは不可能ではない。それに、小柄な兄と私の間にはさほどの身長差はない。十分に身代わりはできる。会社のことは黒田に任せればいい。ただ、お前はいるだけでいいのだと彼は言った。
黙ったまま返答できない私に対して、兄は何度も頼む頼むと繰り返した。熱い手を私の両肩に乗せて、涙ながらに頼んだ。それは、彼が私に頼んだ初めての願いであったと思う。人に対して常に命令してきた彼は、たとえ妹でも私に頼みなどしたことがなかった。
私は身震いがした。恐ろしかった。しかし、同時にどこかでもう兄の提案を受け入れる覚悟はつき始めていた。どうせ、この後生きていても、私という人間の人生、何かあるわけではない。父が死んだために流れていた見合いの話も、近々再燃させられる予定となっていた。好きでもない人間と一緒になり、子供を産んで、望まない家庭を作る…
私は首を縦に振った。それでもいいのだと思った。この日、死ぬのは兄ではなく私の存在なのだと。そして、もうほとんど力を無くしている兄の体を抱き寄せた。私は初めて腕に男の人を抱き寄せた。これで、最初で最後だと思った。この後、私は男として生きていく。その熱は、私が体験する、唯一の熱さであった。そして、私が生涯唯一に愛した人のぬくもりであった。
翌朝、兄は息を引き取った。その遺骸は私のものとして処理がされた。全ては黒田がうまく手を回してくれた。その後私は手術で顔も変え、薬で声も変えて、兄の姿になりかわった。
それから三年が過ぎた。全ては黒田が都合良く取りはからってくれた。私には兄ほどの手腕はなかったが、兄の姿が会社にあるだけでも、全てはこちらの都合良く動いていた。それだけ、兄の存在は大きかったというわけだ。
私の顔は、兄の顔に成り果てている。それは私が女として生涯唯一愛した人の顔だった。その顔に私は成りすまし、この三年間を生きていた。しかし、いくら似ていても、所詮私は兄の姿を壊して映し出している。縮胸手術もし、薬の投与で男性の体のように見せかけてはいる。だが、私は所詮女の肉体でしかない。
黄昏を過ぎて、墓地には小さな水銀灯が点り始めた。私の名前が刻んである墓の上にも小さな明かりがまたたいて点る。その明かりが墓石を照らし、その滑らかな表面を、不完全な鏡のように映し出す。
その墓石に映ったのは私の顔である。そしてそれは兄の顔でもあった。そして、本当にその名前と顔を持つ人間は墓の下で眠っている。三年前のあの日、私と兄も二人とも死んだのだ。では、今ここにいるのは誰なのか…私ではなく、兄でもない人間がここにいる…
後に残ったのは壊れた鏡。そう、死人の姿を映し出した鏡でしかないのだった。私は墓の前で額ずいた。私が無くした半分が、永遠に取り戻せないそれがそこに埋まっている。
私は立ち上がることもなくその場にいた。誰も、何も言葉もなかった。五月の雨は時と共にその強さを激しく増していった。