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八章・|光焔《Flamme》

 翌朝、「さて」と前置きを置いてからシャルル王子は話した。「昨日(きのう)の戦いでは多くの帝国兵を捕らえ、残りの帝国兵も見事退けることができた。今回の敗北は帝国軍にとって相当に手痛い失敗のはず。“反転攻勢”こちらから打って出る機はいまを置いて他にないだろう」

「いよいよだね」オリヴィエが答える。

「ああ。昨日(さくじつ)の帝国による傍若無人な侵攻で、他国へ対する大義名分も得られた。いまや()が国を糾弾する者はいない。大手を振って反撃に出ることができる」シャルル王子は少し溜めて言った。「狙うは帝国宰相、その人ただ一人。暴虐理不尽極まりない帝国の侵攻に終止符を打つ」

「うん……あれ? でもさ、宰相様を討つにしろ、生かして捕らえるにしろ、帝国軍の人たちはいまよりも躍起になるんじゃないの? 宰相様のために」

「ふむ……。君の言い分はもっともだ……だが、宰相を生きて捕らえることができれば、帝国もそう易々とは()が国に手を出すことはできなくなるだろう。そうなってしまえば、宰相を人質に取られているようなものだからね」

「あ、そっか」

「それに……軍上層部の人間の中には宰相の決定に嫌々従っている者も少なくないと聞く。彼らはむしろ宰相が捕まったことに胸を撫で下ろすだろう。『宰相を人質に取られてしまえば和平交渉に応じるしかない。これで戦争をしなくて済む』と。(くだん)の傀儡のようだという兵士たちも、指示がなければ動けない。そうだったね?」

「うん……。元門番のおにーさんが前にそー言ってた」

「以前とは人が変わってしまったという帝国宰相に懐疑的な者が多いいま、玉砕覚悟で軍を動かすほどの求心力はないだろう。大丈夫。きっと――いや、必ずうまくいく。それに……すでに二度も帝国軍の侵攻を退けているんだ。さらにそのうちの一度は帝国軍全戦力を挙げての侵攻ときた。もはや帝国からの報復など恐るるに足らず。彼我の戦力差は一目瞭然さ。と、いっても……それもこれも全部君の武力(ちから)によるもの、というのが情けない話だけれどね」

 シャルル王子はおどけるようにそう言って自重気味に笑ってみせる。

「わかった……。とにもかくにも、宰相様を生きて捕まえてくればいーんだね」

「ああ。あとのことはこちらで考える。君が思い悩む必要はない。また君の力に頼ってしまうことになるけれど……」

「ううん」そう言ってオリヴィエは首を横に振る。「“他の人が動けばそれだけ人的被害が出る可能性もある。被害を最小限に抑えるためには僕が動くのが一番いい”でしょ?」

「すまない……」

「そこは“ありがとう”でしょ」

「ふっ。そうだね、そうだったね。ありがとう、オリヴィエ。恩に着る」


 ――後刻、帝国城下外周。

「なんでこんなコソコソしないといけないの? こーいうのは僕の(しょー)に合わないんだけど」オリヴィエが言った。「別に悪いことしに来てるわけでもないのにさ」

『いくら大義名分があるとはいえ、ここは敵国の本拠地です。それに……先の戦いで、あなたの顔は帝国兵にも嫌というほど知れ渡ってしまったことでしょう。あれだけ縦横無尽に暴れ回ったのですから。あなたが正面から行けば間違いなく騒ぎになる。そうなってしまえば、宰相は雲隠れしてしまうでしょう?』

「そっか、それじゃ目的果たせなくなっちゃうもんね」

『ええ。さらに言うなれば、いくら向こうから襲い掛かってくるとはいえども、気絶に留めているとはいえども、ただ操られているだけかもしれない帝国兵の方たちを殴打するというのは、あまり気分のいいものではないでしょう?』

「……そーだね……」そう言ってオリヴィエは自分の拳を開いたり閉じたりした。「いまもこの手に残る感触が、みんなの(くるし)みなんだよね……」

『ええ。ですから、彼らをその苦しみから一刻も早く解放してさしあげましょう。そのためにはいまは隠密行動あるのみ、ですよ』


 外敵の侵入を拒むために設けられた堀をオリヴィエは軽々と跳び越える。大昔(かつて)帝国城を難攻不落と言わしめた一因となったお堀でさえも、オリヴィエの前では雨上がりの路上にできた小さな水たまりに等しかった。

 堀を越えた先に待つものは、帝国城下をぐるりと囲うように張り巡らされた、ゆうに二メートルは超えるであろう外壁。侵入者を阻むその巨大な外壁でさえもものともせず、堀と纏めて一足飛びに跳び越えてしまった。

 外壁の上に着地したオリヴィエの眼前には、宰相がおはす帝国城。本来外敵の侵入を阻むために(そび)え立っていたその外壁を、ちょうどよい足がかりであると言わんばかりに踏み台にし、跳躍してみせる。いにしえ、堅牢強固と言われた帝国城下、その造りが、オリヴィエの身体能力の前ではかえって(あだ)となり、帝国城上階からの侵入を許すことになってしまったのである。

「――よっ! と……」窓枠を跳び越え城内へ侵入したオリヴィエが、キョロキョロと室内の様子を窺いながら小声で言った。「想定(おもった)よりも簡単に忍び込めたね」

『ええ……ひとまずこの部屋に兵士の姿はないようです。はたしてアレを“簡単”と言ってよいものか、甚だ疑問ではありますが』

「それにしても不用心(ぶよーじん)だね。窓を開けっ(ぱな)しにしておくなんてさ」

『無理もありません。上層の窓からの侵入など、最初(ハナ)から想定していないのでしょう。このような芸当、おそらくあなたくらいのものですから』

「珍しく褒めてる?」

 小声で会話を交わしながら、扉のほうへと歩み寄る。

『ええ。そう受け取ってもらって構いませんよ』

「明日はきっと雪が降るね」

 オリヴィエは両手を軽く上に上げながらそう言うと、扉の前で立ち止まった。

『……どうやら巡回兵はいないようです。部屋を出るときは細心の注意を払ってくださいね。ここで見つかってしまってはすべてが水の泡ですから』

 オリヴィエは黙してこくりと頷く。いまにも軋みそうな木製の扉を、決して音を立てぬよう、最大限の注意を払ってそーっと開く。

『……どうやら宰相は現在玉座に腰を据えているようです。まずはそちらを目指しま――な!?』

「どーかしたの?」急いで問う。

『に、にわかには信じられませんが……宰相と目が合ったのです。はっきりとこちらを見て、にやり、と』

「それじゃあ僕らの侵入はバレてる、ってこと?」

『そんなはずは……私の存在を感知できる者などこの世には……。いえ、とても信じがたいことではありますが、状況がそれを物語っているのもまた事実。……どうやら付近に兵士はいないようです。待ち受けるは帝国宰相ただ一人』

「どー考えても罠、だね」

『ですね……』

「どーする?」

『これは予想だにしなかった不測の事態……。考え()るかぎり、最悪の状況(ケース)です。私だけでは正確な判断が……。一度、王都に戻ってシャルル王子のご判断(しじ)を仰いだほうがよいかもしれません』

「――行こう。宰相様のもとへ。“次”はもうないかもしれない」

『で、ですが、このままではオリヴィエの身に危険が……』

「僕ならだいじょーぶ。アンジェの声に従って生きると決めた時から、そのくらいの覚悟はできてるから。“虎穴に()らずんば虎子を得ず。リスクなくして得られる物は得られない”でしょ?」

『オリヴィエ……。いままでとは状況が違うのです、今回ばかりはそういうわけにも……。……いえ、あなたは一度決めたことはテコでも動かない性分(せいかく)ですからね。結局(さいしゅうてきに)は私が折れることになるのです。いつだって』

「えへへ。よくわかってんじゃん」

『はぁー……。今回ばかりは本当の本当に私にもどうなるか予想もつきません。いいですか? 何も今日(きょう)(かかずら)う必要はないのです。今日(きょう)駄目(だめ)ならまた次の機会を窺えばいい。危なくなったら退却することも視野に入れ、退き際を常に見極めるのです』

「うん、わかった。……アンジェってば、いつも僕のことこき使うくせに心配だけは欠かさないよね」

『――当たり前です! あなたの御身に代えられるモノなど何一つないのですから……』

「ありがとう、アンジェ。アンジェのその想い無駄にしないよーに僕頑張るね」

 〈……ごめんなさい、オリヴィエ。私、まだあなたに本当のこと……〉


 ――「あの扉の向こうに宰相様が……」

 玉座の間へと通ずる特殊な装飾の施された大扉を前にオリヴィエが言った。

『充分に注意して進みましょう』

 大扉へと続く廊下を半分ほど行ったあたりで、扉の(うち)より漏れ出す瘴気に気づいたオリヴィエは足を止めた。

「なに? これ」声を震わせ、訝しげに呟いた。

『あなたも気がつきましたか、この先から発せられる瘴気に……。あまりに邪悪で、とても人間のものとは思えない身も竦むような気配……。宰相が“何かに取り憑かれてしまった”というのは、あながち間違いではなかったのかもしれません』

「ただごとじゃないね……これは……」

『ええ……。思っていたよりもずっと、事態は深刻だったようです……』

「でもさ、もし本当に何かに取り憑かれてるんだとしたら、以前(もと)のみんなから慕われていた宰相様に戻せるかもしれないってことだよね。王国(ぼくたち)にとってはむしろ都合がいいのかも」

『そうですね……もとより生け捕りにする予定(つもり)ではありましたが…………。となると、なおのこと宰相殿を傷つけるというわけにいかなくなりましたね……』

「傷つけずに生け捕りなんていくらなんでも無茶が過ぎない?」

『もちろん、非常事態ですから。多少のやむを得ない荒療治は辞さないでしょう。なにはともあれ、宰相殿が何かに取り憑かれているというのも現状では憶測の域を出ませんし、仮にそうであったとしても、どうやって元に戻すのかわからずじまいです。いまは難しいことは考えず、武力(ちから)で屈服させることだけを考えればよいでしょう』

「……アンジェって意外とのーきんだよね」

『「のーきん」とはなんです?』

「脳みそが筋肉でできてるってこと!」

『言い得て妙ですね……。と・に・か・く。やることは至ってシンプルです』

「――わかってるよ! いつもどーり拳でわからせればいーんでしょ?」

『まあ、端的に言えばそうなります』

「それじゃ行こっか。この扉の先に」


 オリヴィエが扉を押し込めると、大きく軋むような音を立ててゆっくりと開く。部屋へその足を踏み入れるとひとりでに、バタン、と大きな音を立てて扉は閉じた。

 この時オリヴィエは、“もう引き返すことはできないのだ”と、そう直感していた。といっても、もとより引き返す気などさらさらなく、この時すでに退却のことなど頭よりすっぽりと抜け落ちていた。そればかりか、いかにもな雰囲気を醸し出すこの(シチュエーション)に、オリヴィエの気分(テンション)は上がりつつさえあった。

 そんな余裕綽々といった様子のオリヴィエにさえも、玉座に座する帝国宰相を一目見たその瞬間、緊張が走った。目の前に鎮座するそれは人の形をした“ナニカ”なのだ、と。そう、オリヴィエの直感が告げていた。

 得体の知れない恐怖。たじろぐことさえ許さない戦慄が、その場を支配していた。

「よくぞ参った……英雄よ」霞がかったような、低く鈍重な声で宰相は告げる。「よもや我が軍勢を二度も退けた英雄が……かように幼き少女だったとは」

『オリヴィエ、気をつけてください。伏兵の姿は見えませんが、何を仕掛けてくるかわかりません』

「――伏兵などおらぬ。心配せずともよい。この場には我一人なり」

『私の声が聞こえるのですか!?」

「当然……当然至極。かねてより貴様のことは把握(にんち)しておる。忌まわしき世界樹の精よ」

『あなたは何者です!!』

「我が何者か……など瑣末なことよ。貴様たちはじきに忌まわしき世界樹とともに朽ち……死してゆくのだからな……。のう? アンジェロールム」

『っ! なぜその名を!』

「死を目前に……疑問の尽きぬことよ。言ったであろう……。貴様のことは、『かねてより認知しておる』……と」

 〈……私がその名を捨てたのはもう数百年も前の話。このモノはそんなにも前から人間界に潜んでいたというのですか? ――いえ、そもそも人間界ではその名を語ったことなど……〉

「なぜ……なぜ我が一人で待っていたかわかるか?」

 オリヴィエたちは何も答えない。

「答えぬか……それもよいだろう……。それは――」

「それは、足手纏い、でしかないから……」

 宰相の言葉を遮るようにしてオリヴィエが言った。その声に、いつものような元気はなかった。

「ほう? なかなか見込みのある考え方をする娘ではないか……。その通り……我が一度(ひとたび)全力を出してしまえば、その力に耐えきれん塵芥など消し炭になるのがオチ……。せっかく手に入れた手駒を、いたずらに失うこともないだろう?」

「……意外と物を大事にするタイプなんだね。彼らは塵芥でも物でもないけど」

「我にとっては“物”も“者”もそう変わらん……。皆等しく滅ぶべき存在なのだからな……。どうせ滅びゆく存在なのだ……せめて最後くらい役に立ってもらわねばかわいそうであろう……。そう……我は貴様ら塵芥に存在価値を与えてやっているのだ……」

「いったい何様のつもり?」

「“何様”……か……。それは我自身わからん……。だが……先ほども申したように、我が何者かなど瑣末なこと……。あるのはただ……貴様たちは我に滅ぼされる存在であるというその事実のみ……。我が何者かなど、気にする必要もない……。ただ黙って滅ぼされればそれでよいのだ……」

 ぶわっと、宰相から勢いよく瘴気が噴き出す。火砕流のように押し寄せる黒き瘴気が、オリヴィエを襲った。

「ぐっ! うぅっ……!」

 その身を押し流されるような風圧と、その身を蝕む瘴気に必死で抗うオリヴィエ。宰相は腰を上げ、つかつかとオリヴィエのもとへ歩み寄る。

 〈まずい……穢れの力が大きすぎる……。このままでは……せっかくオリヴィエの身を清めたばかりだというのに……〉

「がっ……! あ……あっ!!」

 悲痛な声を上げ、苦悶にその身を(よじ)るオリヴィエ。限界を迎えたのか、膝からその場に崩れ落ちた。

『オリヴィエ!!』

 〈くっ! 瘴気があまりにも濃すぎる……このままではいずれ私も……! こ、こんなあっけない幕引きなど――〉


 ――同刻、王都市街噴水広場。

「諸君! 集まってもらったのは他でもない!」

 集められた兵士たちと国民の前で、シャルル王子はその声を張り上げた。

「本日! 我らがラフランスの乙女、オリヴィエが! 帝国の凶行を止めるべく! 一人、帝国宰相の生け捕りという危険かつ重大な任務を果たそうとしている! わずかでもいい! 貴公らの祈りをオリヴィエの生還に捧げてはくれまいか!」

 王子の先導の(もと)、一部の者たちは熱狂的なオリヴィエコールを上げ、また、一部の者たちは瞑想し、静かに祈りを捧げた。

 誰もが王国の安寧を、オリヴィエの無事を。ただ……ただ、願っていた。


 ――万事休すかと思われたその矢先のことだった。炎の灯るような音とともにオリヴィエの身体が光り輝いた。オリヴィエを包み込み、めらめらと燃え盛る炎。その炎が放つ赫灼たる光は闇を照らし、辺りを漂う瘴気を打ち払った。

「ぐおっ! な、なんだこの光は……体が、熱い!」

 一転して、その身に光を浴びた宰相が苦悶の声を上げる。

 〈私に宿ったときに感じたものとはまるで違う……。まるで……まるで、オリヴィエ自身の命の輝き、その体現のよう。どこまでも純真(きよらか)で、どこまでも透明(まっすぐ)(はた)から見る炎はこんなにも美しかったのですね……。ああ、そうか……。いまになってやっとわかった……。これは、世界樹の意思なんかじゃない……。生命の(ともしび)、まさにそのもの。この力なら、きっと……〉

「こ、これは?」

 体から放たれる光によって、体を蝕む瘴気から逃れたオリヴィエが自身の全身を舐め回すよう、順繰りに見ながら言った。

『それは浄化の炎。世界樹があなたを認めた証。いまならば、その力なれば、宰相殿を元に戻せるやもしれません!』

「聞こえる……声が……。『コノウデデタタカエ』って、そう命ずる声が!」

 オリヴィエの右手が一際強い輝きを放っていた。

「この手が光って唸る! お前を倒せと輝き叫ぶ!」

「や、やめろ!」

「あああああああああ!!」

 オリヴィエは絶叫とともに駆け寄り、その拳を帝国宰相に力強く叩き込んだ。凄絶な悲鳴を上げ、悶え苦しむ宰相。しばらく悲鳴を上げつづけたのち、ジュッ、と熱した鉄板に水滴を垂らしたときのような音とともに帝国宰相の身を包んでいた最後の瘴気も晴れ、宰相は音を立ててその場に倒れ込んだ。

「はぁっ……はぁっ……。お、終わっ……た……?」

 オリヴィエは息も絶え絶えに言うと、その場に突っ伏すように倒れ込んだ。ちょうど宰相と重なるように。

『ええ。もうこの場から悪しき気配は感じられません』

「そう……よかった……。ごめん……ちょっと休ませて……」

 そう言って帝国宰相に覆い被さったまま深い眠りについてしまった。

 〈二人とも命に別状はないようですが……オリヴィエにいたってはひどく衰弱している……。生命の灯を使ったから? やはりあれはオリヴィエの生命そのもの。……そう何度も使える力ではないようですね……〉


 ――数刻後。オリヴィエの手指がぴくりと動いた。

「ふっ……んっ、んー」

 オリヴィエは自分の置かれている状況も忘れ、寝ぼけ(まなこ)で大きく伸びをする。

『起きたのですね』

「んん……」

「目が覚めたのであればそろそろ退()いてほしいのだが……」

 すぐ近くから聞こえた聞き覚えのない声に、オリヴィエは「ふぇっ?」と間の抜けた声を出した。

『ずっと宰相様の上で眠っていたのですよ』

「へっ?」

 オリヴィエはすぐに自身の下敷きになっていた宰相に気がつくと、

「あっ! ごっ、ごめんなさい! 僕、気持ちよくて」と少し慌てた様子で宰相の上から降りた。

「そう慌てずともよい」

 実に落ち着き払った様子で宰相は言う。先ほどまでとは打って変わって、落ち着きのある優しい声色だった。

宰相(さいしょー)様……で、いーんだよね……?」

 様子を窺いながら、恐る恐るといった様子で尋ねる。

「うむ。礼を言う。此度は世話になったな」

「よかった……元に戻ったんだ……って、あれ? いままでのこと全部覚えてるの?」

「うむ。混濁する意識の中、夢を見ている気分だった。どこか客観的で、どこか他人事(ひとごと)。体の感覚はあるというのに、意識とは繋がっていない、そのような気がして……まっこと不可思議であった。……改めて礼を言う」そう言って深々と頭を下げる。「ありがとう。(けい)のおかげで助かった」

「辛いと思うけど……話してもらえる? あなたの身に起きていた異変について、その詳細を」

「もちろんだとも。あれはいつぞやのことだったか……部屋で一人、酒を片手に満月を眺めていたときのことだった。突如として、私の頭の中に何かが飛来したのだ。そう、まさにあれは“飛来”。実際に飛んでくる何かを目にしたわけではない。だが……直感的に、全身で、そう感じ取っておった。私の意識と感覚が切り離されたのは紛れもなくそのときからだった……。始めは明晰夢を見ている気分だった。それから、いくばくかの時を経て、私の体はその飛来した何かに操られているのだということを悟った。そして、あるころからか、その何者かの意識が私のもとへ流れ込んでくるようになったのだ。“すべてが憎い。すべてを滅ぼせ”と。そして、こうも感じていた。“我々の侵略を阻む忌まわしき世界樹よ。いまに滅してくれる”」

 〈“我々”? “侵略”?〉

「私の(うち)にあったものは強い破壊衝動。いや……衝動……命令……本能。そのどれともつかぬ。うまく言葉では形容できぬ“ナニカ”そう、あれは言うなれば“世界の破滅”その意志そのもの。人智の及ばぬ未知の存在に他ならぬ」

 〈……以前、天使長様からお聞きしたことがあるような……。世界樹は大地に恵みをもたらすだけではなく、降り注ぐ“(さいやく)”から世界を守る傘のような役割もあるのだ、と。先ほどのアレこそがその(さいやく)なのだとしたら……。ああ! こんなことになるのなら、毛嫌いせずに座学の授業をきちんと聞いておくんでした!〉

「――宰相(さいしょー)様を操ってたやつの目的は、世界樹の破壊と世界の崩壊か……」

『……ええ。そのことは状況証拠(やつのこうどう)から見ても間違いはないでしょう……。私の持つすべての情報を照らし合わせて推察するに……近年、世界樹の力が弱まりつつあることで、外敵の侵入を許してしまったのでしょう』

「『外敵』って……それってつまり外の世界から来たってこと?」

『ええ。どこまでを“この世界”とするかによりますが……その蓋然性(かのうせい)が高いかと』

「外の世界からの敵って……そんなのどーすればいーの?」

『私たちの当初の目的であった“世界樹の再生と復活”それを果たすことで彼奴(きゃつ)らの侵攻は防げるはずです。あなたに宿りし炎にすら耐えきれず、消滅するくらいなのですから』

「そっか、そうだよね。世界樹本体の本来の力なら……」

「――驚いた」と宰相が言った。「まさかとは思ったが本当に世界樹の精が見えているのだな」

「ううん」と首を横に振って言う。「僕にも見えてるわけじゃないよ。声が聞こえるだけ。アンジェは実体? を持たないんだって、前に言ってた」

「実体を伴わぬという存在に、それを従える少女。そして、それらと敵対し、人の体を乗っ取り操る不浄な存在。私が認識(おも)っていたよりもずっと事態は深刻で、私には到底預かり知れぬ領域(ところ)で事態は進行しているようだ。……大した力になれずすまない。この借りは必ずや返す。手前(わたし)どもに何かできることがあればいつでも頼ってくれたまえ。でき()るかぎりのことはしよう」

「ありがとう。そのときは遠慮なく頼らせてもらうね」

 オリヴィエはそう言ってすぐに、「あっ!」と何か思いついたように言った。

「そーいえば宰相様を生け捕りにしてこいって話だったけど……この場合どーすればいーんだろう?」

『そうですね……もともと宰相様を捕らえる、というのも帝国のこれ以上の暴挙を()めるためだったわけですし、宰相様が正気を取り戻した以上(いま)、その必要もないでしょう』

「――あー、それについては後日、私のほうから直接王都へ赴こう。ラフランス王国には多大なる迷惑を被らせた。私の口から直接謝罪をせねばなるまい」

「わかった。シャルルにもそー伝えておくね」

「『シャルル』というのはラフランス王国の第一王子のことかね?」

「『だいいちおーじ』……うん、そんなよーなこと言ってた気がする!」

「随分と親しいのだな」

「うん! シャルルとは友達でもあり、近衛騎士でもあるからね」

「良好な関係を築けているようで何よりだな……」

「あっ、そうだ、シャルルが心配してるかもだからそろそろお(いとま)しないと」

「ああ。では、『帝国はもう大丈夫だ』と、『今後とも、くれぐれもよろしく頼む』とお伝えしておいてくれ」

「うん! それじゃあまた!」


 ――「前に元門番のおにーさんが『キツい感じの人だ』って言ってたけど、全然そんなことなかったね。むしろものすっごく、やさしーっていうかさ」

『そうですね……オリヴィエを見る目がなんだかお孫さんへ向ける視線のようでしたから、かわいくて仕方がなかったのでしょう』

「えへへ。『かわいい』ってやだな、照れちゃうなぁ」

『……それよりも、よく「お(いとま)」なんて言葉知っていましたね』

「え? だって前に爺やが使()ってたじゃない」

『そうでしたっけ?』

「そーだよ」


  ――「オリヴィエ様がお戻りになりました!」

 偵察に出ていた兵士が大慌てで、噴水広場で祈りを捧げていたシャルル王子のもとへ駆け込んだ。

「おお、そうか! 大事ないか?」

「ええ、お変わりなく」

「そうか……!」

 その報せに、シャルル王子は思わず笑みを零した。また、シャルル王子だけでなく、その場にいた全員が安堵や喜びに満ちた表情(かお)を浮かべていた。

「すぐに出迎えに行こう」

 シャルル王子は慌ただしく広場をあとにした。

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