七章・|乙女《La Pucelle》
「んーっ!」
開放感に当てられてか、オリヴィエが大きく伸びをした。
「こーやって、街道をのんびり歩けるのも久しぶりだね! 前のときは猪に追い掛け回されたりしたから」
『そういえば、そんなこともありましたね……。この道をこうして歩くのもオリヴィエと王都を目指したとき以来ですか。……といっても、ここ二、三日の間にいろいろとありすぎたせいでそう感じるだけの感覚的な問題であって、実際にはそれほど時間は経過していないのですが』
「? 何言ってるの? なんでもかんでもまどろっこしく言うのアンジェの悪い癖だよ。『もっと簡潔に話せ』って言われるよ」
『誰にです? これでも充分簡潔に話しているつもりなのですが……。オリヴィエの理解力、ないし根気が足りていないだけなのでは?」
「そーやって何かあるとすぐ人のことバカにする。ときどきアンジェの人間性疑っちゃうよね」
『まあ、いまは人間ではありませんから』
「“いまは”って……前は人間だったこともあるの?」
『さあ? どうでしょう?』
「『さあ、どうでしょう』って……それ、こないだのシャルルの真似?」
『別にそんなことはありませんよ?』
「そーお? ……思えばずっとこうして一緒にいるのにアンジェのこと知らないことばっかりだな……。少し、淋しいね」
『オリヴィエ……』
「ううん。ごめんね? 困らせるようなこと言って。話せないこと、いっぱいあるよね。アンジェのこと“特別な存在”だってわかってるつもりだったんだけど……やっぱりアンジェのこと知りたいなって思う気持ちもあって……」
『オリヴィエ、ごめんなさい……』
「ううん、僕のほうこそごめんね。えへへ。なんだか湿っぽくなっちゃったね」そうオリヴィエは笑った。「いつかアンジェのこと、話せる日が来たらうれしーな」
『ええ。いつか、きっといつの日か……』
「――あわわ」
『どーしたのです? 突然。そんな絵に描いたように泡を食って』
「なんだか感動的な雰囲気のところ申し訳ないんだけど、前見て」
『“アレ”?』
少し声を震わせたオリヴィエの正面では、いまにも突進を繰り出しそうなほどの荒い鼻息でオリヴィエの様子を窺っている、ゆうに大人の背丈は超えているであろう体高の大猪がその体をぶるぶると震わせていた。
『アレはまさか……』
「そのまさかだよね……」
オリヴィエが後退りする素振りを見せた途端、それに気づいた大猪がオリヴィエ目掛け一目散に駆けてきた。
「ひょえ~!」
素っ頓狂な声を上げ逃げ出すオリヴィエ。
「“噂をすればなんとやら”ってやつ? あんなのに追い掛け回されるのなんて、もう金輪際ごめんだよ~!」
オリヴィエの事情などいざ知らず、大猪は止まるところを知らない。
「ひえ~! どうせ追い掛け回されるなら、シャルルみたいにかっこいい男の子がい~よ~」
オリヴィエがそう嘆いたその言葉尻が、「い~よ~」「い~よ~」と、起伏のない平原をなぜかしきりに木霊していた。
〈あら、意外ですね。シャルル王子のことかっこいいと思っていたのですね。あまり意識していないような素振りでしたが〉
平原で見晴らしがよいせいか大猪の追随凄まじく、オリヴィエが大猪を引き離すまでのそれなりの時間、終始大猪に追われることとなった。このときオリヴィエが上げていたドップラー効果を伴った叫び声は、遠く離れた王都まで届いていたとか届いていなかったとか。
――「はあーっ……はぁーっ……」
大猪の猛追に、さすがのオリヴィエも息を切らしていた。
「やっと撒けた……。ほんっとしつこすぎ……! ってか、なんで当たり前のよーに街道に猪が出るのさ……。我が物顔で闊歩しすぎでしょ……」
『「帝国では何が待ち受けているかわかりませんから、できるだけ体力を温存していきましょう」と言おうと思っていたその矢先に出会うとは……。オリヴィエも何かよくないモノに取り憑かれているのでは?』
「はぁーっ……。ひ、一つだけ心当たりがあるかな……」オリヴィエは息を整えながら言った。「“アンジェ”って言うんだけど……」
『お・こ・り・ま・す・よ?』
「じょ、じょーだんだってば……」
『他人を傷つけるような冗談は感心しませんね』
「どの口が言ってるんだか」
『はい?』
「う、嘘です、なんでもないです。ごめんなさい」
『最近なんだかオリヴィエが私のことを軽んじすぎているような気がしますね。本来私はとっても、とーーーーーってもありがたい世界樹の精なんですよ?』
「ソ、ソーダネー。アハハー」
『なんですかその火を見るより明らかな棒読みは……。あまりにも明白でまるで自明の理ですね』
「また無駄に小難しいこと言ってる。もはやわざとやってるでしょ、それ」
『……まあ、心なしかいつも以上にオリヴィエの足が速かったような気がしますし、そう思うと大猪との出会いも悪いものではなかったのかもしれませんね』
「……なんかその考え方だと人参を目の前にぶら下げられて走らされてる馬みたいであまりいい気がしないんだけど……」
『例えで飴と鞭を入れ替えてくるなんて、意外と知的な発想もできるんですね』
「全然何言ってるかわかんないけどバカにされてることだけはわかる」
『珍しく褒めているんですよ?』
「ほんとーかな……。アンジェ、僕がわかんないのをいーことにどこか、何言ってもいいと思ってる節あるよね」
『そんなことありませんよ? 私だってしっかりと節度を弁えています』
「節度を弁えてれば、人のことバカにしてもいーんだ。ふーん」
『べ、別に、そんなことは言ってないじゃないですか。いくらなんでも拡大解釈しすぎですよ』
「慌てちゃって。あやしー」
オリヴィエはそう言って、わざとらしくじとーっとした目つきをして見せる。
「アンジェ、すーぐ僕のこと見下すもんな」
『し、仕方ないじゃありませんか! 実際問題あなたが下にいるのですから!』
「どーゆー意味?」
『他人に見下されるのが嫌なら、自分が見下されないような位置に行けばいいんですよ。なんの努力もしていないのに他人の批判ばかりするのはどうかと思います』
「……そーゆーことじゃないんだけどな、僕が言ってるのは。……やれやれ。生まれつき“ゆーとーせー”のアンジェちゃんにはわからないか、持たざる者の気持ちが」
『“持たざる者”ってカッコつけて言ってますけど、あなたはただ単に勉強が嫌いなだけじゃないですか……。はぁーっ……。私があなたに物事を教えるのにどれだけ苦労したことか……“親の心子知らず”とはこのことでしょうか……。呆れて物も言えませんね』
「そんなこと言ってめちゃくちゃいろいろ言ってるじゃん」
『うるさいですね……』
「シンプルに悪口」
『“うるさい”は別に悪口ではないでしょう。私がそう感じただけなのですから』
「それ言い出したら“気持ち悪い”でもなんでもオーケーになっちゃうじゃん!」
『……。うるさいですね……』
「いま考えることを止めたよね?」
『いつまでもくっちゃべってないでさっさと帝国に向かいますよ。事態は深刻なのですから』
「急にマジメ感出してくるじゃん。さっきまで僕の悪口で盛り上がってたくせに」
――「子供一人でおつかいか?」
オリヴィエがそう帝国兵士に声を掛けられたのは帝国城下入り口、帝国城下をぐるりと一周囲うように巡らされた深い堀に跨る橋梁の手前でのことだった。
「……違うよ。僕、ボンワール村に住んでるんだけどさ、“社会べんきょーがてら観光してこい”って」
「ほー。そんな辺鄙なところから。それじゃあ見る物すべてが目新しくて楽しいだろうなあ」
「そーそー。それで、オススメの観光名所とかある?」
「んー、そーだなー……。“革製品の王国、金属製品の帝国”と並び謳われるくらいにここは金属加工が盛んだからな。『社会勉強』というのなら、どこかの工房にお邪魔して作業を覗かせてもらうのがいいだろう。……そうそう、何を隠そう加工に使われる金属も帝国領土で採れた物なんだ。ここからも見えると思うが、鉱山が町に併設されていてね。……といっても、鉱山のあるところにあとから町ができたわけだが……まあ、いまはそんなことはどうでもいい。使われなくなった廃鉱は一般開放もされていて、中を見学できるようになっているんだ。もちろん万全を期してね。帝国はなんといっても鉱業――採掘業と金属加工業で栄えた国だから、工房見学と廃鉱見学は必須だろうなあ……。あとは……いま注目の最新技術、『蒸気機関』だな」
「“じょーききかん”?」
「ああ。といっても……以前から『蒸気ハンマー』という形で金属加工に使われていた技術で、蒸気機関自体は別に真新しいものじゃないんだが、蒸気機関をどうにか乗り物に転用できないか、ということで近年、鋭意研究・開発が推進されているんだ」
「ほえ~」
「さすがに国を挙げて現在開発中の物は見せてはもらえないだろうが……大きめの工房に行けば蒸気ハンマーが稼働しているところが見られると思うぞ? こんなでっけえ鉄の塊が水蒸気の力で動くんだぜ? ロマン溢れるだろ?」
「そーだねえ」
「坊主にもわかるか? このよさが」
「うんうん」とオリヴィエは頷いてから小声で呟いた。「……坊主じゃないんだけど……」
「っと、すまねえ。思わず熱く語っちまった」
「いーよ。僕もべんきょーになったから」
「あー、そうそう。田舎出じゃ知らないと思うが、その昔、“堅牢強固”“難攻不落の要塞”とまで言わしめたこの鉱山に隣接する独特な地形と、城下を取り囲む特徴的なお堀。これもまさに帝国の象徴みたいなもんでよ。……といっても、世界樹の恩寵に与るこの平和な世界じゃ、最後に戦争があったってーのも数百年前の話だと伝え聞く。この立派なお堀もそのころの名残で、いまは殆ど機能せず、形骸化しているようなものだが……。いまでも防犯を兼ねて、夜十八時以降はこの跳ね橋を上げて人の出入りを制限しているんだ」
「え、そーなの!?」
「ああ。だから一度中に入っちまったら、跳ね橋が上がるよりも先に外へ出るか、それか、次の日まで待つかしかないから気をつけな。その時間にここへまた来れば、橋を上げる様を見せてやるよ」
「え~、そーなんだ。全然知らなかったー、ありがとう」
「ああ。本来訪問者にそれを伝えるのが俺たちの役目でもあるからな。……話にかまけて危うく伝え忘れるところだったが」
そう言って兵士は笑った。
「それは勘弁してほし~な~。きちんと職務をまっとーしてくれないと」
「がはは。冗談だって。現にこうしてきちんと伝えただろ?」
「もー。笑えないじょーだんだなー……。それよりもいろいろ話を聞かせてくれてありがと! 知らないことばっかりでさんこーになったよ! それじゃ!」
そう言ってオリヴィエは橋を駆けていった。
「おう! それじゃどうかよい一日を!」
――「聞いた? 『どうかよい一日を』だって」少し笑いながらオリヴィエは言う。「変な挨拶だね」
『そうですか? 私は気持ちのよい挨拶だと感じましたけど』
「ふ~ん。……そーいえばアンジェ、夜は帝国に出入りできないって知ってたの?」
『いえ、私も初耳でした』
「そーなんだ」
『ええ。私もこの世界のことすべてを悉く知り尽くしているわけではありませんから。今日は宿を取ることも考慮しておいたほうがいいかもしれませんね。王子のようにそう都合よく助け舟が出るとは限りませんから』
「うん、わかった。それにしても随分とあっさり入れたね、少し身構えてたけど」
『そうですね……拍子抜けしてしまうぐらいにあっさりと。どうやら王子の仰っていた通りのようですね。いまのところ兵士に殺気立った感じは見受けられませんでした』
「むしろビックリするくらい、いー人だったね。前例があるからまだわからないけど」
『そうですね……一見平穏そうだからといってけして気を抜かないようにしましょう。“油断大敵”です』
「それくらいなら僕も知ってるよ~」
――『ひととおり町全体を見て回りましたが、一般人から帝国軍兵士、町全体に取り巻く雰囲気に至るまで特に変わった様子は見られませんでしたね……』
「そーだねー」オリヴィエは肉串を頬張りながら言う。「前に元門番が言ってたみたいに、とってもいーところだね~」
『……食べ終わってから落ち着いて話をしたらどうです?』
んぐっ、んぐっ、ごくん。オリヴィエは慌ただしく肉を嚥下してから答えた。
「だ、だってアンジェがご飯食べ中に話し掛けてくるから……」
『“話し掛けた私のほうが悪い”ときましたか……あなたの突飛な発想にはときどき驚かされますね』
「えへへ、そーかなー」
『――褒めてないです。だいたい、王子に少し多くお金を頂いたからといって、買い食いしすぎですよ。いったいいくつ食べるつもりなのですか。健啖家にもほどがあるでしょう。そんなに湯水のごとく使っていたらあっという間になくなってしまいますからね。まったく……あなたの前ではどれだけ高価な硬貨でも、泡に等しいですね』
「またわけのわからないこと言ってる。相手に伝わるよーに言わなきゃ意味ないよ」
『くっ! それをわからない側の人間に言われると無性に腹が立ちますね……! わかろうとする努力さえしない者があまつさえ「自分の低いレベルに合わせろ」だなんて、傲慢にもほどがあります……!!』
「……最近アンジェかりかりしすぎじゃない? カリウムが足りてないんじゃないの」
『それを言うなら“カルシウム”です! だいたい、その原因となっているのは他ならないあなたでしょう?』
「――さ、食べ終わったしアンジェのお小言が始まる前に次のところへ行こーか。――あっ、シャルルが言ってのってこーいうことかな?」
『はあ……。もういちいちツッコむのも馬鹿らしくなってきました……』
「そのままずっとおとなしくしててくれてもいーのに」
『それで困るのはあなたでしょう?』
「なんで? ……まあ、口うるさいがいないと少し淋しーかも」
『はぁ……。それよりも、町はついいましがた見て回ったばかりですが、これ以上どこへ行こうと言うのです?』
「あるじゃない、まだ行ってない肝心要な場所がさ」
『まさか……。王子の仰っていた通り、対外的には日常を装っているとはいえ、内心王国への侵攻を企てている腹心なのですよ? いくらオリヴィエをいえども、それは賛成できかねます……』
「だいじょーぶだって! 何も殴り込みに行くわけじゃないんだからさ。ちょっと門番の人に話を訊きに行くだけ。町じゃ聞けなかった話が聞けるかもしれないでしょ?」
『それはそうですが……』
「とりあえず行ってみて危なそーだったらすぐに引き返してくればいーよ。王子も言ってたでしょ? 『リスクなくして得る物は得られない、か』って」
『ぷっ! ……ちょっと! 微妙に似てるの止めてください! 思わず笑っちゃったじゃないですか!』
「せっかくここまで遠路はるばるやってきたっていうのに、“なんの成果も得られませんでした”じゃ、ここまで来た意味がなくなっちゃうよ」
『……その考え方は賭け事で破産する方の典型的な思考というか、危険な心理ですが……。まあたしかに“骨折り損のくたびれ儲け”というのはできるだけ避けたい事態ではあります。行くだけ行ってみましょうか。……いいですか? 少しでも異変を感じたらすぐに引き返すのですよ』
「うん」
――さすがのオリヴィエも、恐る恐るといった様子で城門へ近づいていく。
「――止まれ!!」
オリヴィエの姿に気づいた一人の門兵が駆け寄ってくる。門扉を挟んで反対側に立つもう一人の門兵は動きを見せなかった。
「なんです? 騒々しい」オリヴィエが不遜な態度で言った。
……〈セバスチャン様の猿真似ですか。まさしく馬鹿の一つ覚えですね〉
「……こんな時間になんの用だ? って、まだ子供じゃないか」
「僕ボンワール村から観光に来たんだけど、お城を見せてもらえないかな~って思って……ダメ?」
「…………」
門兵は口を噤んだまましばらくの間長考していた。
「本来ならば“日を改めてくれ”と言うところなのだが……当面は止めておいたほうがいい」
神妙な面持ちで門兵はそう言った。
「どーして?」
オリヴィエの問いに、門兵は小さな声で答えた。
「……お前のような子供にこんなことを話すのもなんだが……。我が国は近々、ラフランス王国へ攻め入ろうとしている。面倒ごとに巻き込まれんうちに、村へ帰ったほうがいい」
「そんな……!! 僕のおとーさんとおかーさん、いまラフランス王国で暮らしてるんだけど!!」
「……お前一人を村に残して、か?」
「うん……。おとーさんの仕事の関係で、いまはおじーちゃんと二人で暮らしてるんだ。それで、おじーちゃんが“社会べんきょーがてら一人で帝国を観光してこい”って。“儂は腰が悪くてついていけんくてのう……”って」
「そうか……。このタイミングで俺と出会えたことはお前にとって僥倖だったのかもしれないな……。これも世界樹の思し召しか……」
『――“僥倖”とは運よく偶然訪れたよい出来事、ということです』
「!」オリヴィエは少し驚いたような顔をした。
「――三日後。三日後だ」覚悟を決めたような相好で門兵が言った。「三日後の未明、帝国が王都への侵攻を開始する。どうやら宰相様はラフランス王国と全面戦争を起こす構えのようだ。その前に一時的にでも村へ帰るよう、ご両親を説得するんだ。できるか?」
『――帝国が行動に移すまであまり時間がないようですね。少し急いだほうがよいかもしれません』
「……そんな内部事情、部外者に教えちゃっていーの?」
門兵は口を噤み何も答えない。沈黙こそが答えだった。
それからほどなくして、門兵が口を開いた。沈黙に耐えかねたオリヴィエが口を開こうと、上下の唇をわずかに離したまさにその瞬間のことだった。
「お前のような子供が悲しむ顔は見たくない」
門兵の口から溢れ出たものは、心からの言葉だった。
「末端兵だって戦争を望んでいるわけじゃない。……だけど兵士である以上、宰相様の決定には逆らえないんだ。中には宰相様を崇拝……いや、盲信するような連中もいるが……」
そう言って門兵は、いまだ微動だにせぬもう一人の門兵のほうへ目をやった。
「……子供の足ではここから王都までだとゆうに三日は掛かってしまうだろう」門兵はオリヴィエのほうへ視線を戻して言った。「ここまではどうやって来たんだい? ボンワール村からだとそう遠くないから歩きかい? 電報や馬車を利用するだけのお金はあるのかい?」
そう矢継ぎ早に機関銃のように捲し立てる門兵に、少し戸惑いながらもオリヴィエは答えた。
「う、うん。それならご心配に与らなくてもだいじょーび。ババビューンと連絡しちゃうから」
「そうか。ま、大丈夫だって言うならそれ以上は追及しないが。電報屋を利用するなら気をつけなよ。ま、『帝国が戦争を起こそうとしている~』なんて馬鹿正直に打電師に伝えたところで、子供の戯事だろう、と気にも留めないとは思うが」
「うん、わかった」
「数日はここへ立ってるから、何か困ったことがあったら気軽に尋ねてくるといい。
「うん、ありがとー」
「……さ、今日はもう遅い。あまり遅くならないうちに宿へ帰るんだな」
「そーだ! いま何時?」
門兵は腕時計を見ながら言った。
「いまちょうど十七時五十分ごろ……そろそろ跳ね橋を上げるころだな」
『いまならばまだ間に合うかもしれません』
オリヴィエはこくりと頷いてから言った。
「ごめん、ありがとう! それじゃ僕はこれで!」
そう言ってオリヴィエは慌ただしく駆けていった。
『――急ぎましょう』
「うん。そーいえば、さっきよくわかったね。僕が“ぎょーこーって何?”って聞こうとしてたこと」
『どうせオリヴィエのことだからわからないだろうと思い、今回は先回りしてみました』
「ほえ~。初めてアンジェの凄さに触れた気がする」
『よりによってそんなところでですか……他にもいろいろとあったでしょうに……』
――ガラガラと音を立てて鎖が巻き取られていく。
「ごめん! まだ通れる!?」
「あれ、なんだもう帰るのか?」
「うん。ほんとは一日くらい泊まってこーと思ってたんだけど、ちょっと急用ができちゃって」
「そうか、それなら仕方がないな。本当は駄目なんだけど今回だけ特別だぞ」そう言って兵士は片目を瞑って見せる。
「ありがとう!!」
勢いよく駆けていくオリヴィエの背中から、
「夜の街道は危ないから充分に気をつけるんだぞ~~!!」と張り上げた声が聞こえた。
オリヴィエは振り向き様に答える。
「ありがと~~~!!」
……「嵐のような子供だったな……」
――『最後までいい方でしたね』
「そーだね。僕は、人のあたたかさというものに触れた気がする」
オリヴィエは平原を駆け抜けながらそう答える。
『ぷっ!』
「なんでいま失笑したの?」
『「なんで」って、いまのはどう考えても笑かしに来てたでしょう!』
「僕はいつでも大マジメだよ!!」
『……しかしオリヴィエ。よくあなたあのような法螺話、ぺらぺらと口をついて出ましたね?』
「えへへ」オリヴィエはだらしなく笑って言った。「自分でも少し驚愕。僕って案外役者の才能あるのかも」
『……別に役者に嘘の才能は要らないと思うのですが……』
「るーるる~♪ ららら~♪」
『……って、なぜそこで歌い出すのです! ミュージカル女優にでもなるつもりですか!』
「え、ミュージカル女優と役者って違うの?」
『“ミュージカル女優”は“役者”に包含されますから、てんで間違いというわけではないですが……「違うか?」と、訊かれればそれは“違う”と答えます。ミュージカル女優のほうがより細分化されたものですから』
「ふーん。『ほーがん』って鉄砲から撃ち出す弾のこと?」
『それは“弾丸”です。あなたが言いたいのは“砲丸”大砲から撃ち出される弾のことでしょう?』
「それって“砲弾”じゃないの?」
『一緒です。どちらも一緒です』
「はえ~。そーなんだ」
『それよりも先を急ぎましょう。呑気に喋ってる場合じゃないですよ』
「もう充分急いでるよっ! これ以上速く走れって言うの!? だいたい、最初に話し掛けてきたのアンジェでしょ!」
『そうでしたっけ? そんなことはとうの昔に忘れました』
「バカに都合のいい頭してるね!!」
――「おや?」とオリヴィエの姿に気づいた王宮門兵の一人がそう声を上げた。「あなた様はたしか……シャルル皇太子殿下のご友人の……」
「うん、オリヴィエだよ。覚えててくれたんだ? ちょっと遅い時間だけど、通ってもいーよね?」
「もちろんですとも。ささ、どうぞなんなりとお通りください」
「ありがと!」
――「こういうときってどこへ行けばいーのかな?」
オリヴィエが歩きながら言った。
『そうですね……このような夜更けにいきなりシャルル王子の私室を訪ねる、というのも不躾な気がしますが……背に腹はかえられません。他に手立てもありませんし、直接シャルル王子の部屋へ向かうほかないでしょう』
「りょーかい」
――「おや?」クローシュを被せた大きな丸皿を手に持った老夫がそう声を上げたのは、オリヴィエがちょうど厨房の前を通りかかったときのことだった。
「あっ! 爺や!」老夫に気づいたオリヴィエが声を上げる。
「これはこれはオリヴィエ様……はて? オリヴィエ様はつい今朝方キルシュ帝国へ向かわれたばかりのはず。わたくしめは明晰夢でも見ているのでしょうか? いやはや、私もとうとうそこまで耄碌してしまいましたか……」
「『めーせきむ』? 『もーろく』?」
『セバスチャン様は「歳のせいか、ボケて夢でも見ているのだろうか」と仰っているのですよ』
「そーいうこと」納得したように頷く。「爺やもおもしろいことを言うねえ。夢な筈ないのにさ」
「ほっほっ。オリヴィエ様のあまりに現実離れした愛くるしさに、思わず夢ではないかと疑ってしまいました」
「もー。人を煽てるのがうまいなあ、爺やは。そんなに褒めたって笑顔以外何も出ないからね」
「ほほっ。オリヴィエ様の笑顔に勝る幸福などどこにもありますまい」
「えへへ。ねえ、アンジェ。これっていま僕口説かれてんのかなぁ?」
『っなわけないでしょう』
「オーケー出しちゃう軽いかなぁ?」
『なんでそんなノリノリなんですか。……そんなことよりも早く王子のもとへ向かいましょう。事態は一刻を争います』
「あ、そーだった! 爺や、こんなところで何してたの? 僕たちこれからシャルルのとこへ行こーと思ってたんだけど」
「おや、そうでございましたか。それならばわたくしめもともに参りましょう」
二人はシャルル王子の部屋へ向かって歩き出した。
「何を隠そうこのわたくしもお坊っちゃまのところへ向かう途中だったのです」
「そーなんだ。タイミングいーね」
老夫の持つクローシュに目をやりながらオリヴィエが言った。
「……シャルル、これからお夕飯なの?」
「いえいえ。これはお夜食ですよ。ここのところ働き詰めでしたから。世界樹に関する詳しい記述はないか、と忙しい公務の合間を縫って、改めてつぶさに調べておいでだったのです」
「そーだったんだ」
「ええ。オリヴィエ様たちは『自分たちがなんとかするから信じて待つように』とのことでしたが、そうは仰いましても、お坊っちゃまといたしましては“オリヴィエ様一人に任せきり”というわけにもいかないのでしょう。自分の無力さをつとに嘆いていらっしゃいましたから」
「そーだったんだ……。やっぱりシャルルまだそのこと気にして……」
「――おっと。このことはお坊っちゃまにはどうかご内密に。怒られてしまいますから」
そう言って老夫は片目をパチリとさせた。
――「そうですぞ、オリヴィエ様」
シャルル王子の私室の前で、老夫がつと小声で言った。オリヴィエが『なーに?』とそう出しかけたその言葉を遮るように、老夫はオリヴィエの口の前へ一本、立てた人さし指を持っていった。
「しーっ。静かに」老夫は優しく小さく言った。「オリヴィエ様はけしてお声を出さぬよう、お願いいたします」
老夫の言葉に、オリヴィエは『どーして?』と言いたげな愛嬌のある顔で首を傾げた。
「お坊っちゃまもきっと驚かれますよ」
――コンコンコン。
「お坊っちゃま。お夜食をお持ちいたしました」
「ああ。鍵は開けてあるから入ってくれ」
老夫はシャルル王子の返事を確認するとオリヴィエに目配せをする。オリヴィエはその合図を受け、うやうやしく、「失礼いたします。お坊っちゃま」と言ってから扉を開け入室した。
その声を不審に思った王子は俯いていた頭を上げた。
「オリヴィエ! どうしてここに? キルシュ帝国へ向かう道中、何か問題でも?」
「ううん、そーいうわけじゃないの」オリヴィエは首を横に振る。「いや、まあ問題がなかったわけじゃないんだけどね? 主に猪とか猪とか猪とか」
『猪ばっかりじゃないですか』
「実はもう帝国へ行って帰ってきたところなの」
オリヴィエの口から発せられたその事実に、シャルル王子は「へぇ?」と鼻を抜けたような、魔の抜けたような声を出した。
「君が規格外なことは理解しているつもりでいたけど……どうやらその認識を改めなければならないようだね」
「えへへ。驚いた?」
「ああ。驚いたとも」
「作戦、だいせーこーだね、爺や」
「なんだ。爺や味一枚噛んでいたのかい?」少し呆れたように言った。「僕はてっきりオリヴィエが独断専行で……」
「ほっほっ。オリヴィエ様に感化され、年甲斐もなく巫山戯すぎてしまいましたかな?」
「お茶目だね、爺やは。……『オリヴィエに影響されて』というのは僕も少し理解ができるけどね」
「ほっほっ。そうでしょうとも。これも単にオリヴィエ様の人柄ゆえ。オリヴィエ様がいらっしゃるだけで視界パッと明るくなりますなあ」
「ふっ」シャルル王子は小さく笑ってから言った。「随分オリヴィエに入れ込んでいるじゃないか。このままでは骨抜きにされてしまいそうだね」
『――おほん。オリヴィエ、そろそろ本題に入りましょう。セバスチャン様の手前黙って見ていましたが、あまり悠長にお喋りしている時間はありません』
「そーだった! シャルルに伝えなきゃいけないことがあって急いで戻ってきたんだった!」 いつの間にか話が脱線しててうっかりしてた!」
「ふむ。して、急ぎの話とは?」シャルル王子が厳かに言った」
「あのね、三日後のみめーにキルシュ帝国がラフランス王国へ攻めてくるんだって。『ぜんめんせんそーだ』って言ってた」
「それは確かなのかい?」
「うん……。お城の門番のおじさんが命の危険も顧みずに教えてくれたことだから……たしかだと思う」
シャルル王子はやや俯き口元に丸めた手を当て、考え込む素振りを見せ、「そうか……」と呟いた。
……しばしの沈黙が流れ部屋が静まりかえったころ、シャルル王子が口を開いた。
「今日はもう遅い。父上には僕の口から伝えておこう。明日、君を交えて改めて話をすることになるかもしれない。その点は予め了承しておいてくれ」
「うん、わかった」
「何はともあれ本日はご苦労さま。帝国までの距離をわずか一日で往復したんだ。さぞかし疲れたろう?」
「そーだねえ。さすがにちょっと疲労感を感じるよ」
「……帝国との決戦ともなれば、また君の力に頼ることになるだろう。引き続き客間は自由に使ってくれて構わないから、来る決戦の日に備え充分に英気を養ってくれたまえ。……そうだ、夕餉はもう食べたのかい?」
「『ゆーげ』? 鼻毛みたいなこと?」
「ふっ」シャルル王子は小さく笑った。「体毛を好き好んで食する人間などいないだろう。夕食のことだよ」
「なーんだ。それなら始めからそー言ってよ。んー……それならだいじょーぶ! かなあ? 夕方くらいにいっぱい食べたから、そんなにお腹空いてる感じはしないかな」
「そうか。まあ、君のことはすでに給仕の者たちにも知れ渡っているから、食事や湯浴みのことなど何かあればその辺の兵士や次女を捕まえて気軽に申しつけてくれ。快く対応してくれるだろう。その他にも困ったことなどあればいつでも僕や爺を頼ってくれていいからね」
「ありがとう。それじゃ僕はこれで失礼するね」
「ああ。お疲れさま、ゆっくり休んでくれ。おやすみ」
「おやすみなさい」
……「“王子とその近衛騎士”というには、いささか甘すぎるのでは?」
「む、そうか。僕も知らず知らずのうちにオリヴィエの雰囲気に当てられていたのかもしれない。少し気を引き締める必要がありそうだ」
「ええ、そのほうがよろしいでしょう。オリヴィエ様ばかり特別待遇なさっていては、他の者に示しがつきませんから」
「……自分で言うのもなんだが、僕は誰にでも分け隔てなく接しているつもりだけれどね。相手が誰であろうと親身になって対応しているつもりなのだが……」
「ええ、そうでしょうとも。お坊っちゃまほどの優れた人格者は世界をひっくり返して探したとて、そうはいないでしょう。ですが……対応は変わらずとも態度には滲み出てしまっておいでですよ。オリヴィエ様への溢れんばかりの好意が」
「なっ!」そう言ってシャルル王子は頬を赤らめる。「ば、馬鹿なことを申すな! そのようなことなど!」
「ほっほっ。以前オリヴィエ様が仰っていましたな。『そうやってしどろもどろになるほうがよくない』と。なかなかどうして的を射ていますな。ほっほっ」
部屋には面映そうなシャルル王子の紅潮と老夫の笑い声が残響していた。
――カポーーン。
「わぁ……! ひろーい!!」
大浴場へやってきたオリヴィエは、いまだかつて見たことのないそのあまりの広さに思わず感嘆の声を漏らした。
「なーに? これ」
そう言って浴槽の縁に備え付けられていた湯口となっているライオンを象った像の頭をペチペチと叩いた。
ライオンを象った像はオリヴィエに頭を叩かれていることなど素知らぬ顔で、ドボドボと湯を吐き出しつづけていた。
『それは――』
「あばばばばばば」
『――ちょっ! 何をしているのです!』
オリヴィエはアンジェが説明しようとしたのも聞かずに、ライオンが大きく開いたその口に頭から顔を突っ込んでいた。
「っぷはぁっ!!」
突っ込んでいた頭を勢いよく抜き出し、「ものすごい勢いだねえ」と愉快そうに笑った。
……「そーいえばさっきの侍女さん、随分幼かったねえ」オリヴィエは湯船にどっぷりと浸かりながらいった。「あんな幼い娘も働いてるんだ」
『そうですね……“恐らく”ですが、母親の代から――あるいは、それよりも以前から仕えているのでしょう』
「『お背中お流ししましょうか』なんて言われて慌てて断ったけど……シャルルもあんな娘に体洗ってもらってたのかな? 少し羨ましいな」
『そう思うのならお願いすればよかったではありませんか』
「僕にだって恥じらいはあるよっ。それに……やっぱりお風呂は一人でゆっくり入りたいじゃない」
『「ゆっくり」と言うわりには随分はしゃいでいたような気がしますけど』
「そ、それは初めて見る物だったからつい……」
『“つい”で頭を突っ込む人は世界中どこを探してもあなたくらいのものだと思いますよ』
「そんなことはないと思うけどな~。ついつい頭を入れたくなるような形状してるし」
『「ついつい頭を入れたくなるフォルム」ってなんですか。そんなものはこの世に存在しません』
「やだなー、あるじゃない。目の前に。アンジェ頭だいじょぶそ?」
『そういう話ではなくてですね……はぁ。あなたに頭の心配をされるなんてまたとない屈辱ですね』
「いま“くちじょく”って言わなかった?」
『言ってません』
「ほんとかなー?」
『本当です。“恥辱”と言ったんです』
「ほんとかなー?」
『ほんとですってば! さすがにしつこいですよ!」
「ぴえ~ん。アンジェが怒った~」
『……白々しい演技は止めてください。ちっとも役者の才能なんてないじゃないですか』
「違うよ。“白々しい嘘泣きをする”っていう演技だったんだよ。上手だったでしょ?」
『まあ、否定はしないですけど……』
「えへへ。将来は大女優さんだね」
『そういうのは普通、他人から言われるものであって、罷り間違っても自分から言うものではありませんよ』
「え、そーなの?」
『はぁ……。その間抜けさがオリヴィエらしいというかなんというか……』
「ひどい! 『間抜け』って言った! シンプルに悪口!」
『あら、褒めているんですよ?』
「どこがだよ!!」
オリヴィエの発した言葉がいつまでも浴室内を反響していた――。
――時を同じくして、謁見の間にて。
「『キルシュ帝国が全軍をもって我が国への侵攻を開始する』だと?」
ラフランス国王が疑念の声を上げた。
「はっ。その通りでございます」シャルル王子は跪いて言う。
「その情報は“確か”なのか?」
「オリヴィエが自身の危険も顧みず帝国へ内偵して持ち帰った情報ですから、“確か”かと」
「むぅ……。よもや本気で世界樹の奪取を考えていたとは……愚かな……」
「いかがいたしましょう」
「そうとわかればこちらから打って出たいところだが……それでは他国への示しがつかん。歯痒いが、あくまでも専守防衛に徹するしかないだろう。帝国が攻めてくる正確な日時がわかっただけでもよしとしよう。いたずらに兵糧を消耗することも、前回のような奇襲を受けることもなくなるのだから」
――「どうしたんだい、オリヴィエ。改まって僕に話というのは?」
シャルル王子がそう言ったのは、翌朝のことだった。
「あのね、昨夜アンジェが久しぶりに未来を視たんだって」
「ほう?」
「そこではね、キルシュ帝国とラフランス王国の兵士が戦ってて、からくもラフランス王国軍が勝利を収めるんだけど……大勢の、大勢の人が亡くなっちゃうんだって。帝国の人も、王国の人も。戦場に僕の姿はなくて……アンジェが言うには、『王子や国王の身を最優先にするために、王子たちのもとから離れなかったんだろう』って」
少し涙ぐんだ様子でオリヴィエは言う。
「それで……それで、お願いがあります」とオリヴィエは改まる。「帝国との戦いで、僕に単騎で突撃する許可をください」
深々と頭を下げて言った。
「前回の襲撃でシャルルの命が狙われていて、ご自身の命が危険なことはわかっています。でも、でも……誰も死なせたくないんです。帝国の人も、王国の人も。帝国の人にだって優しい人たちはいるんだよ? みんな、好きで戦争をするわけじゃない。そんな人たちが死んじゃうのは悲しいよ……」
「オリヴィエ……」
自分ではない誰かのために深々と頭を下げつづけるオリヴィエの痛ましい姿を前に、シャルル王子は何も声を掛けてやることができなかった。
「……わかった」しばらくして、シャルル王子が口を開いた。「君には先陣を任せよう。何、僕たちのことは心配しなくていい。自分の身は自分で守るさ」
「ありがとう! シャルル!」
零れんばかりの涙を堪えていたオリヴィエはその頭を上げ、勢いよくシャルルに抱きついた。目にはいっぱいの涙を浮かべ。
シャルル王子は抱き返すことができず、両の手は不恰好なまま宙に浮いていた。
――その晩、オリヴィエたちはとうに寝静まっているころのこと。シャルル王子は王宮内の巡回任務に当たっていた兵士二人を捕まえ、
「君たちに帝国兵との交戦にあたってお願いがある」と言った。「可能なかぎりでいい。可能であれば帝国兵を殺さずに捕縛してほしい」
「……生きるか死ぬかの戦いでそ、そんなこと言われたって……なあ?」
兵士は恐る恐るといった様子で隣の兵士に同意を求める。
「あ、ああ……」同意を求められた兵士は王子の手前、少し答えづらそうにそう答えた。
「前線で戦う君たちの身が何よりも危険だということはわかっている。次期国王という立場上、戦場に出ることができぬ僕がこのようなことを頼むのが虫のいい話だということも。もちろん、君たちの身の安全が最優先でいい。けして無理強いはしない。でき得るかぎりでいいんだ、頼む! この通りだ!!」
そう言って王子は深々と頭を下げた。
「な、何もそこまでしてくださらなくたって! どうか頭をお上げください!」
一人の兵士が慌てて言った。
「……まさかと思いやすが、そうやって俺たち一人一人に頭を下げて回ってんですかい?」
もう一人の兵士が言う。
「……それを僕の口から言ってしまうのは卑怯だろう?」
二人の兵士は揃って顔を見合わせ、揃って頷いた。
「わっかりやした。ただし、本当に余裕があるときだけですよ? 自分の身に危険が迫っているときに相手の心配まで頭が回りませんから」
「ありがとう!!」そう言ってシャルル王子は再び頭を下げた。「もちろんそれで構わない。いや、むしろそうしてくれ。……こんなことを言ってしまうのはなんだが、王子という立場上、帝国兵の命よりも王国兵の命のほうが大切であることは否定のできない事実なのだから」
――明朝。オリヴィエはシャルル王子とともに城下へ買い物に出ていた。
「それにしてもどーしたの? 急に。『買い物に付き合ってくれ』だなんて」
「……王子という身分に産まれてしまったがゆえに知らぬこともたくさんある。戦乱に巻き込まれる前の平和な我が城下を一度、この目できちんと見ておきたいと思ってね。僕たちが……いや、僕が守らなければいけない人々の暮らしを、この目に焼き付けておこう、と」
「王子らしからぬ殊勝な心掛けだね」
シャルル王子は目を丸くして言った。
「驚いた。よくそんな言い回しを知っていたね。“王子らしからぬ”というのは一言余計な気がするけど」
「前に爺やが言ってたからね」
「ほう?」
「それよりもよく爺やが外出を許してくれたね?」首を傾げて言う。「それも僕と二人きりでさ」
「え? あ、そ、そうだね」
オリヴィエはじとーっとした目つきをシャルル王子に向ける。
「な、なんだい? その目は」
「じーっ……」
「声に出さずともわかるとも」
「さてはシャルル、爺やに内緒で抜け出してきたね」
「い、いやー、どうだったかな……あはは」
「誤魔化すの下手だね」やれやれ、といった様子でオリヴィエは言う。「しょーがない。怒られるときは二人一緒だね」
「オリヴィエ……」
「いーとこのお坊っちゃんのシャルルは怒られ慣れてないだろーからね。怒られ熟練者の僕が一緒に怒られてあげようじゃない」
「……怒られ慣れているというのは決して誇れることではないと思うのだけれどね……。不思議と、いまばかりは君のことが頼もしく思えるよ」
――「すまない。これとこれを一つずつもらえるだろうか」
シャルル王子は指をさしながら言った。
「へい、らっしゃい! ――って、おや? そのご尊顔はシャルル王子じゃございやせんか?」
シャルル王子は一本立てた人さし指を顔の前へ持っていく。シャルル王子のその仕草に、シャルル王子の後ろに控えていたオリヴィエの姿に、何かを察した店主は、「ははぁ」と唸るように言い、それから、
「王子様も一人の年ごろの少年ですからね。そういうこともございやしょう」と、一人で納得したようにうんうんと頷きながら言った。
「全部でいくらになる?」
「や、お代は結構ですぜ。今日はこちらでサービスしておきやしょう」
「そういうわけにもいかん。王族たる者、市井のルールに従わなくては、下々の者に示しがつかん。ましてや庇護するべき立場にある民からの施しを甘んじるなど――」
「人の厚意は素直に受け取っておくもんですぜ? 受けた恩、感謝の気持ちを忘れず、別の誰かのために何かをする。“情けは人の為ならず”いつか巡り巡って、自分のもとへかえってくる。それが、俺たち平民が市井を生き抜いていく術ってもんです」
そう言って店主は商品を手渡した。
「……ありがとう、恩に着る。願わくば、君に幸あらんことを」
「王子様のそのお気持ちだけで対価としては充分すぎまさぁ! 今後ともご贔屓に!」
「ああ、ぜひともそうさせてもらおう」
そう言ってシャルル王子は店主の前をあとにした。
――「すまない、待たせた」
「何話してたの?」
「ああ、市井――人々の暮らしと、商いのやり方についてちょっと、ね」
「ふーん」
「改めて彼らの暮らしを守らなければならないと、王族としての責を心に強く感じたよ」
「そーなんだ」
「やはり話に聞くのと実際にこの目で見るのとでは、その感じ方は大きく異なるね」
「爺やの目を盗んででも見に来た甲斐があったね?」
「ふふ、そうだね。――そうだ、オリヴィエ。君は“見晴らしの丘”へは行ったことはあるのかい?」
「『見晴らしの丘』?」
「ああ。町外れにある丘なのだが、その名の通りとても見晴らしが良くてね。王都はもちろんのこと、あの世界樹でさえも一望できるのさ」
――「わーっ! すごい景色だねえ、前に来たときとは全然……」
そう声を上げたオリヴィエの眼前に広がっていたのは、世界樹を始めとする雄大な大自然と、ジオラマのように建ち並ぶちっぽけな建造物とが織り成す対比。そよそよと漂う薫風が、優しく頬を撫ぜる。ざわざわと、聞こゆるはずもない空高き世界樹の葉々のざわめきが、間近で聞こゆるようだった。そこに見ゆるのは、この世界の縮図、まさにそのものだった。
「そうだろう? ――って、来たことがあったのかい?」
「うん、前に一度だけ。でもそのときは街明かり一つとない夜遅くだったから、こんなに眺めがよかったなんて全然。素敵な景色だねえ」
「そうか。僕もここからの眺望が好きなんだ。と言っても、実は僕もここへ来るのはこれで二度目……幼いころ、父上に連れられて来たとき以来なのだけれどね。この景色には、子供心ながらに、大自然の広大さと、人間のちっぽけさというものを痛感させられたよ。この光景が、この目に、この脳裏に、しかと焼き付いて離れなくなるほどにね。だけどそれと同時に、人間の健気な姿を愛しいとさえ思ったんだ。この広大な大自然の中、懸命に咲き誇るその姿を、この対比を守っていくのが我ら王族の責務なのだと、幼心ながらにそう感じたんだ」
「ふーん? そのころからマセていたんだね?」
「そうかな? ……ここからの眺望は城から見るものとはまた違っていてね。君とこうして二人……あのときもそうだった。僕と父上二人。僕らを守護する兵士の姿はどこにもない。ここでは、いく人もの兵士という盾に護られた籠の中の小鳥ではいられない。自由を手にすると同時に、無防備なままの自分を曝け出すことになる。だがそれは、囚われの小鳥ではない、大空を自由に飛び翔ける小鳥に戻れたような気がして……。ここでは僕は、空を翔ける一羽の小鳥なんだ。この町に、この風景に、ほんの少し、彩りを添えるだけの小さな存在。王族としてではない、たった一羽の小さな小鳥として、この町に溶け込むことができる、そんな気がして」
「シャルル……」
「む。すまない。僕としたことが、少々感傷的になりすぎてしまったようだ」
「ううん。少し、シャルルのこと知れたよーな気がする。……やっぱりシャルルでも王家の人と、一般の人たちの間に隔たりを感じるんだ?」
「そうだね……“国”という形をとる以上、仕方のないことなのかもしれないが……僕はそんなもの、なくなってしまえばいいとさえ思っているよ」
「……王族って聞くとどうしても憧れを持っちゃうけど、人には人にしかわからない悩みがあるんだね」
「……だからこそ人間は、手と手を取り合って生きていくのかもしれないね。同じ悩みを持つ者同士、あるいは、自分の知らない苦悩を理解せんとして」
シャルル王子はオリヴィエのほうへ向き直って言う。
「オリヴィエ。こんな頼りのない僕だけど……いや、こんな頼りのない僕だからこそ、君の介助が必要なんだ。僕はときおり、王家という重圧に押しつぶされそうになる。そんなとき、僕をそばで支えるのは君でなければ駄目なんだ。いついかなるときも、僕をそばで支えてくれるかい?」
「うん」オリヴィエは迷わずはっきりと答える。「僕の気持ちは変わらないよ、シャルル。世界樹に悖ることがないかぎり、僕はいつでもシャルルの味方だよ。だから安心して? シャルル」
愛の告白とも取れるシャルル王子の心情吐露。だが、情事に疎いオリヴィエはその真意を、その深意に至るまで、理解してはいなかった。しかし、それは、シャルル王子自身もまた……。
世界樹の見守る中、二人が強い絆で結ばれたことだけは確かだった――。
――帝国との決戦前日、王国軍兵士一同は城より突き出したバルコニーの目下に集められていた。帝国との決戦が明日に迫っていることはすでに周知の事実であり、否が応でもその場には緊張が走っていた。辺りはそぞろ静まり返り、私語を口にする者など一人もいなかった。
集められた兵士たちの前に立っていた一人の上官が、声を大きく張り上げて言った。
「すでに周知の通り明日! 我々は帝国との決戦を行う! 諸君の働きが王国の未来に係っていること! とくと心得よ!!」上官の訓告が、ビリビリとその場の空気を振動させる。「本日こうして諸君に集まってもらったのは他でもない! 明日に控えた帝国との決戦にあたり、国王様より直々に激励の言葉を賜る!! 我ら王国軍兵士にとってこの上なき幸せ! 心して傾聴せよ!!」
上官の言葉に、ピンッと空気が張り詰める。
臣下に促され現ラフランス国王がバルコニーへとその姿を現すと、兵士たちは一斉にその場に跪いた。
「面を上げよ!」国王の一声。「突然のことに驚き、戸惑う者もいるだろう! この国、この世界は永きに渡って平穏に包まれていた。キルシュ帝国の手によって、その平穏が突如として打ち破られようとしている。……帝国に何があったのかは定かではない。だが、我々の手に王国の未来が懸かっていることは確かである! しかし、勘違いすることなかれ! 諸君はけして王国のために戦うのではない! 己が! 己が! 愛しきモノのために戦うのである!! いま一度、胸に手を当て思い浮かべよ。愛しきモノの姿を。町か、人か」
兵士たちは皆、胸に手を当て目を瞑っていた。
「――明日! 余も愛しきこの国を守るために出陣する!!」
国王の言葉に、兵士たちはざわめく。
「我が国が誇る精鋭たちよ! 拳を上げ、剣を取れ! 己が愛しきモノを守るために!!」
どっと辺りが響めき立つ。兵士たちが一斉に上げた雄叫びが、大地を震撼させた。
「すごい熱狂……この空気の中出ていくのやだな……」
国王の後ろ――バルコニーの陰――へ控えていたオリヴィエが言った。
『そうですか? これだけ盛り上がっているほうがかえって登場しやすいのでは?』
「そんなことはないと思うけどな……」
「そんなに気負わなくても大丈夫だよ」シャルル王子が言った。「君のことは兵士たちにもある程度知れ渡っているから」
「うぅ……。そうは言っても人前に出るのはやっぱりキンチョーするよ……。それに、こんな大勢の前に立つの僕初めてだもん……」
「――続いて我が息子、シャルルより激励の言葉を賜す。どうか聞いてやってくれ。それでは余はこれで失礼する! 諸君も明日に備え充分に英気を養ってくれたまへ!」
「――さ、僕らの番だ。行くよ、オリヴィエ」
「うぅ……」
「諸君、本日はお集まりいただき、誠に――」
シャルル王子の口から紡ぎ出される等身大の言葉。現ラフランス国王の威厳に満ちた御姿には遠く及ばぬその様であったが、それを笑う者は一人もおらず、皆真摯に耳を傾けていた。兵士全体を鼓舞するための情熱に満ちた国王の言葉とは違い、兵士一人一人を想って紡がれた、親愛に満ちた王子のあたたかい言葉に涙する者もいた。
この親にしてこの子あり。国王たる素質は遺憾なく受け継がれていた。
「――この場を借りて、皆に紹介したい者がいる」
シャルル王子はすぐ後ろに控えていたオリヴィエに向かって、
「オリヴィエ、前へ」と小声で言った。
オリヴィエが一歩前に出、自身の横へ並び立ったことを確認してから王子は続けた。
「すでに知りおいている者も多いと思うが……」そう言って王子はオリヴィエのほうへ腕を伸ばす。「彼女は『オリヴィエ・テスタロッサ』私の最も信頼する近衛騎士である」
王子のその言葉に、それまで静かに話を聞いていた兵士たちが少しざわめきたつ。
「時間を取らせてすまないが、一度、彼女の口から直接挨拶をさせたい。もうしばし付き合ってくれたまえ」
王子にジェスチャーで促され、オリヴィエが一歩前へ出る。目下には見渡すかぎりの大観衆。オリヴィエはこの上なく緊張していた。
「た、ただいまご紹介にあずかりました! オリヴィエ・テスタロッサと申します! ふ、ふつつか者ですが! 誠心誠意お仕えする所存でございますので! なにとぞ、なにとぞ? よろしくお願い申し上げます!」
「……上出来だよ、オリヴィエ」シャルル王子が呟くように言った。
だが、兵士たちの反応はけして色好いものではなかった。なんといってもやはり、オリヴィエのその幼さに疑問を呈する者が多く、ざわざわと喧騒が広がった。
シャルル王子はオリヴィエを後ろに下がらせ、自身が前に躍り出て言った。
「この者には明日の戦いにて、先陣を任せるつもりである!」
シャルル王子の言葉に兵士たちはより一層ざわめいた。
「……この者の実力は、国王様も認めておいでだ! それでもなお! この者の実力に不信感があるという者は前に出よ!」シャルル王子は右腕を前方へ振り抜いてそう言った。「百人でも! 二百人でも! 全員纏めてこのオリヴィエがお相手仕る!! ……と、オリヴィエが申している」
「ちょっ!! シャルル!? 何言ってくれちゃってんの!?」
慌てたオリヴィエが小声でそう言いつつ前に出ようとしたのを王子は片手で制止する。その目にはなみなみと並々ならぬ決意が満ち溢れていた。
兵士たちは動揺を隠せず、私語の波が伝播した。だが、それでも名乗りを上げる者はいなかった。
「――おうおうおう! おめえら! 恥ずかしくねえのか!!」
一人の兵士が、そう熱り立つように大声を上げた。その者は、いつぞやのことか、オリヴィエが痛烈に股間を蹴り上げたあの門兵に他ならなかった。
「長年王家に仕えてきた俺たちよりも、あんなポッと出の小娘のほうが『信頼に足る』とまで言われても、それで黙って指を咥えて見ていられんのかよ!」黒髪の門兵は焚きつけるように言う。「俺たちの実力! 知らしめてやろうぜ!!」
門兵の思惑通り、ものの見事に煽動された兵士たちが挙って名乗りを上げた。その数なんと全体の半数ほど。血気盛んな若者や、自信のある老練兵などがその中心だった。
「決闘は、場所を改め決闘場にて執り行う!」シャルル王子が言った。「本日はこれで一旦解散と致す! 家に帰り休むなり! 決闘を見物するなり! 各自好きなように時間を使うとよい! ……明日の諸君の活躍には期待している。精々励め!」
――王国決闘場。
シャルル王子は「各自自由にせよ」と宣ったものの、兵士たちは皆一様に決闘場に集結していた。国王や王子の裁量に不満のない者たちも皆純粋に、オリヴィエの実力に興味があったのだ。かくいう国王も、決闘場へ足を運んでいた。
「――何も父上まで来られずとも……」シャルル王子が言った。
「はっはっはっ!」ラフランス国王は豪快に笑ってみせる。「よいではないか。私も彼女の実力には興味があるのだ。セバスチャンから伝え聞いているとはいえ、やはり真贋を見極めるためには己の眼で直接見るに限る。これは国王にとっても人間にとっても大事なことよ」
「ですが……」
「――それに、お前に“聞きしに違わぬ実力”とまで言わしめるほどの彼女の実力。いったい、いかほどのものなのか。実に興味深いじゃないか」
オリヴィエをぐるりと取り囲むように配置された数多の王国兵。その手には木剣がしかと握られていた。
「なあ……いくらなんでもこれじゃあ多勢に無勢がすぎないか?」そのうちの一人が言った。
「ああ……でも本人が言い出したことだろ? 自業自得じゃないか?」隣の兵士が答える。
「それにしたって……しかもあの娘は素手で戦うって言うんだぞ? 鎧を纏った俺たち相手に」
「それだって本人の言い出したことさ」
「それはそうだが……」
『――オリヴィエ。明日には帝国との決戦が控えているのですから痛めつけすぎないようにお願いしますよ。兵士たちも、あなた自身の体もね』
「わーってるって! でもさ、こんな大勢に囲まれた状態から開始なんて意地が悪すぎると思わない?」
『ええ……ですが、あなたの力を示すためですから致し方ないでしょう』
「別に僕はそんなつもり、ハナから毛頭ないんだけどな」
『あら、自分で言っていたではありませんか。「全部纏めてお相手仕る!」と』
「だからそれシャルルが勝手に言ってるだけで、僕はそんなこと一言も言ってないってば! わかってて言ってるでしょ!」
『……戦場で共に戦う仲間なのですから、兵士の方たちもあなたの実力に不信を抱えたまま、というわけにいかないでしょう。いまさら嘆いたところでもう戦いは避けられませんよ』
「ひ~ん。『望まぬ戦い』とはまさにこのことだよ」
『「ひ~ん」ってなんですか。「ひ~ん」って。いつからあなたは馬になったのです』
「――これより! オリヴィエ・テスタロッサ及び我が軍兵士双方による決闘を執り行う!
『いよいよ始まるようですよ』
「明日にはキルシュ帝国との決戦が控えている! 双方負傷には充分留意して先頭に当たれ! ……双方、準備はいいか!」
「「「おう!」」」
「では、始め!」
――決着はほんの一瞬だった。一人の兵士が開戦の合図と同時に瞬きをしたその眼が、次の瞬間光を捉えたそのときにはもうすでに、オリヴィエを取り囲んでいた兵士たちが一様に地に伏す光景が広がっていた。それは玉と玉が触れ合うよりも一瞬、文字通り一瞬の出来事であった。その場にいたオリヴィエ以外の全員が、いったい何が起きたのかさえ、把握できていなかった。
「つ、強えなんて次元じゃねえ……化け物か……。こ、こんな奴と一対一で勝負なんて、勝てるわきゃ……」
仲よく地に伏していた兵士のうちの一人、黒髪の門兵が苦悶に満ちた表情を浮かべながら、息も絶え絶えに言った。
オリヴィエのその圧倒的な力を前に、会場は門兵の吐露した心情と同じように畏怖の念に包まれ、しんと静まり返っていた。オリヴィエの凄絶な力を目の当たりにした観客から歓声が上がることはなく、人々はただただ顔を強張らせるばかりであった。
――パチ、パチ、パチ、パチ。静寂を打ち破るように、国王が少し大袈裟に拍手をしてみせる
前回見せたものすら遙かに凌駕する、オリヴィエの絶大な力に思わず飲まれてしまっていたシャルル王子も、国王のその動きにハッと我を取り戻すと、国王に倣って大袈裟に拍手をしてみせた。最初はパラパラと不揃いだった音の粒が、漸次に大きく一体となっていった。会場全体に拍手の渦が巻き起こるまでにそう時間は掛からなかった。
「もはや疑念を差し挟む一寸の余地もない! かの者の武勇! まさしく一騎当千!」国王が大きな声で言った。「彼女の力をもってすれば、我が軍の勝利は約束されたも同然であろう! 今後、彼女を我が軍の旗印とする!」
国王の言葉に、ちらほらとざわめく声が聞こえた。ここぞとばかりにシャルル王子が続く。
「彼女に先陣を任せると決めたのは何も私の一存ではない! これは他ならぬ彼女自身の! 彼女たっての願いなのである!」自然と熱が入り、身振り手振りを交えて話す。「諸君らへの被害を最小限に抑えたいと! 彼女はそう、そう願っておいでだ! これは、彼女の深い慈愛の心によるものである!」
シャルル王子の口から告げられたその事実に、兵士たちにざわめきが広がる。シャルル王子はさらに続けた。
「刮目せよ! 王国騎士に相応しき慈愛に満ちたその精神! 憧憬こそすれど、恐るるなかれ! 彼女はこの国の未来を示す道標なり!」
わっと黄色い歓声が上がる。会場は黄色い雰囲気一色に包まれ、もう彼女に恐怖を抱く者はいなかった。浮かれに浮かれる王国兵士たち。鳴りやまぬオリヴィエコールの中、オリヴィエは少し気恥ずかしそうに俯いていた。
「――なあ、私のときより盛り上がっておらんか?」国王が言った。
「ご自分で焚き付けおいて何を言っていらっしゃるのです」シャルル王子が笑う。
「勝ち馬に乗らない手はないだろう。だが、この盛り上がりは紛れもなく彼女自身の求心力によるものだ」
「……そうですね。彼女にはやはり不思議と人を惹きつける魅力がある」
「どうやらお前の直感は間違っていなかったようだな」
「ええ。必ずや、彼女はこの世界をよりよき世界へ導いてくれるでしょう。僕はそう信じています」
「はっはっ。かように小さき双肩に世界をも背負わすというのは、情けなくも酷な話だな」
「……ええ。彼女の力に縋ることしかできない自分の無力さが、常々嫌になりますよ」
「ふっ。その割には彼女が来てからというもの、以前にも増して随分と楽しそうにしているではないか」
「彼女は見ていて飽きないですから」
「――本当にそれだけか?」少し食い気味に言う。
「どういう意味ですか?」
「わからぬならよい」
それ以上は語らず、ただ不敵な相好で正面を見据えるばかりであった。シャルル王子はそんな国王の横顔を不思議そうな表情で見つめながら、ただいまの会話を頭の中でしきりに反芻するのだった――。
――決戦当日未明。
諸外国へ対する体裁の面から、あくまでも『専守防衛』という形を取りたい王国軍は、帝国との国境付近に陣を敷いていた。その数なんと総勢二百万。王都の守りをかなぐり捨て、王国全戦力を国境に集中させたのである。
対する帝国軍は、王国軍が待ち受けていることなど知る由もなく、全軍をもってその歩みを進めていた。
近ごろの宰相にいくばくかの不信感を抱きつつも命に従うしかない兵士、此度の戦で命を落とすことになるかもしれないその事実に戦々恐々とする兵士、目から光が失われ生気の感じられぬ兵士。実に多種多様さまざまな感情が交錯する中、王国への進軍は行われていた。
シャルル王子の言葉通り、王国軍の最前線にはオリヴィエの姿があった。準備万端、気炎万丈。目を凝らし、血潮を滾らせ、帝国軍の到着をいまかいまかと待ち構えていたのである。剣呑な表情とは裏腹に、その胸の内にあるものは、“誰も死なせない”という慈愛だった。
――攻撃開始を告げる嚆矢の音が鳴り響く。帝国軍が王国領土へ侵入したことを確認したのち、放たれる手筈となっていたのだ。
しかし、オリヴィエは嚆矢の音が鳴り響くよりも前、斥候が嚆矢を番えたことを確認したその瞬間にはもう動き出していた。
帝国軍が王国領土を侵犯するのとほぼ同時にオリヴィエが襲い掛かる。その様はまさに疾風迅雷、怒涛破竹の快進撃。文字通りばったばったと帝国兵を薙ぎ倒していくのであった。
オリヴィエが主に狙ったのは頸部の側面と脾腹。掌底と蹠頭(足の指の付け根の盛り上がっているところ)を駆使し、兵士を昏倒させることに終始した。
駆け寄ってきた王国兵が、オリヴィエが昏倒させた帝国兵を手際よく拘束していく。あっという間に帝国の前線は崩壊した。
しかし、オリヴィエが倒したのはそれでもごく一部。帝国兵の数は一向に減る気配を見せなかった。
「くっ! 倒しても倒してもキリがない! どんだけいんの!?」オリヴィエが声を荒らげる。
『いくらなんでも数が多すぎます。あなた一人ですべて相手取ることはできません。少しは兵士の方たちを信用してもよいのでは?』
「だけどっ! それじゃっ!」
『……自分一人ですべてを背負うことはできませんし、すべてを背負う必要もありません。ときには誰かを頼ることもまた、勇気なのです』
「わかってる! ……けどっ!」
『どちらにせよこのままではジリ貧です。……前回と同じならば、裏で指示を出している人間がいるはずです。見つけ出し、捕らえることができれば雑兵は止まるはず。そのほうが結果として被害を最小限に食い止めることができるでしょう』
「~~~!!」言葉にならない声を上げるオリヴィエ。
『迷っている時間はありません、オリヴィエ。帝国兵が雪崩れ込む前に。いまならまだ被害は最小限で済みます』
「……これから僕は敵将を討ちに行く!」大きな声でオリヴィエが言った。「討ち漏らした兵がそっちに行っちゃうから! みんなは無理しなくていいから、とにかく自分の身を守ることを優先して!!」
オリヴィエは帝国兵を薙ぎ倒しながら進んでいく。
〈どこ? 早く見つけないと、みんなが!〉
焦燥がオリヴィエの身を駆り立て、オリヴィエの心を蝕んだ。
〈早く……早く!!〉
――『見つけました!! あちらです!』
「『あちら』ってどこ!?」
『左前方、一人だけ面頬を着用した兵士です! 周囲の兵士に指示を出している姿を視認しました!』
「『めんぽー』ってなに!」
『顔を覆う鉄製のマスクのことです!』
「――見つけた!」
兵士の姿を捉えたオリヴィエはすぐさま兵士の前方へ躍り出た。そのまま流れるような動作で近場にいた帝国兵の烏兎を素早く一突き。卒倒させ、武器を奪い取る。奪い取った勢いそのままにその場でくるりと一回転し、帝国兵から拝借した剣を兵士の喉元に舞い踊るように突きつけた。
「ひっ!」兵士が声を漏らす。
「あなたたちの事情はわかってるつもり」決意の眼差しを向けるオリヴィエ。「戦争を望んでるわけじゃないってことも、殆どの兵が操り人形だってことも。いますぐ進軍を止めるよう伝えて。命まで取る気はない」
「し、しかし……」
戸惑う兵士に、オリヴィエは優しく言った。
「あとのことは心配しなくて大丈夫。宰相様も僕が止めてあげるから。国王様は帝国兵の保護も約束してくれてる。あなたが不安に思うようなことは何もない」
兵士はすぐには答えを出せず、逡巡していた。
「お願い。いまこうしている間にも王国の人と帝国の人が傷つけ合ってる。あなたの決断で、多くの人が救われる」
オリヴィエの心底優しい眼差しに、兵士は、「……わかった。従おう」と両手を挙げて答えた。
「ありがとう」
「変な奴だな、敵兵に礼など」
「……敵も味方もない。だってみんな同じ世界で生きてるんだから」
「……俺のような部隊長はあと十名いる。急ぐといい。……俺たちは王国兵の恨みを買うことを恐れて顔を隠すような卑怯な人間だ。見ればすぐにわかるだろう」
「――おじさんは卑怯なんかじゃないよ。卑怯なのは嫌がるおじさんを無理やり従わせてる人たちなんだから」
「……っ! すまない……ありがとう」兵士は顔を歪ませ、深々と頭を下げた。
オリヴィエは再び礼を言うと、すぐさまその場をあとにした。
一個大隊がその踵を返してからはあっという間だった。兵士から得た情報を元に大隊長を探り当て、接触していく。他の大隊が引き返していくことを確認した大隊長たちが決断を下すのにそう時間は掛からなかった。
波濤のように一挙に押し寄せていた帝国兵の大軍が、引力が作用するがごとくサーッと引いていく。その様は潮のそれに他ならなかった。
オリヴィエが帰路へつくころにはもう、王国兵の鳴りやまぬ歓声が響き渡っていた。溢れ出る歓喜に身を任せ、勝利の雄叫びを上げる兵士たち。王国軍が勝利を収めたことは、誰の目にも明らかだった。
この戦いを理由に、オリヴィエは信仰の対象となり、人々からは“|ラフランスの乙女《La Pucelle de la Lafrance》”と呼ばれることになる。また、オリヴィエを近衛兵として、先陣として、起用することを決めたシャルル王子と、彼女を軍の旗印と掲げると決めたラフランス国王。彼ら両名の采配を讃え、親子二代に渡って“|勝利王《Le Victorieux》”の名を冠することになったのを決定づけた出来事でもあった。
その身を苛む不安に苦しむシャルル王子のもとへ勝利の一報が届いたのは、ちょうど正午ごろのことだった。――本来、国境から王都まではオリヴィエの足であればさほど時間は掛からぬ距離。だが、王国兵たちがそれを許してはくれなかった。勝利の功労者であるオリヴィエを文字通り担ぎ上げて帰ったのである。その浮き足だった輪の中には、国王も参加していたとかいないとか。
「――まずは君の生還を心より嬉しく思う」自身の私室にて、シャルル王子は言った。「おかえり、オリヴィエ。無事で何よりだ」
王子の表情からはその言葉通り安堵の念が窺えた。
「ありがとう、そしてお疲れさま」と明るく労いの言葉を続ける王子とは対照的に、オリヴィエは少し浮かない顔をしていた。
そんなどこか靉靆としたオリヴィエの様子に、
「どうしたんだい? 何か気がかりなことでも?」と王子は言った。
「うん……なんだか浮かれ気分のとこ水を差すよーで悪いんだけど……。帝国宰相、諸悪の根元をどーにかしないと、また同じことが繰り返されるだけだと思う」
「ふむ……。君の言うことは一理ある……が。何、そう心配することはない。帝国軍全勢力を投入しても此度の侵攻は失敗に終わったのだ。帝国にしてみれば、もはや打つ手はないに等しいだろう。何か苦肉の策を講じるにしても、“ただちに”というわけにはいかないはずさ」
「そっか」オリヴィエの顔に、ほんのわずか、安堵の色が見えた。
――コンコンコン。三度、扉を叩く音がした。シャルル王子もオリヴィエもそぞろそちらへ目をやった。
「坊っちゃま。ご報告にあがりました」その声は老夫のものだった。
「入れ」
「失礼いたします。――おや? これはこれはオリヴィエ様、此度は大変ご苦労さまでした」
そう言って、肘を直角に曲げるようにして片手を胸に当て、うやうやしく頭を下げた老夫に釣られ、オリヴィエも礼を言いつつ頭をぺこりと下げた。
老夫は上目でオリヴィエが頭を上げたのを確認すると、自身も頭を上げ、シャルル王子のもとへ歩み寄り、こそこそと耳打ちをした。
「そうか。わかった、ありがとう」
一見、なんの気なしにそう言ったように見えたシャルル王子であったが、その表情はほんの少し、喜びを帯びていた。
「――そうだ」と今思いついたかのようにシャルル王子は言う。「祝宴の用意をさせてある。何はともあれ、いまは憂いなど忘れ、一緒に勝利を分かち合おうではないか」
「……いいのかな? まだちゃんと決着がついたわけじゃないのに」
心なしか、心ここに在らずといった面持ちでどこか遠くを見つめるオリヴィエ。その目は虚ろに揺らいでいた。
「……今回の戦いで、兵士の士気が肝よ――重要だということは君も嫌というほどわかっただろう? 勝利の宴というのは、兵士たちの士気を高めるため、という側面もある。何も悪いことばかりじゃないさ。それと……これはつい先ほど入った報告だが、今回の戦による我が軍の戦死者はなんとゼロ名だそうだ」
「えっ! ほんと?」思わずオリヴィエが顔を綻ばせる。
「ああ。それと、帝国軍も。まだ現段階では帝国軍の被害をすべて完璧に把握できているわけではない……が、少なくとも、いまのところ兵士から帝国兵を殺めたというような報告は一つも上がっていない。これもすべて君の活躍の賜物さ」
シャルル王子の言葉にオリヴィエはほっと胸を撫で下ろす。すぐに、「よかったあ~」とオリヴィエの安堵の念が音となって外へ漏れ出した。
「これで気兼ねなく……安心して祝宴を楽しめそうかい?」
「うん!」屈託のない笑顔を見せる。「実はそこが一番胸につっかえてたの。亡くなった方がいるのに、はたして勝利を祝っていーのかなって」
「……オリヴィエ、君という奴は……。本当にどこまでも慈悲深いね」
「? 亡くなった人を悼むのは当然でしょ?」
「……当たり前だからこそ、時として人はそれを忘れてしまうんだよ」
――その日の午後から始まった祝宴は、盛り上がりに盛り上がり、夜更け過ぎまで続いていた。「帝国との決戦の火蓋が切って落とされる」とだけ伝えられ不安に駆られていた王国民をも巻き込んだ一大旋風は、それはそれは大いに盛り上がりを見せた。宴もたけなわ、期せずして、救国の英雄オリヴィエの名は、この宴によって二つ名とともに一般国民にも広く知れ渡ることとなったのである。
――帝国某所。
「……我は『吉報を届けろ』と言ったはずだが……?」
「も、申し訳ございません! ですが、王国軍に名状しがたい強者がおりまして……! かの者の武勇、“化け物”としか形容できぬ強さ……! と、とてもではございませんが、我々では歯が立ちません!!」
「ええい、なんたる体たらく……なんたる醜態……。軍人ともあろう者どもが、たかが小娘一匹仕留められんとは……。所詮、貴様らも人間にすぎぬ……忌まわしき世界樹の精をその身に宿しし小娘を相手取るのは荷が重すぎたか……」
「はっ? そ、それはどういう?」
「詮索するでない……。世の中には、知らんほうがよいこともある……」
「ヒッ、ヒィッ!」
何者かの体から溢れ出した瘴気に兵士は思わず腰を抜かし、這いずるようにしてその場から逃れた。
「忌々しき世界樹め……。一度ならず二度までも……。この恨み、どう晴らしてくれようか――」