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五章・|暗夜《Noir》

 それは犇き時(丑三つ時のこと)の事。街で食事を済ませ充分に休息を取ったオリヴィエは、王国の外にある小高い丘の上に腹這いになって寝そべっていた。そこは見晴らしがよく、そこからはちょうど辺りが一望できた。目を凝らして闇夜を窺うオリヴィエのもとへ、甲冑の擦れる音と、「ザッザッ」と一斉に歩を進める靴音が闇に交じって聞こえてくる。先ほどまで煌々と辺りを照らしていた満月は雲隠れし、朧に霞んで消えていた。

『まさに暗夜行軍というわけですか。一国を陥落させようというだけあって凄絶な眺めですね』

「『あんやこーぐん』?」

『闇夜に乗じて軍隊を進めるということですよ』

「ふ~ん」

『先ゆく部隊の姿が見当たりませんし、彼らが先陣の火矢部隊であると思うのですが……しかしここからでは距離が遠すぎてよく見えませんね』

「んー……。間違いないと思うよ」

『何か見えるのです?』

「みんな揃いも揃って弓を背中に担いでる。『火矢』って弓で射るやつのことでしょ?」

『ええ、そうです』

「『帝国では金属製品が好まれる』なんて誰かから聞いた気がしたけど弓はふつーに木製なんだね」

『……それはそうでしょう。金属では木材のように大きくしなりませんから。それに重量の問題もありますし。オリヴィエあなた、弓がどのようにして矢を射ち出すかわかっているのです?』

「さー?」とオリヴィエは首を傾げる。

『はー、まったく……。これだからオリヴィエは……。いいですか? 弓というのは――』

「しっ! 静かに。何か聞こえる……甲高い……(ホイッスル)の音?」

『“笛”……ですか。……もしかすると笛で合図を送っているのかもしれません、これだけの大部隊を率いているのですから。ミリタリーケイデンスの一種やも? ……ともすれば、笛を持った兵士を優先的に狙うことで指揮系統を多少なりとも崩せるやもしれません。そうとわかれば早めにこちらから仕掛けてしまいたいところですね、火矢の有効射程もわからないですし」

「おっけー。大体の目星はついたよ。それじゃさっそく……」

 そう言ってオリヴィエはその場に立ち上がり、唐突にポーズを決める。

「僕、総勢一名! 参! 上!」

 決めゼリフとともに、オリヴィエのシルエットが雲の隙間から顔を出した満月(キャンバス)に浮かび上がる。

「きしし」と歯を見せてオリヴィエは笑った。「これ一度やってみたかったんだよね♪ 月明かりに照らされていい感じでしょ?」

『――「月明かり」? 妙ですね。なぜキルシュ帝国は月迅(やみうち)をするというのに、よりによって満月の晩である今日(きょう)を選んだのでしょうか。空を覆い尽くすほどの雲が出ているとはいえ、(それ)に頼るというのはあまりにも不確かすぎる。それならば初めから朔月の晩を選べば済む話です』

「そんな難しい話僕にはわかんないよ」

『……何か今日(きょう)でなければいけない理由が? …………ダメですね。いまある情報だけではいくら考えてもとても推測(りかい)できません』

「考えてもわかんないことは考えても無駄だよ」

『む。オリヴィエに諭されるとなんだか無性に腹が立ちますね』

「失礼しちゃうな。それよりもいつまでもこうしてのんびりしてる場合じゃないと思うけど」

『そうでした! こうしてはいられません、すぐに攻撃に出ましょう』


 ――「ピッ! ピッ!」

「ザッ、ザッ」

「ピッ! ピッ!」

「ザッ、ザッ」

 まるで時を刻む秒針のように、寸分の狂いもない正確無比な一定のリズムで部隊は一矢乱れぬ行進を続ける。その様は、統制の取れた美しさと、どこか機械的な不気味さを孕んでいた。

 闇夜に溶けた呻き声とともに、隊列にわずか乱れが見えた。隊列に生じたズレは、水面に走る波紋のように端から端へと伝播していく。甲冑の(こす)れる音と帝国兵士たちの困惑する声に交じってときおり、誰のものともわからぬ呻き声が繰り返し上がっていた。

 それはほんの玉響(たまゆら)の出来事であった。見事に規律の取れていた帝国軍先鋒火矢部隊、その軍勢は、たった一人の少女の手によって瞬く間に瓦解する。暗夜行軍を決行する帝国軍にとってオリヴィエの存在は予期せぬものであった。――いや、たとえ仮に予期していたとしても、それを未然に防ぐことなど到底叶わなかったであろう。ゆくりなきオリヴィエの襲来は、帝国軍にとってまさに暗夜の礫そのものだったのである。

 いつしか笛の()も、行軍する足音も鳴りやんでいた。闇に聞こゆるのはただ、帝国軍兵士たちの驚き、戸惑う声ばかりであった。


 ――「ふう。これであらかた片付いたかな?」

 闇夜に紛れ一仕事を終えたオリヴィエは、再び小高い丘の上へ舞い戻っていた。

『思いの(ほか)笛を持つ兵士の数が多かったですね。「船頭多くして船山に登る」なんて言葉もありますけれど、帝国軍は恐ろしく統率が取れていました。これも日々の訓練の賜物でしょうか。……それにしても不気味なまでに息が揃いすぎていた気がしますが……』

「一人で何ぶつぶつ言ってんのさ」

『む。一応オリヴィエに話しかけていたつもりなのですが……。それはそうとオリヴィエ、なぜ全員気絶させたのです? いっそひと思いに殺してしまって構いませんのに』

「ひょえ~。……アンジェってば、ほんとに世界を守る世界樹の精なんだよね?」

『そうですよ?』

「それなのに随分と物騒(かげき)な発言するんだねえ。あたしゃ驚いたよ」

『普段“あたし”なんて言わないくせに白々しいですね……。こほん。世界の秩序を乱す者がいるというのであれば、時として武力(ぼうりょく)という手段を取ることも致し方なし、と私は考えています。……人間、誰も彼もが話の通じる人ばかりというわけではないのですから』

「ふ~ん。僕はそうは思わないけどな。悪さをする人たちだって根っからの悪人ってわけじゃなくてさ、きっとのっぴきならない事情があるんだと思うよ? 心の底から悪い人なんていないと思うな。だってそうでないとあまりに(かなし)すぎるじゃない」

『“性善説”ですか。オリヴィエ、あなたのほうが私なんかよりよほどお人好しではありませんか』

「そーお?」

『ええ。……って、オリヴィエあなた今日(きょう)捕らえた衛兵の男に「人間と呼ぶのも憚られるくらいのクズだ」とかなんとかそれはそれは酷いことを言っていませんでしたか?』

「あはは。そんなこと言ったっけ」

『確かに言ってました』

「あ、あの時は僕も少し冷静じゃなかったと言いますか……」

『ほう?』

「き、きっとあーいう人は人間の形をした悪魔か何かで、ほんとは人間じゃないんだよ!」

『いくら相手が頽廃的な人間とはいえ、“人間じゃない”とはこれまた大きく出ましたね。あなたの思想(はつげん)のほうがよっぽど過激ですよ?』

「うるさいなー、もう。『ひとでなし』って言葉もあるでしょ。いちいち人の揚げ足ばっか取ってさ。揚げ足取るのはタコとイカだけにしてよ」

『?? どういう意味です?』

「――あっ! あそこに見えるの元門番(ちょうはつ)のおにーさんじゃない?」

『……どこです?』

「あそこで一人だけえらそーに馬乗ってる人!」

『……どうやらあの様子では私の見立てに間違いはなかったようですね。ぜひともこちらで彼の身柄を拘束しましょう』

「おっけー。僕に任せてよ」

『ふっ。お前もだんだん親父に似てきたな』

「なに? それ? アンジェってそんなこと言うキャラだったっけ?」

『なんとなく言ってみただけです』

「なんじゃそりゃ」

『それよりも早いところ彼を捕縛して帝国軍を一網打尽と行きましょう』

「いちもーだじんといきましょー」


 ――ヒュッ。ヒュッ。ヒュッ。闇に連なる風切り(おん)。直後、男性兵士のものと思われる鈍い声が三度(さんど)上がった。それに続いて鳴り渡った連続音。重たい荷物の入った手提げ鞄を落としたようなその不審な物音に、馬に騎乗した長髪の男は辺りを見渡し、そこで初めて己を取り巻く異変に気がついた。

「……何者だ?」

 長髪の男がそう尋ねるのとほぼ同時に、たっぷりと油の塗られた鏃が長髪の男の首元へ当てられていた。そのことに気づいた長髪の男はすぐさま両手を頭よりも高く上げてみせた。

「やだなー。もう僕のこと忘れちゃったの? 鶏さんかな?」

「言うほど鶏の記憶力は悪くないらしいがな」

「え、そーなの!?」

「ああ。もちろん口から出まかせを言っただけだ」

「くっ! そんな姑息(いちじしのぎ)な手段で僕をかどわそうとするなんて……!! 許すまじ、帝国の悪徳将軍!!」

〈……別にかどわす意図(つもり)などなく、オリヴィエが勝手に驚いただけだと思いますが……。だいたい、“かどわす”の意味をわかって使っているのでしょうか。オリヴィエのことですから、おおかたどこかで聞いた言葉を適当に使っているだけなんでしょうけど〉

「――抵抗、しないんだ?」

「……しても無駄だろう?」

「否定はしないよ。『やってみなきゃわからない』なんてとてもじゃないけど言ってあげられないかな」

「ふっ。羨ましいかぎりだな。……ところで前線部隊の崩壊も貴様の仕業か?」

「そーだよ」

「……そうか。まさかあいつの言った通りになるとはな」

「『あいつ』って?」

「いや、こっちの話さ」

「ふーん……。あれ? ってことは……僕が帝国の凶行を止めに来るって(わか)ってたの?」

「ああ。“なんとなく”、な」

「それなら王国を攻めること自体諦めてくれればよかったのに」

「そういうわけにもいかないさ。貴様が本当に止めに来るという保証も、貴様が一人で進軍を食い止めることができるという確証もなかったんだからな。それに……何よりも、俺一人の一存で部隊を動かせるわけじゃない。所詮、俺も盤上で動かされる駒の一つにすぎないのさ」

〈……“駒”? 妙に引っかかる言い回しですね……〉

『オリヴィエ! シャルル王子の身が危ないかもしれません!』

「どーゆーこと!?」

『彼はオリヴィエが来ることを知っていました。そして、不自然すぎるほどに無抵抗な彼の様子。ここから推察(みちびきだ)される答えは一つです』

「というと?」

『始めから彼はこちらを誘き寄せるための陽動(おとり)だったというわけですよ!』

「えー!」

『彼はオリヴィエの実力を目の当たりにしていました。あなたの(そんざい)は帝国にとって脅威となる。だからこのような案を練ったのでしょう』

「そ、それなら一刻も早くシャルル王子のところへ向かわないと!」

「――その必要はないさ」

「……どーして? まさかもう王子の暗殺に成功しちゃったとか言わないよね?」

「……その“まさか”さ」

 そう言って長髪の男はにやりと笑ってみせた。

「そんな……!」

「……なんてな。いまのも口から出まかせさ。安心しな、誰もシャルル王子のもとへなんか向かっちゃいないさ」

「そんなこと帝国の人間に言われたって信用できるわけ……!」

「……俺だって宰相様に進言したんだ。『ラフランス王国にとんでもない化け物が現れた』と。『王子暗殺を遂行には、その化け物がシャルル王子のもとを離れる今宵しかない』と。だけどいっさい取り合ってはもらえなかった。『計画は変更しない。予定通り遂行する』の一点張りだった」

『どうやら嘘は言っていないようです』

「……近ごろの宰相様はどうも様子がおかしい。以前の宰相様であれば、たとえ足軽(いっぱんへい)の話であろうと無下にすることはなく、真摯に対応してくださった! まるで、何かに取り憑かれてしまったかのように人が変わってしまわれた。いまにして思えば、『ラフランス王国を攻め落とす』などと言い出したのもそのころからだった。正直、兵の中でも疑心暗鬼に陥る者と、宰相様を盲信する者で二分化されてしまっている。貴様も見たか? あの異様な光景を。一糸乱れず一心不乱にラフランス王国を目指すその様を。彼らは皆、宰相様を盲信する者たちだ。彼らも皆何かに取り憑かれてしまっているようで、彼らを率いる立場の私でさえ末恐ろしく感じるときがある。はっきり言っていまの帝国は異常だよ。私がかつて愛した帝国の姿はもうどこにもない。私も炎に飲まれ、王国とともに朽ち果てる心心算(こころづもり)だったのだ。……すまない。このようなこと、貴様たちに話しても詮なきことだったな」

『とても……とても興味深い話が聞けましたね』

「そーかな? 僕は退屈すぎて上のまぶたと下のまぶたがごっちんこしそーだったけど。……それよりも僕はこれだけ長く話し込んでいるのにだーれも異変に気づかず、襲い掛かってくる気配すらしないことのほーが不思議でならないよ」

「俺からすると、貴様がときおり見せるそのまるで誰かと話をしているかのような言動のほうが不思議でならないがな」

「あ、あはは……」

「貴様のその馬鹿げた言動と化け物じみた強さ。そして、帝国に起こった異常。おおかた俺には認識できん超常的な存在の介入でもあるのだろうな」

「そ、そんなことないと思うあるけどなー」

〈ずばり、言い当てられてしまいましたね。さすがのオリヴィエでさえも動揺のあまり意味不明な言動に――いえ、オリヴィエの言動が意味不明なのはいまに始まったことではなく平時(いつも)のことですね〉

「む。僕の中の“失礼しちゃうなレーダー”が反応してる。アンジェいま心の中で失礼なこと考えてるでしょ」

 オリヴィエは小声で言った。

『そ、そんなことありませんよ。おほほ』

 そんなアンジェとオリヴィエの様子(やりとり)に、長髪の男が「ふん」と鼻を鳴らした。オリヴィエが自分のほうを向くのを待ってから長髪の男は話した。

「……彼らはまるで魂が抜けてしまった抜け殻のようで、命令されたことしか実行できないんだ。さっきも言っただろ? 『彼らを率いる立場の俺でさえも末恐ろしく感じるときがある』と」

「ふ~ん。それで誰も襲い掛かってこないってわけ?」

「ああ」

「使えるんだか使えないんだかわかんない人たちだね」

「……そうだな」

「あっ、そうだ! それならさ、あなたの口からみんなに伝えてくれないかな? あなたが捕まって今回の計画は失敗に終わったこと、それと帝国に引き返すようにって。いま引き返してくれるなら命までは取らないけど……もしここで引き返さないと言うのならそうも言ってられなくなる。こっちにだって王国の人たちの生命(いのち)が懸かってるからね」

「……そう捲し立てずともそうするさ」

 長髪の男はすぅーっと大きく息を吸うと、オリヴィエが思わずその体をびくっとさせてしまうほど大きな声で「伝令!!」と言った。すると、どこからともなく一人の兵士が駆け寄ってきた。甲冑に身を包んでいた他の兵士よりも身軽な恰好をしたその兵士の目は虚ろで、生気を感じさせぬ相好(かおつき)をしていた。それはまさしく長髪の男の言った通り、魂の抜けてしまった抜け殻のようだった。

 長髪の男がその伝令兵と思しき兵士に、「今回の計画は失敗に終わったため引き返すように」という旨の伝令を流布するよう命じると、兵士は返事をすることもなくすぐにどこかへ駆けていった。

「さあ、これで今回の作戦は本当に終いだ。あとは煮るなり焼くなり好きにしてくれ」

「煮ても焼いてもおいしくなさそーだけどどーする?」

 オリヴィエは小声で尋ねる。

『……ひとまず逃げ出せないよう入念に拘束をした上で一旦お城へ戻りましょう。あとはセバスチャン様があのときなさっていたように門兵の(かた)にその身柄を預ければよいでしょう』

「“セバスチャン”って誰だっけ?」

『……“爺や”のことですよ。門番の一人(かた)がそう呼ばれていたでしょう』

「そーだっけ? ……言ってたよーな言ってなかったよーな」

『じとーっ……』

「姿が見えないからって何も口で言わなくとも……」

『さ、くっちゃべってないでとっとと帰りましょう。もう夜も遅い時間ですし』

「さんせーい。今日はいろいろあって僕も疲れたよ」


 ――「お疲れ様です。オリヴィエ様」

 老夫がそうオリヴィエに話し掛けたのは、拘束した長髪の男を連れたオリヴィエが城門へ近づいたころのことだった。

「あっ、爺や。出迎え(まって)てくれたんだ」

「ええ。オリヴィエ様お一人では話が難航すると思いまして」

「……なんかひどいこと言われてるよーな気がするけど……」

「ほっほっ。オリヴィエ様の獅子奮迅たる勇姿(ごかつやく)、その始終あますことなく拝見しておりました」

「え、爺や見てたの?」

「ええ、もちろんですとも。オリヴィエ様のご活躍を証明する者が必要となりますから」

「ふーん……。そーいえば黒髪のおにーさんはいないんだ?」

「彼は今日(きょう)は早番でしたからな。いまごろは布団の中でぐっすりお休みでしょう。……さすがにこの時間まで働かせつづけていては、王宮の品位(モラル)が問われてしまいますから」

「そっか……」

 オリヴィエは長髪の男に向かって、

「彼に会えなくて残念だった? それともよかった?」と尋ねた。

 オリヴィエの問いに長髪の男はすぐに答えず、一拍間を置いてから答えた。

「さあ……どうだろうな」

 表情を崩さずに含みを持った発言をした男の真意を汲み取ることはオリヴィエにはできなかった。

「――さ、あまり遅くならないうちに参りましょう。坊っちゃまが首長くしておいでです。王国の――いえ、オリヴィエ様の安否を大変いたく心配されていました。オリヴィエ様の吉報(ごきかん)にさぞかし喜ばれることでしょう」

 オリヴィエたちは長髪の男の身柄を門兵に預けると、シャルル王子の私室へと向かった。


 ――「やあ、壮健(ぶじ)なようで何よりだよ。町まで帝国の魔の手が及んでいないことを見るに、どうやら万事うまくいったようだね? すぐに顛末(はなし)を聴かせてくれ――と言いたいところだが、今日(きょう)はもう遅い。詳しい話はまた明日(のちほど)聴かせてもらうとしよう」

 シャルル王子がそう言うと、オリヴィエは大きな欠伸をした。

「そーしてもらえると助かるかな。さすがにもう僕もくたくた。十年履き古したパンツよりもくたくただよ」

「パ、パンツって……」

「あっ、そっちの“パンツ”じゃないよ、もー! 変な想像するの()めてよね! シャルルってば意外とむっつりスケベだなー」

「べ、別に想像してはいないさ」

「ほんとかなー?」

「本当だとも」

「ふ~ん」

「そ、そんなことよりも! オリヴィエ。君、今日(きょう)の宿は取ってあるのかい?」

〈いま露骨に話を逸らしましたね。ふふ。シャルル王子にもかわいいところがあるのですね〉

「『宿』……? あっ! こってり忘れてた!」

『それを言うなら“あっさり”ですよ』

「なんかそれも違うよーな気がする……」

『“さっぱり”でした……。オリヴィエに引っ張られて私まで間違えてしまったじゃないですか、どうしてくれるんです?』

「いや、知らないけど……」

「――やれやれ。どうせそんなことだろうと思ったよ」シャルル王子が言った。「そう思って君のために客間(へや)を一つ確保(ようい)してもらっておいたから、ありがたく使うといい」

「ありがと~!! シャルル、気が効くね! いーお嫁さんになるよ!」

「そ、そうかな?」

〈お嫁さんて……。なぜシャルル王子も少し嬉しげなのでしょうか……。いよいよオリヴィエの間抜けさに毒されてきましたかね……〉

「爺や、案内してやってくれるか?」

「……せっかくですから、お坊っちゃまがご案内してさしあげてはいかがですかな?」

 老夫セバスチャンは片目を釣り上げて言った。

「む。そ、そうだな。た、たまには初心にかえって下働き、というのも悪くない。ではそのように致そう」

「ええ、そうされるのがよいでしょうとも」

「で、ではオリヴィエ。ともにゆこうか」

 シャルル王子はオリヴィエのもとへ歩み寄り左手を差し出すと、少し気恥ずかしそうに言った。

「? この手はなーに?」

 オリヴィエの問いにシャルル王子は答えず、顔を背けたままでいた。

『エスコートしてくださる、ということだと思いますよ』

「ふーん」

 オリヴィエはシャルル王子の差し出していた左手に、自身の左手を重ねた。

『逆です逆! この場で社交ダンスでも始めるつもりですか!』

「あっ、そっか」

 オリヴィエはすぐに右手に出しなおして言った。

「じゃ、行こっか」


 ぎこちない足取りで廊下を並び歩く二人の左肩と右肩が、ときおりぶつかりそうになる。その度にシャルル王子の心臓(むね)は、またひとつ、またひとつと高鳴った。

「シャルル、だいじょーぶ? 耳まで茹でダコみたいになってるよ?」

「す、少し暑いね。今日(きょう)は」

「そーかな? 僕は涼しいほーだと思うけど……。もしかして熱でもあるんじゃない?」

 そう言ってオリヴィエは王子のおでこに左手を伸ばす。

 触れ合う二人の肌と肌。オリヴィエの柔肌から、ひんやりとした感触がシャルル王子の肌へ伝った。

「……すまない」

 謝罪(おうじ)言葉(キモチ)が口をついて出る。

「何が?」

「こんな深夜(よふけ)に外で働かせてしまったことだよ。外は寒かっただろう? 体がすっかり冷えきってしまっている」

「なーんだ、そんなこと。んーん、大丈夫。体動かしたからぽかぽかだよ」

「そ、そうか? だとよいのだが……」

「うん。それよりもよかったー、王国の人たちを守れて。知らない人でも死んじゃうのはかなしーもんね。……知ってる人だったらもっとかなしーけど」

「……そうだな、その通りだ。正直僕も気が気でなかったよ。はたして(オリヴィエ)が無事に帰還(かえ)ってくるのか、と」

「ごめんね、心配かけて」

「いや、こちらが一方的(かって)にしたことだ。何も君が気に病む必要(こと)はない」

「それでも心配させたことは事実でしょ?」

「それはそうだが……」

「あ、そっか。僕の言い方が悪かったんだ。“ありがとう、心配してくれて”」

 シャルル王子は少し、驚いたような顔をした。

「ふふ、謝罪(あやま)られるよりも感謝されるほうがずっと気持ちがいいね」

「そーだよね。ごめんね、僕が初めからそー言ってればよかったのに」

「また謝ってる」シャルル王子はオリヴィエのほうを見ながら微笑して言った。

「ほんとだ」

 オリヴィエがそう言ってシャルル王子と目を合わせると、二人して声を出して笑った。二人の絡み合った視線と笑い声が、和やかな雰囲気を醸し出していた。


 ――「わぁ……! ひろーい!」

 オリヴィエがそう感嘆の声を上げたのは、シャルル王子がオリヴィエのために設えた部屋に入ってすぐのことだった。

「ほんとにこんなとこに僕一人で泊まっていーの?」

「ああ、もちろんだとも。君が『煌びやかで頭痛くなりそー』というようなことを言っていたから、なるべく質素な部屋を用意させたのだけど……どうだろうか?」

「そこまで気遣ってくれたんだ、ありがとー。シャルルってば、ほんとに気が効くね。気遣いでも一位になれそーだね」

「『気遣い“でも”』って、(ほか)に何が一位なんだい?」

「んー……なんだっけ? アンジェがなんかで一位だって言ってたよーな気がしたんだけど忘れちゃった」

「微妙にもやもやするね……。あれ? いまアンジェくんに確かめられないのかい?」

「んー。いつもなら鬱陶しいくらい茶々入れてくるのに、さっきからずっと声がしないから、今日(きょう)はもう休んでるんだと思う」

「そうか……もう夜も遅いしね。無理もないか。少し気になるけれど」

 シャルル王子は改まって言った。

「オリヴィエ、本当に今日(きょう)はどうもありがとう。君のおかげで王国は窮地を脱することができた。まさかこれで終わり、というわけでもないだろうから、まだまだ油断することは断じてできないけれど。積もる話はまた明日(あした)にして、いまはお礼だけ言わせてくれ」シャルル王子はそう深々と頭を下げた。「重ね重ねありがとう」

「頭を上げて? シャルル。僕は当然のことをしただけ。感謝されるようなことはしてないよ」

「……君という人は……」そう言いながら頭を上げたシャルル王子は、聞こえるか聞こえないかくらいの非常に小さな声で呟いた。

「ありがとう」

 その声はかすかに震えていた。

「そこの箪笥(タンス)に君の着れそうな寝間着を用意させておいたからもしよければ使うといい」

「んー……疲れたからこのままでもいー? いますぐにでも寝たい気分。ベッド汚れちゃうかもだけど……」

「ああ、構わないよ。どちらにせよ綺麗にすることになるのだから。……明日(あす)の起きる時間は気にしなくていいから今日(きょう)はゆっくり休んでくれ。遅くまでありがとう。それじゃ、おやすみ」

「うん、おやすみなさい。シャルルもゆっくり休んでね。こんな時間まで付き合ってくれてありがとう」

 就寝の挨拶を交わすと、オリヴィエは後ろで一つに結っていた髪を(ほど)きながら天蓋付きのベッドのほうへ歩み寄った。

「それじゃおやすみ~」

 ベッドに(もぐ)ったオリヴィエがそう言ったのを確認すると、王子は「おやすみ」と言ってから部屋の電気を消し、部屋の外へ出た。挨拶(わかれ)を交わした二人をわかつように扉がゆっくりと閉じる。いくばくの名残惜しさと、胸の高鳴りを残して。

 オリヴィエに気遣い静かに扉を閉めたシャルル王子は、

「それじゃあ、あとはよろしく頼むよ。いくら武に優れているとはいえ一人の可憐な女の子だからね」とそばに控えていた兵士に小声で声を掛けた。

「はっ! シャルル殿下直々に命をいただけるとは――」

 シャルル王子は人さし指を立て顔の前に持っていく。兵士は声を抑え、小さな声で言った。

「これは失礼いたしました。すでにご就寝なさっていましたか。シャルル様のご友人はわたくしが命に代えましてもお守りいたします。どうぞご安心しておやすみください」

「ありがとう」

 王子はそう言って優しく微笑んだ。


 ――ベッドの中で目をとろんとさせたオリヴィエが大きな欠伸をした。

『おやすみなさい、オリヴィエ』

「あれ……アンジェ起きてたの?」

『ええ』

「なんでずーっと黙ってたの……?」

『ふぅ……。大人(わたし)の気遣いがお子様(オリヴィエ)には理解できませんか。まだまだお子ちゃまのようですね』

「どーゆーこと?」

『いつかわかる日が来ますよ』

「またそれ? ……前もおんなじこと言われた気がする……」

『……そんな昔のことよく憶えていますね』

昨日(きのー)のことのよーに憶えてるよ……。だって僕とアンジェが初めて出会った日だもん……」

『そのわりに「気がする」と曖昧な言い方だったのが気になりますが――』

 すーっ、すーっ。オリヴィエは穏やかな寝息を立てていた。

『って、もう寝てるのですね。おやすみなさい、オリヴィエ。ゆっくり休んでくださいね。……そうして眠れるのもいまのうちだけなのですから』


 ――同刻、帝国某所。

夜襲(ひぜめ)が失敗に終わっただと?」

「はっ。さようでございます」跪いた兵士が言う。「進軍の最中(さいちゅう)、何者かによる強襲に遭い部隊は壊滅。指揮官も王国(てき)軍に捕らえられた、との報がございます。こちらの情報(うごき)が漏れていた可能性も……。いかがいたしましょう」

「よい……。使えん手駒(ヤツ)のことなど捨て置け。それよりも次なる手を打たねばなるまい……。残った手勢を集めておけ」

「はっ! 仰せのままに」

 兵士は敬礼をし、その場を去った。

「……忌まわしき世界樹め……。()が野望の邪魔立てをせんとは……。いまに目に物見せてくれるわ……」


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