四章・|忠誠《Chevalerie》
「うう。まさかあの気のよさそうなおじさんが帝国の間者だったなんて」
オリヴィエは町を疾走しながら言った。
『つくづく人の内面というのはわからないものですね』
――『オリヴィエ! 見つけました! あちらです!』
「『あちら』ってどこ!?」
『一つ隣の通りを移動しています! その先の路地を右に抜けてください!』
「わかった!」
『視界に捉えてもすぐには捕まえないでください!』
「どーして?」
『私たちは奴が間者であるという確たる証拠を何一つ持ち合わせていません。門番の彼の証言の裏付けとなるような何かが欲しいところです。ここは一つ奴を泳がせて様子を見ましょう』
「わかった! “びこー”ってやつだね! 僕に任せといてよ!」
『……オリヴィエ、ほんとに大丈夫ですか?』
「見つからないようにすればいーんでしょ? かくれんぼは大の得意だからだいじょーぶ!」
『……かくれんぼとは勝手が違うのですが……。あっ! 人通りの少ない路地へ入っていくようですよ!』
「……見つけた!」
オリヴィエは急いで衛兵のもとへ駆ける。衛兵の入っていった路地へは足を踏み入れず、建物の陰から様子を窺った。
「こんなところで何してるんだろう……」小声で呟いた。
『これも見回りの一環でしょうか……。いまのところ挙動に不審な点は見当たりませんが……』
オリヴィエ監視の下、衛兵はつと立ち止まって懐を弄った。
〈煙草でしょうか……。実に嘆かわしいことですが、仕事をサボって一服というのもままある話です。しかし、こちらからではいまいち手元が見えませんね……〉
衛兵は懐から取り出したと思われる何かを辺りにぶち撒けた。
〈液体? お酒か何かでしょうか……。しかしなぜこのようなところに捨てる必要が……?〉
「なんだろう……この鼻につく嫌な臭い……」
『どんな匂いです? もっと詳しく!』
「んー……。なんていうか全身に纏わりつくような……」
〈私が以前視た光景では、さほど空気が乾燥している時期でないのにもかかわらず火の回りが異様に早かった……。もしや……〉
『オリヴィエ、お手柄です。私の考えの通りならば、アレは確たる証拠になり得ます』
「したっけ、もう捕まえちゃっていーの?」
『ええ。できればあの液体の標本を採取したいところではありますが……』
「そーいうむずかしーことはあとで考えればいーよ! 『善は急げ!』でしょ? 早くしないとおじさんがどこか行っちゃうよ」
『いまはその言葉の使いどころではないような気がしますが……。ここでこうして悩んでいても仕方がないのは事実です。騒ぎになる前にひっ捕らえ、詳しい話はあの衛兵から直接聞くとしましょう』
「ん!」
――「おじさん、こんなところで何してるの?」
背後から不意に声を掛けられ、衛兵の体がびくっと跳ね上がる。衛兵は恐る恐る振り向きオリヴィエの姿を確認すると、動揺した様子で、
「や、やあ、嬢ちゃん。前にも言っただろ? 人目につきにくい細部まで見回るのがおじさんの仕事なんだ」と言った。
「ふ~ん」すべてをつぶさに観ていたオリヴィエはわざとらしく鼻を鳴らすようにして言った。
「……何処から見ていたんだい?」
「んー。おじさんがこの路地に入っていくあたりからかな」
「へっ。全部見られてたってわけか。それじゃあ悪いが……生かしてはおけねえな!」
そう言って衛兵はオリヴィエの背後に素早く回り込み、腰に携えていた短剣をオリヴィエの喉元に突き立てた。
『オリヴィエ!』
男は興奮しているのか、「へっ、へっ」と妙な息遣いをする。
「嬢ちゃんが悪いんだぜ? こんなところを一人でほっつき歩いてっからよ。言ったよな? 『事件に巻き込まれても知らねえぞ』ってな」
「……それでおじさんが事件を起こしてちゃ世話ないね」
「安心しな。事件は起きねえよ。嬢ちゃんは人知れずこの世を去っていくんだからな」
「……あーあ。僕って人を見る目がないのかなあ……」と肩を落とした。
「あん?」
「いー人だと思った人たちが揃いも揃ってみんな悪者なんてさ」
「なんの話だ?」
「別にー。こっちの話。残念だよ、街の平和を守るための短剣を殺しの道具に使うなんてさ」
オリヴィエはそう言って人さし指と中指の二本の指で挟むように短剣に触れようとした――
「――触るんじゃねえ! 妙な動き――」
衛兵が言いかけたその瞬間だった。金属の弾けるような大きな音とともに衛兵の持つ短剣の刃は根元からぽっきりと折れていた。
「なっ……!」
オリヴィエは一瞬の隙をついて驚惑する衛兵の腕をするりと抜け出し、即座に身を翻すと同時に衛兵の背後へ回った。衛兵の喉元には、折れた短剣の刃がしっかりと突き立てられていた。
「――これで形成逆転。決着、だね」
衛兵は一瞬の出来事を飲み込めず、ただ呆然と立ち尽くしていた。オリヴィエはそんな衛兵の喉元へ突き立てていた短剣の刃に容赦なく力を込める。ぐっ、と押し込められた刃が衛兵の肌へ食い込む。
「……抵抗しなければ命までは取らない。その代わり、あなたがいままでしてきたこと、洗いざらいすべて白状してもらう」
初めて実感する死の恐怖。味わったことのないその感覚に、衛兵は身動き一つできないでいた。
「|生か死か《Dead or Alive》。おじさんが好きなほうえらんでいいよ」
軽やかに尋ねるオリヴィエのその瞳からはいっさいの光が失われていた。
「はっ、はっ」男の息遣いは荒くなる。その犬のような息遣いに交じってときおり、ひゅーっ、ひゅーっと喉の鳴る音がしていた。
「……これ以上黙ってるとおじさんほんとに死んじゃうよ?」
オリヴィエは短剣の刃を持つ指にさらに力を込める。衛兵の肌に食い込んでいた刃が、ぐぐぐっと深く押し込まれる。――プツッ。小さな音とともに衛兵の肌をたらりと汗と血が伝った。
「ヒッ!」衛兵の恐怖心が音となって外へ漏れ出す。「わ、わかった。話す、全部話すから、命だけは……」
「始めからそーしてれば恐い思いしなくて済んだのにね♪」
オリヴィエが衛兵の耳元で優しく囁いたそれは、衛兵には悪魔の囁きに思えてならなかった。
『オリヴィエ、早速ですが先ほどの液体のことを聞き出しましょう』
「おじさん、さっき撒いてた液体、なに?」
「あ、あれは門番の兄ちゃんに渡されたんだ。『特殊な素材を使って作られた帝国製の油だ。揮発性が低く、可燃性も高い優れ物で、こうして前もって仕掛けておくのに最適なんだ』と言ってた」
「まだそれ残ってる?」
「い、いや。さっき使ったので全部だ」
「ほんとに?」そう言ってオリヴィエは手に力を込める。
「嘘じゃねえ! 期日までに撒くように言われてたんだ!」
「それがおじさんの仕事だったんだね」
「あ、ああ、そうだ。指定された場所にこいつを撒くだけで前金として三十万。へ、へへ。こんな割のいい仕事他にねえもんで、金に目が眩んでつい……」
「よくお金だけもらって逃げなかったね」
「こんな怪しい仕事依頼してくる奴に顔が割れてんだ。そんなことしたらどうなるか……わかるだろ?」
「……それが油だってこと知ってたんなら、当然、帝国が城下を焼き払おうとしてることも知ってたんだよね?」
「ああ」
「それなのに引き受けたんだ?」オリヴィエの短剣の刃を持つ指に自然と力が入る。
「す、すまねえ! 帝国が攻め入ってくるならどっちみちこの国はもう終わりだと思ったんだ! 俺が手を貸しても貸さなくても同じや同じや思て!」
「……ほんっとに最低な人――いや、“人”というのもバカらしいくらいに醜悪だね……」
『オリヴィエ。王子暗殺の件も聞き出しましょう』
「それで? おじさんの受けた仕事はそれだけ?」
「火事の騒ぎに乗じて王子の抹殺も依頼された。成功報酬で三百万やると言われて。だ、だけど断ったんだ。さすがにそれはヤバいと思って! ほ、ほんとだ! 信じてくれ!!」
『どうやら嘘ではないようですね……』
「そうだ!」と男は大きな声を上げる。「いま思い出した! そのあと『仕方ない。ならばそっちは俺がやる』と言っていた! 俺はあいつのうまい話に乗っただけで、主犯はあいつなんだ!」
『この期に及んで責任転嫁ですか……本当にどうしようもない男ですね』
「……おじさん、あんまり僕を怒らせないほうがいーよ」
そう言ってオリヴィエは喉に突きつけていた短剣の刃をひゅっと素早く振り上げた。振り上げられたそれは衛兵の鼻っ面を掠め、薄皮一枚剥ぎ取っていく。ぱらり、と、切れた衛兵の前髪が宙を舞った。
「は……はは……」
虚ろに揺らぐ眼差しで虚空を見つめる衛兵の体からは、乾いた笑いと小便が漏れるばかりだった――。
『――さて、ひとまずこの衛兵を連行せねばなりませんが……すっかり陽も傾いてしまいましたし、シャルル王子のもとを訪ねるのは日を改めたほうがよさそうですね』
「このおじさんをこのままにしておくわけにも行かないしとりあえずお城まで行こーよ。牢屋にぶち込んでもらわないと」
『あまり感心しない言葉遣いですね……。しかし、いきなり私たちが「賊を捕らえた」などと訪ねていって信用してもらえるでしょうか。シャルル王子かそのお付きの方と直接話すことができれば手っ取り早いのですが……』
「直接話すほうが難度高くない?」オリヴィエは笑う。
『そうですね……』
〈オリヴィエの身体能力をもってすれば、城壁を乗り越えて侵入することなど容易ですが、さすがにそれでは見つかったときの言い訳が立ちませんね……〉
『王宮関係者に顔見知りでもいれば話は別なんですが……』
一拍置いて二人同時に「『あっ!』」と言った。
「いるじゃん! 顔見知り!」
『いやしかし、彼はこの国に仇なす間者を庇うような輩ですよ?』
「それだって“彼の優しさゆえ”でしょ」
『それはそうかもしれませんが……。彼のような危険人物をシャルル王子と引きあわせるわけには……』
「何も直接彼と王子が会わなくたって、僕たちがお城の中に入れるようにさえしてもらえれば、あとはシャルル王子が融通利かせてくれるんじゃない? それに『立っている者は親でも使え』って言うでしょ!」
『む……たしかにそうですね』
「とりあえず黒髪を捕まえてた場所に行こーよ」
そう言ってオリヴィエは、アンジェの返事も待たずに衛兵を連れてさっさと歩き出す。
「ほら、しゃんと歩って! おじさん!」
〈先ほどまでの態度が嘘のように完全に戦意喪失してますね……〉
「あれからずっと放置してたからお腹を空かせて倒れてるかも」
『それはないでしょう。オリヴィエじゃないんですから』
「そんなこと言ってたらなんだか僕もお腹減ってきた! 早く何か食べたい! 早く用事済ませちゃお!」
〈オリヴィエが食事の話をして思い出しましたが、今日の宿すらまだ取っていませんね。……まあ、なんとかなるでしょう。最悪なんとかならなくても困るのはオリヴィエだけですし。気づかなかったフリをして黙っておきましょう〉
「――わっ。ばっちい。おしっこ漏らしてるよこのおじさん。なんか臭うと思ったんだよね。どうしよう? アンジェ」
『「どうしよう」と言われましても……。このまま連れていくほかないでしょう』
「やだなー、おしっこパンツ穿いてるおじさん連れて歩くの。ばっちいパンツを身に着けても強くなるわけじゃないのにね」
「――ほっほっ」と聞き覚えのある声がしてアンジェは振り向いた。
「ご心配には及びません。僭越ながらわたくしめもお相伴致しましょう」
「あっ! 爺や!」
「ほっほっほっ。オリヴィエ様の爺やではございませんがな」
「えー。じゃあなんて呼べばいーの?」
「変わらず爺やで構いませんよ」
「なんじゃそりゃ」
「ほーーーほっほっ!」
老夫は馬鹿でかい笑い声とともにそのまま後ろに倒れてしまうのではないかと思うほどに大きくのけ反った。
「わっ! 爺や、背中大丈夫?」と慌ててオリヴィエが駆け寄る。
〈まるで下弦の三日月のようですね〉
「こほん。失礼いたしました。オリヴィエ様があまりに愉快なもので。さあ、殿下のもとへ参りましょう。私がいれば門兵など顔パスですからな。そちらの衛兵はわたくしめがお連れいたします」
「よろしくー」
そうしてオリヴィエたちは王宮へと向かって歩き出した。
「――アンジェ、『顔パス』ってなーに?」オリヴィエが小声で言った。
『身分を証明する物を提示せずとも、関所や検閲所などを通行できる、ということですよ』
「ふーん」
『つまり、それだけ広く顔の知れ渡っている身分ということになります』
「ほえ~。爺やってすごいんだねえ」
少し大きな声でオリヴィエが言うと、老夫は背中越しに「ほっほっ」と小さく笑った。
『仮にも王子の付き人ですからね』
「……ところてん、黒髪どーする?」
オリヴィエは再び小声でアンジェに問う。
『それを言うなら“ところで”ですが……。そうですね……彼のしたことは到底許されることではありませんが、ただちに収監しなければならないほどのことでもないでしょう。あの様子では逃亡の恐れもないと思いますし……ひとまず彼のことはシャルル王子たちには伏せておいて、あの状態のままもうしばらく放置をすることで彼へのお灸としましょう』
「そっか……わかった」
……「あっ、やっとお城が見えてきた」
オリヴィエがつと口を開いた。それは逢魔時のことだった。
「いい加減おじさんのお尻には見飽きてきたところだったんだよね。おしっこパンツおじさんがとぼとぼ歩ってるからずいぶん時間掛かっちゃったな」
「ほほほ。この様子では仕方ありますまい」
老夫に連れられた衛兵はひどく意気消沈した様子だった。
「あんまりにも遅いから背後からお尻を蹴っ飛ばしてやろうかと思った」
「ほーーーーー!!」
老夫は高らかな笑い声とともに大きくのけ反り、その頭を地面につける。
「ちょっ! 爺や、大丈夫?」
「オリヴィエ様は実に愉快なお方でいらっしゃる」と老夫は地面に頭をつけたまま言った。
〈……あなたもオリヴィエに負けず劣らず相当に愉快な方だと思うのですが……〉
「失礼。どうかお手をお貸しいただけますかな? オリヴィエ様。どうも一人では起き上がれんようです」オリヴィエの手を借り、やっとの思いで起き上がった。「ありがとうございます」
「大丈夫? 腰」
「ええ、これくらいならなんともありませんとも。さ、遅くなってしまいますから参りましょう。この長い石畳を抜ければもう、すぐそこです」
「うへえ。気が遠くなるなあ」
そうしてオリヴィエたちは再び歩き出した――。
――「そこゆく者! 止まれ! このような遅い時間に何用だ!」
オリヴィエ一行が城門へ近づいたころ、一人の門兵が駆け寄ってきた。
「なんですかな。騒々しい」
「はっ! セバスチャン様であらせられましたか! これは大変失礼いたしました!」
門兵はそう言ってぴしっと敬礼をする。
「気にせずともよい。自分に課せられた業務をせいいっぱい全うしようというのは感心すべきことです」
「はっ! お褒めに与り、まっこと光栄の極み! これからも精進いたします!」
敬礼した姿勢を保ったままの門兵の奥から、もう一人の門兵が歩み寄ってくる。
「すいませんね、こいつぁ配置転換されたばっかりで張り切ってるんでさあ」
新たに歩み寄ってきたもう一人の門兵がそう言うと、
「あなたにも少しは彼の勤勉さを見習ってもらいたいものですな」と老夫が嫌味たらしく言った。
「あーっ!!」男の姿を見たオリヴィエが大声を上げる。「おにーさんどーしてここに?」
それもそのはず、そこに現れたのはいまもなお拘束しているはずの黒髪の門兵だったのだ。
「確かにあの時キツく縛――」
「だーっ!!」言いかけたオリヴィエの口を、男は大慌てで塞ぐ。
「もがもがもが……」
「そのことはあとで詳しく説明すっからいまは黙っといてくれ」
オリヴィエの耳元で囁くようにして言った。
『オリヴィエ、いまは彼に話を合わせておきましょう』
「わ、わかった」
「ほっ」老夫は笑う。「相変わらず仲がよろしいことで」
「へへっ。まー、なんつーかこいつとは気心知れた仲っつーか……」
「……いつから僕たちそんなに仲よくなったの?」
オリヴィエはじとーっとした目つきで言った。
「馬鹿! こういうときは適当に話合わせとけ! ――あっ、やべっ」
男はしまった、というような顔をする。
「ほっほっ。本当に仲がよろしいようで」
「いやー、ははは」
「しっかし、おにーさん。あんなことがあったあとでよくへーぜんと門番なんてやってられるね~」
「はて? 『あんなこと』とは?」老夫が問う。
「へ、な、なんのことだか俺にはさっぱり。ははは」
兵士はそう惚けながら、オリヴィエの脇腹をつねった。……『もうお前は黙っとけ』と言わんばかりに。
「いたたたた。何すんのさ!」
『オリヴィエ、いまは大人しくしておきましょう』呆れたようにアンジェが言う。『これではいつまで経ってもちっとも話が前に進みません』
「――して、セバスチャン様。その者たちは?」そばに控えていたもう一人の門兵が言った。
「おお、そうでしたとも。こちらの少女はシャルル王太子殿下のご友人であらせられる」
「はあ……シャルル様の……」
「『今後丁重におもてなしせよ』との命である!」
「はっ! かしこまりました!」そう言って門兵はキレのある動きで敬礼をする。
「そしてこちらの衛兵は国家転覆を企てた鯨鯢です。厳重に牢にぶち込んでおきなさい」
「はああ……国家転覆を……って、ええ!! そ、そんな大悪党とても私一人では……」
「そう心配なさるな。見ての通り喋る気力さえも失っておる。いまとなっては木偶の坊とそう変わりやせん。諾っていただけますかな?」
「はあ。さいでございますか……。そう仰るのであれば、責任を持ってお引き受けいたしましょう」
「よろしく頼みましたよ」
「はっ! その命、この身に代えましても、必ずや遂行いたします!」
「“門兵らしからぬ”殊勝な心掛けですな」
老夫は黒髪の兵士のほうを見て、当て擦るようにそう言った。
「へへっ。やる気に満ち溢れてて困りまさぁ。俺には眩しすぎるくらいで」
「ひとつ爪の垢を煎じて飲ませてもらってはいかがですかな」
「いやいや、そんな不潔な物。是非ともご遠慮願いたい」
「ほっほっほっ」
「ははは……」
二人の間にはなんとも言えない空気が漂っていた。
「――それじゃ俺はお仕事に戻りますんでこれで。皆さんもどうかくれぐれもお気をつけて」
そう言って黒髪の兵士は門のほうへ戻っていった。
「“気をつける”? 何に? お城の中って安全じゃないの?」オリヴィエが小声で囁く。
『挨拶の提携句のようなものでしょう』
「『てーけーく』?」
『決まって使う言葉ということですよ』
「ふーん」
『本当に理解できたのですか?』
「……アンジェってときどき僕のことバカにするよね」
『あら。「ときどき」ではありません。“いつも”ですよ』
「カッチーン。頭にきた。もう口聞いてやんない」
『そうですか』
「……アンジェはそれでもいーの?」
『ええ。わからないことがあってすぐに泣きついてくるのが目に見えていますから』
「アンジェなんかもう知らない!」
〈少しからかいすぎたでしょうか……〉
――その後オリヴィエたちは連れていた衛兵を門兵に預け、シャルル王子のもとへ急いだ。
――コンコンコン。
「坊っちゃま、失礼いたします」
「ああ」
オリヴィエたちは王子の部屋へ入る。
「やあ。思っていたよりも遅かった……と言うべきか、早かったと言うべきか」
「思ったよりも時間掛かっちゃった。ほんとはもっとババビューンと終わらせられる目測だったんだけど」
「まあ、一両日中に間者を暴いてしまうなら充分すぎるほど早いと思うけどね」
「えー、そうかなあ?」
「そうだよ。さあ、それじゃあ詳しい話を聞かせてもらえるかな? 見事賊を引っ捕らえたんだろう?」
「そうだった! んーと……どこから話せばいいかなあ……」
「まずは賊の正体。そしてその目的について。順番にお願いするよ」
「わかった! んーとね、間者は二人いて、一人はさっき連れてきたおしっこパンツおじさん!」
『オリヴィエ、シャルル王子はその男とお会いしていませんよ』
「あっ。えーとね、『この街のえいへーをやってる』って言ってたおじさんで……たしか『路地もみわまるのが仕事だ』って言ってた!」
『わざわざ衛兵の説明などせずとも……この国で衛兵のことを知らないのはあなたくらいのものだと思いますよ。それと「みわまる」ではなく“見回る”です』
「……。それで、頬に傷があって……そうだ! 頬に傷があるのは一人だって言ってた!」
『誰が?』
「むーーー。アンジェさっきからうるさい」
『あら。「私とは口を聞かない」んじゃないんでした?』
「むーーーーー!」
「こほん」老夫がわざとらしく咳払いをする。
「あ、それでね、そのおじさんは“実行犯”ってやつで黒幕は他にいるの」
「して、その黒幕とは?」王子が尋ねる。
「シャルル王子が教えてくれた通り、門番をやってたうちの一人で、髪が長いほうの人!」
「彼か……正直彼のことは信じていたかったが……」
「だけどその人にはいろいろあって逃げられちゃった」
「そうか……」
「ごめんね。ほんとは捕まえるつもりだったんだけど……」
「fいや、気にせずともよい。そこまで調べてくれただけで充分だ。お手柄だよ、オリヴィエ。恥ずかしながら僕たちは帝国の間者が紛れ込んでいることにさえ気づいていなかったのだからね」
「そっか。ならよかった。それで、捕まえたおじさんから訊いた話なんだけどね――」
オリヴィエは帝国製油の件、王国城下焼き討ちの件、王子暗殺の件について、あることないこと詳らかに話した。
〈紆余曲折ありすぎてところどころ関係ない話が多かった気がしますが……。これできちんと王子に伝わっているのでしょうか……。ああ、直接私の口からご説明できないのがもどかしいですね〉
「――そうか。そんなことが。まさか衛兵の業務に紛れて白昼堂々犯行に及んでいたとはね。……しかし、城下町ごと焼き払おうとはキルシュ帝国も悪逆非道なことをするものだね。とてもではないが信じたくない話だ」
「“ぶってきしょーこ”? ってやつ? ほんとは欲しかったんだけどあいにく全部使いきっちゃったみたいで手に入らなかった」
「ふむ。別に君の話を信じていないわけではないが、君が犯行を目撃したと言う場所にのちほど調査に向かわせよう。だが、その衛兵の話だとすでに帝国の内部工作は済んでしまっているのか。早ければ明日、いや、今日の夜中にでも攻め入ってきてもおかしくはないね」
「おお、そうでしたとも。そのことでお話が」
それまで黙して話を聞いていた老夫セバスチャンが口を開いた。
「どうやら帝国は今晩のうちに攻めてくるようですな。件の衛兵を唆した張本人である元門番がそう言っておりました」
「……なぜそんな大事な話をいまのいままで黙っていたんだい?」
「いやはや、本来であれば可及的速やかにお伝えせねばならない事態ではあるのですが、いまはオリヴィエ様がおりますゆえ、オリヴィエ様ならばなんとかしてくださるだろうと、つい気が緩んでおりました」
「はー……。国の一大事によくそうも落ち着いていられるね、爺や。爺やこそが真の帝国の間者なのではないかと勘繰ってしまうほどのらしからぬ体たらくだ」
「滅相もないことでございます。わたくしが王国を、ましてや坊っちゃまを裏切ることなど」
「そんなことはわかっているさ……誰よりも。だからこそ冗談が成り立つのだろう?」
「これはこれは……粋な冗談でございましたか。意趣返しとは、お坊っちゃまも意地が悪い」
「昼間のお返しだよ」
王子はにこやかに笑ってそう言った。直後、オリヴィエのほうへ向き直り、真剣な眼差しをする。
「オリヴィエすまない。『賊を見事捕らえた暁には君を僕の近衛兵として雇うよう父上に進言する』という約束だったのだが……どうも、そうも言っていられない緊急事態のようだ。悪いがもう一仕事頼めるかな? これは君にしかできない、君にしか任せられない仕事だ」
「うん、いーよ」
「ありがとう、恩に着る。……といっても、君の活躍次第ではこの国が立ち行かなくなる可能性があるのだから、半ば強制しているようなものだけど……」
「別に気にしなくていーって! そのために来たんだし」
「……すまない」
王子は顔を伏せ、頭を下げていた。
「でもなにをすればいーの? どーすれば帝国を止められる?」
「……君の曲がりくねった話を纏めると、キルシュ帝国はまず城下に火を点け、混乱が生じた隙に僕を暗殺するという計画のようだ。そのためにはまず、火計を実行するための火矢部隊を先鋒として送り込んでくるはずだ。そこで僕たちは機先を制する。相手の出鼻を挫くことができれば彼らに大打撃を与えることができるだろう。キルシュ帝国の計画は大きく崩れ、再考を余儀なくされるだろう。その隙にさらに追撃を加える。そうなればもうあとの祭りさ。混乱に陥った彼らを滅するなど氷を砕くよりも容易い。……話を聞く限りでは、この国の門番だった彼は帝国ではそれなりの地位についている蓋然性が高い。可能であれば生きて捕らえたいところだね。暗殺の実行犯でもあるみたいだし、彼を捕まえることができれば帝国の侵攻は食い止めることができたと言ってしまっても過言ではないだろう」
「なるほど?」
「……いまので理解できたのかい?」
『絶対理解できていませんねこれは……』
「んー、半分くらい?」
「半分では困るのだけど……」
「あはは。わからないことはアンジェに逐一教えてもらいながら動くからだいじょーび!」
「……僕の立場では部隊を動かすことができない。すべて君一人で行ってもらうことになる。とても危険な任務だ。できるか?」
「“できるか”どうかじゃないよ。“やるか、やらないか”だよ」
「……やってくれるか?」
「当たり前でしょ! さっきも言ったよね、そのために僕は来たんだからさ」