三章・|動乱《Anglais》
オリヴィエは颯爽と城下を駆けていた。
『オリヴィエ! オリヴィエ!』
「んー? なーに?」
『迷いなく突き進んでいるようですが、何か当てでもあるのですか?』
「『当て』? そんなのあるわけないじゃん! ずっと一緒にいたんだからアンジェだってわかってるでしょ」無邪気にくすくすと笑う。
『はー、オリヴィエ……。ほんとにあなたって人は……。シャルル王子から匿名のタレコミです。「門番の一人が帝国出身である」と』
「“とくめー”って秘密って意味だよね? “シャルル王子”って言っちゃってるじゃん!」
『――あっ!』
「あはは! アンジェって意外とおっちょこちょいなところあるよね!」
『あ、あなたにだけは言われたくありません……』
「なんだか失礼しちゃうな。ま、いーや。さっきの門番さんたちのところに行けばいーんだよね。さっそく行ってみよー!」
『お、おー……』
――「おう、嬢ちゃん。今日はよく会うな」
近寄ってくるオリヴィエに気づいた長髪の兵士がまず口を開いた。
「あれ、おにーさん一人?」
「ああ。黒髪ならいまはいないよ。ここのところ仕事をサボってどこか抜け出してるんだ。ったく、仕事を押し付けられるこっちの身にもなれってんだ。なんのために門番が二人いるんだか」
『怪しいですね』
「怪しいね」小声でぼそっと言う。
「シャルル王子から門番の人が『帝国出身だ』って聞いたんだけど、僕帝国行ったことないからお話聞きたいなー、と思って」
「ん? ああ、それなら俺のことだな」
「え、そうなの!?」
「ああ。あいつは生まれも育ちもラフランス王国だよ」
「そーなんだー。なんで兵士になったのかな?」
「たしか……昔、国王様に優しくされたとかで、それであの人の下で働きたいと志したとかなんとか」
「ふーん。おにーさんは?」
「俺か? 俺は……って、なんでそんなことを聞くんだ? 帝国の話とは関係ないだろう」
「え? いや、あはは。わざわざ帝国から王国に来てまで働くくらいだから、あまりいいところじゃなかったのかなー、なんて思ったり思わなかったり……」
「まあ……たしかにラフランス王国の国王様や王子様なんかと比べたら宰相様はキツい性格の人だったけどな。王国の長閑な感じとはかけ離れてはいるが……町も人も皆優しかったし、言うほど悪いところではなかったぞ?」
「ふ~ん、そうなんだ。それならどーしておにーさんは王国に?」
「『どーして』、か……。まあ、端的に言ってしまえば“仕事の都合”だな」
〈“仕事の都合”ですか……。自ら打ち明けるとは思えませんが……少し踏み込みすぎたでしょうか。……変わった態度などは見受けられませんが……〉
「ウチの親父が革職人をやってるんだけどさ、金属製品の好まれる帝国では正直鳴かず飛ばずでさ。ウチも昔は生活が苦しかったんだ。そんなとき、親父の技術を高く買ってくださったのが現ラフランス国王様だったんだ。それで、俺が幼いころ一家で王国へ移住してきたってわけさ。……住む場所も家も用意してくださってさ、国王様には頭が上がらないよ。その恩返しってわけじゃないけど、俺も少しでも国王様のお役に立ちたくて。だからこうして今日も真面目に門番のお仕事に勤しんでるってわけさ。……サボり魔のあいつと違ってな」
そう言って長髪の兵士はにやりと笑った。
『ううう』
「ちょ、アンジェ、どうしたの?」オリヴィエは小声で言う。
『いい話ですね……。少しでも彼のことを疑った自分が恥ずかしいです……』
「……アンジェって意外とちょろいよね。つくり話だったらどうするのさ。『真面目に門番の~』なんて言って、今日だって仕事をほっぽって僕たちについてきたばかりじゃない。そんな調子のいい人の言うことを簡単に信用するなんてアンジェってばお人好しだね」
「――そうそう! 街ゆく人がこぞって身に付けてる革靴や鞄だって、みんなウチの親父が作ったものなんだぜ?」
「え、そーなの!? すごいじゃん!」
「へっ、そうだろそうだろ?」鼻を高くして誇らしげに言う。「王国騎馬隊が使用してる鞍具だってウチの親父が作ったものなんだぜ?」
あんぐりと口を開けて聞いていたオリヴィエだったが、兵士が話し終えるとすぐに、
「へ、へー。そ、そーなんだー」としどろもどろに言った。
『オリヴィエ。あなた“鞍具”がどんなものかわかっているのです?』
アンジェはため息交じりに尋ねる。
「わかんにゃい……」
『……でしょうね。どうせそんなことだろうと思いました。しかし、この様子では彼も帝国の間者ではなさそうですね……』
「あっ! そうだった! 僕探さなきゃいけない人がいるんだった! 話を聞かせてくれてどうもありがとう! それじゃ!」
そう言ってオリヴィエは足早に立ち去った。
「……“探さなきゃいけない人”、ね……」
――『話を聞くかぎりでは怪しいところはありませんでしたね……』
「そーかな? 僕はやっぱり彼のつくり話である可能性を否定することはできないと思ったけど」
『虚構というのは、現実味を足せば足すほどより精巧にはなりますが、その分ボロも出やすくなるものです。仮に、“つくり話”だというのなら、かように具体性のある話などするでしょうか。それに、とてもではありませんがつくり話だとは思えませんでした』
「んーん。僕だって何も全部が全部彼のつくり話だと疑っているわけじゃないよ」
『どういうことです?』
「たとえばさ……んーと……彼のお父さんの話は本当だったとして、彼が“帝国出身”というのが嘘、とか?」
『そのような嘘を吐く理由などどこにも……いや、待ってくださいよ? もし、もしもですよ? 仮にそうであるとするなれば……彼はもう一人の兵士のことを庇っている……?』
「――それだ! きっとそうだよ! だってあの二人ものすごく仲がよさそうだったもん!」
『ともすれば急がなくては! 彼のことを私たちが探っていることが知れる前に!』
「そうだね! こうしちゃいられない、急がないと!」
オリヴィエは勢いよく駆け出した。
――『オリヴィエ、あなたときたま鋭いことを言いますね』
街中を駆けながらオリヴィエは答える。
「んーん。なんとなく思ったことを言ってみただけ。アンジェの話難しくて前半何言ってるかちんぷんかんぷんだったし」
『オリヴィエ……』
「てかさ! アンジェの力で諜報員が誰だかわかんないの?」
『……私の未来視もそこまで万能のものではないのです。ふと視えたものを伝えているだけで、自分の知りたいことをなんでもかんでも知れるというわけではないのですよ』
「なーんだ、使えないの」
『「使えない」ですって?』
「いやー……あはは。言葉の綾と言いますかなんと言いますか……」
『“使えない”、がですか?』
「――ごめんなさい!」
『はあ。そうやって素直なのはあなたのいいところでもあり、悪いところでもあります』
「はい……」
『なんでもかんでも思ったことを口に出さないように気をつけなさい』
「いこー気をつけます……」
『“以後”です』
「いご気をつけます」
『よろしい』
――「はあ……、はあ……」
オリヴィエは両膝に両手をつき、前屈みの体勢で息を切らしていた。それは、裏路地の一角、奥まった地でのことだった。
「い、いた! やっと見つけた!」
すぐそばにあった建物の壁面に片手をつきながら言うオリヴィエの前で、件の黒髪の門兵はオリヴィエに背を向け屈んでいた。
「ん?」そう言って屈んだまま男は振り返る。「なんだ、お前か。どうした? そんなに息を切らして。何か急ぎの用か?」
『特に変わった様子は見受けられませんね……。間に合ったのでしょうか、それとも――』
男はハッとして言う。
「もしかして……」
『オリヴィエ、十二分に気をつけてください。追い詰められた鼠は何をするかわかりませんから』
「うん」オリヴィエはこくりと頷く。
「――俺がまた仕事怠ってんのが王子にバレたか? あちゃー……さすがに二度目は許してはくれないだろうなあ……」そう言いながら、その場に立ち上がり後頭部をぽりぽりと搔く。「どうした? そんなに目を丸くして。その話で来たんじゃないのか?」
あっけに取られていたオリヴィエの顔を見てそう言った。
「え、あ、うん。別にシャルル王子はそのことについては何も言ってなかったよ」
「なんだ、そうなのか、紛らわしい。肝が冷えたぜ。ったく、ひやひやさせやがって」
「それよりも仕事サボってこんなところで何してたの?」
「ああ、それはだな……」言いかけて、怪しく手招きをする。「こっち来てみろ。いいもん見せてやるぞ」
そう囁くようにして言い、にたあと笑った。
〈……敵意のようなものは感じられませんが……ダメです、薄暗くて見えませんね〉
『オリヴィエ。ダメです。誘いに乗っては。何をされるか予測できません』
「んーん。大丈夫。声が聞こえる」
『声?』
「そー」
『私には何も聞こえませんが……』
〈幻術の類でしょうか? ですが、いままでそのような話は一度たりとも――〉
「甘えん坊でね。人懐っこいの」
男のもとへと歩み寄るオリヴィエ。男は変わらず気味の悪い笑みを浮かべていた。
『ダメです! オリヴィエ!』
――「みゃー」
「わーっ! かーわいー!!」
『へ……ね、猫……?』
男の足元にはダンボールに入れられた、掌に収まってしまいそうなほど小さな仔猫がいた。
「この子、どーしたの?」
「何日か前にここへ捨てられているのを偶然発見したんだ。それで、放っておくわけにもいかないし、仕事の合間を縫って餌をやりに来てたんだよ」
『「仕事の合間を縫って」というか完全にサボっていますけどね』
「そーだね」
〈しかし、“偶然”? こんな人気のない路地で? 妙ですね。この男はこんなところでいったい何をしていたのでしょう……。やはりこの男、怪しすぎます〉
「どーして連れて帰らなかったの?」
「ウチは一人暮らしだからな。こんな小さな赤ちゃん猫じゃ仕事の間にくたばっちまうだろ」
「ふーん。ならどーして人目につくところに移動させてあげなかったの?」
「ん、いや、なんでだろうな。言われるまで思いもしなかった」
『いいですよ、オリヴィエ! 珍しく冴えていますね!』
「ふっふっふっ。“珍しく”は余計だよ、ワトソンくん」オリヴィエは小声で得意げに言い、それから、
「僕にはすべてまるっとお見通しだよ! ズバリ! その猫はキルシュ帝国の開発した生体兵器なのだ!」と、どや顔で言ってみせた。
「は? 何言ってだお前」
「え、違うの?」
「んなわけねーだろ、アホか?」
「アホって言った!」
「第一、そうであったとして、こんなところでわざわざ幼体から育てるか?。最初から完成形を送り込んじまったほうが手っ取り早いじゃねえか」
「う~、でもでも! 仔猫の状態のほうが怪しまれにくいじゃない! それで、敵地に送り込んでから育てて内側から喰い破る! 的な?」
「あー……たしかにそれも一理あるな……」
「でしょでしょ?」オリヴィエは目を輝かせる。「そーだ! わかった! 仔猫型の生体爆弾なんだ! 愛くるしい見た目で油断させておいて、ドカン! なんでしょ?」
「アホか。そんな便利なもんあったら世の中もっと混沌としてるわ」
「う~……」
『オリヴィエ……』
「話はそれだけか? 探偵ごっこは終いにしてもう行くぞ」
男はそう言って立ち去ってしまおうとする。
『待ってください!』
「待って!」
「なんだ? さすがにそろそろ持ち場を離れすぎた。お子ちゃまといつまでも遊んでいるわけにもいかねえ」
『オリヴィエ、これから私の言うことを一言一句逃さず伝えるのです。いいですね?』
「うん!」こくりと頷く。
「『あなたに聞きたいことがあります。[“偶然”仔猫を見つけた]と、そう仰っていましたが、本当に偶然ですか?』」
「……。ああ、そうだ。こんなところに仔猫が捨てられているなんて誰も思わないだろう」
「『それもそうです。ではなぜあなたは“こんなところ”にいたのです? こんな人通りの少ない路地裏で、いったい何をしていたのです?』」
「それは……」
「『あなたの言動にはおかしいところがまだあります。あなた訓練場でオリヴィエとシャルル王子が話していた時、素性の知れぬオリヴィエに対してこう言いました。“自ら怪しいと名乗る間者などいない”と』」
「そんなこと言ったか? いや……たしかに言ったかもしれないが……それがなんだってんだ?」
「『なぜ真っ先に“間者”という言葉が出てきたのでしょう? 間者に限らずとも、王の寝首を搔こうとする者、王家に取り入ろうとする者、そんなものいくらでもいるはずです!』」
「それは……」と男は答えに詰まる。
「『なぜならそれは、あなた自身が間者であるからに他ならないのですよ!!』」
ビシィッと音が聞こえてきそうなほどキレのある動きでオリヴィエは男に鋭く指をさした。
「くっ……バレちゃ仕方ねえ。こうなったら……」
『オリヴィエ! 気をつけてください!』
「――と、言いたいところだが……降参だ」そう言って男は素直に両手を頭の上に上げた。「お前の実力は嫌というほど知っちまったからな。抵抗しても無駄なことくらい弁えているさ」
そう言って男は上げたままの両手をひらひらとさせてみせる。
『油断はしないでください。まだ口車に乗せようとしている可能性があります』
「……残念だよ。君とは仲よくなれそーだったのに」オリヴィエは心底残念そうに、そして、どこかかっこつけているように言った。
『どこかで聞いた台詞ですね』
男は言葉通り、オリヴィエが歩み寄っても抵抗するそぶりを見せなかった。
〈妙ですね……いくらオリヴィエの実力を目の当たりにしたとはいえ、こうも無抵抗に捕まるものでしょうか……〉
「お前ら、もう長髪のところへは行ったのか?」
「うん」
「そうか、それで俺が帝国出身だって思ったんだな」
アンジェは男の言葉にハッとする。
『オリヴィエ! 私たちは重大な思い違いをしていたかもしれません! 帝国の間者は“一人である”と』
「どーいうこと?」
『つまり始めから二人とも間者だったということですよ!』
「! それなら早く長髪を捕まえに行かないと!」
「へっ。いまさら気づいたところでもうあとの祭りだぜ。いまごろアイツは悠々と王国を抜け出していることだろうよ」
『くっ! それを見越して白々しい演技をしていたのですね! うまく乗せられ、私も思わず熱が入ってしまいました……なんたる不覚! まんまと時間稼ぎの策にハメられたというわけですか、してやられましたね……」
「えーっ! それじゃあどうするの?」
『ひとまずこの男が逃げられないよう拘束しましょう。ちょうどあつらえたかのようにそこに縄が落ちています』
「うん! わかった!」
オリヴィエはそう言って縄を拾い、男の両手を背中に回し、縛り始めた。
「いでででで! そんなに強く縛らなくたっていまさら逃げやしねえって!」
「えー、ごめん。そんなに強くしてるつもりはないんだけど……」
「馬鹿力にもほどがあるぞ!」
「もーっ! 縛りづらいからそこ座って!」
無抵抗の男を後ろ手に拘束しながらオリヴィエは問い掛ける。
「……結局おにーさんは王国出身だったんだよね?」
「ああ」
「ならどーして祖国を裏切ってまでこんな帝国の間者を?」
「……勘違いしてるみたいだから一つ教えてやるが、俺は帝国の間者なんかじゃないぜ?」
「? どーいうこと?」
「あの日偶然、ほんとに偶然目撃しちまったんだ。長髪と一人の衛兵が密談してるのを。門番の仕事を終えて、いつも通り仔猫に餌をやりに来た時のことだった。詳しい内容までは聞き取れなかったが……そこでアイツらが帝国の間者だってことを知っちまったのさ」
「そう、だったんだ。じゃあ、彼のことを庇って……」
「ああ。……そうだ! 長髪と話してた奴、なんて言ったっけかな……。そいつならまだこの国にいるんじゃねえか? 長髪と違ってどうやら使い捨ての駒みたいだったからな」
オリヴィエは最後の仕上げにぎゅっぎゅっとしっかりと縛りつけながら言った。
「どんな人?」
「茶髪で頬に傷のある男だよ。衛兵の中で顔に傷がある男は一人しかいねえから見ればすぐにわかると思う」
「『あの人だ!」ですね!』
「なんだ、知ってるのか? それなら話は早いな」
「ありがとう! それじゃ、僕たちはこれで!」
「あっ! おい! この状態でここに放置してくのかよ!! ……って、ほんとに行っちまいやがった……」
去っていくオリヴィエを、跪き手を拘束された状態で一人虚しく見送る男。
「……“バカなマネ”、か……」
男はそう俯き呟いた。〈すまねえ。たとえ祖国を裏切ることになったとしても、一人の友人を裏切ることはできなかった……〉
「ふっ」男は自嘲気味に小さく笑った。〈“友”、か……。あいつらが大急ぎで俺のところへやってきたってことは、俺は長髪に囮に使われたってことだ。しょせん、長髪にとっては俺も利用するための駒にすぎなかったってわけさ。そうと知りながら庇うなんて……ほんと、我ながらバカな男だぜ〉
いつしか男は空を仰ぎ見ていた。ただ黙ってじっと……。
――ジャリッ。男の背後で小石を踏む音がした。
「――誰だ?」と男が即座にその音に反応した直後、振り向く間もなく、男の喉元にひやりとした感触が走った。
「騒ぐな。大声を出したら殺すぞ」
「お前……どうして逃げなかった?」
「……貴様に、貴様だけにどうしても伝えなければならないことがある」
「……それはむざむざ自分の身を危険に晒すほどのことなのか?」
短剣を突きつけた長髪の男は、男を拘束している雁字搦めになったロープを解きながら言った。
「……明日……明朝、帝国がラフランス王国に攻め入る。私の企てた火計によって城下は一瞬にして炎に飲まれるだろう。街も人も、幼子も関係なく、すべて灰燼に帰す。そうなる前に、そうなる前に貴様だけでも逃げるんだ」
「ふっ。馬鹿だなー、お前。そんな大事なことを敵国の兵士に話す間抜けがどこにいるんだ?」
「ああ、そうだな」
「……俺が……もし俺がそのことを誰かに報せたらどうするつもりなんだ?」
「……もしそうなれば帝国の計画は失敗に終わり、私の首が飛ぶだろう。だが、貴様はそれはできない」
「なぜ?」
「貴様の行動に、貴様の家族の命も懸かっているからだ。もしこのことを誰かに報せてみろ。お前とお前の両親だけではない。一族郎党、そのすべてに至るまで皆殺しだ。貴様の行い一つで、貴様の家系は途絶えることとなる」
「ひゅ~♪」兵士は高らかに口笛を奏でる。「おっかないねえ。でも……本当にお前にそんなことができるのか?」
「ああ」
「そうか。……できるんだろうな。“俺の知らないお前”なら」
「ああ」
「……ウチの親父が王国見捨てて自分だけおめおめと逃げ出すと思うか? 王家御用達の革職人であることを何よりの誇りとして生きてる漢だぜ?」
長髪の男は何も答えない。
「逃げるわきゃねえよな。ウチの親父はそんなタマじゃねえ」
「ああ」
「そしたらお前、どの道火事でおっ死んじまうじゃねえか」
「……すまない。……だから、だから貴様だけでも――」
「すまねえ。これでも生まれも育ちもラフランス王国なんだ。愛する祖国を見捨てて一人だけ逃げるなんて無様な真似、俺にはできねえよ」
「馬鹿……」
「お前ほどじゃねえよ」と男は笑った。「だけどみすみす死ぬ気はねえぞ? 王国は滅びねえし、お前も死なねえ」
「どういうことだ?」
「――オリヴィエだよ。お前も見ただろ? あいつの強さを。オリヴィエの活躍で帝国の侵攻が失敗に終わればお前の責任にはならねえ。誰もお前を責める奴はいねえ。違うか?」
「だがいくらなんでも……」
「不思議とあいつならやってのけそうな気がしてるんだ。それくらいのことは」
「……ふっ。“それくらい”か。なぜだろうな、そんな気がしてしまうのは」
「おっ。やっと解けたか。サンキュー!」男は振り返って言った。「……もうそろそろ行ったほうがいいぞ。オリヴィエがまだお前が利用していた衛兵を探し回ってる」
「知っていたのか」
「いんや。話の内容までは聞こえなかったさ。聞こえてたら王国民として、友として、お前のこと止めてるわ!」男はそう笑って言う。
「ふっ。それもそうだな」と長髪の男は小さく微笑み、
「……じゃあな」と背を向けた。
「なあ!」去りゆく長髪の男に、男は後ろから声を掛けた。「俺たち……またいつか! 会えるよな?」
「……ああ」
長髪の男は立ち止まることもせず、振り返り様に横顔でこくりと頷き、後ろでに手を挙げた。
建物の隙間から裏路地へと射し込む一筋の夕陽が、立ち去っていく男の姿を映し出す。長髪の男の長く伸びた細い影は、黒髪の兵士の足元にまで伸びていた――