可愛い死神さん
「どうか、俺と、結婚して下さいっ、!! 」
ジャンは、深々と直角になるまで頭を下げる。同時に、求婚の証として、青い紫陽花の花束と、青い契約書を花冠の美女に差し出した。彼女は、驚いた様子もなく、優美な仕草で、青い契約書だけを抜き取った。
(何を持って来ても、無駄なのだけれどね……)
今まで、花冠の美女を口説いてきた男は、ジャンだけではない。彼女の無理難題に、数多の男達が奔走した。最高級の宝石やドレス、絢爛豪華な馬車などが、彼女の元に集められる。だが、彼女は、それらを当人達に押し返した。
『要らないわ、こんなもの』
彼女の無慈悲な言葉に、自尊心を傷つけられたと憤慨する男は出禁になった。また、心が折れた男は、今まで通り彼女を指名するだけだ。
(最高峰の契約書みたいだけど、内容は陳腐に決まってるわ。所詮、貴族だもの)
花冠の美女は、内心蔑みながらも、律義に青い契約書を眺めた。最初は、ただ字面をなぞっていただけだが、次第に眉をひそめる。
「……ねぇ、なにこれ? 」
花冠の美女は、珍しく怪訝な顔でジャンを見た。ジャンは、急いで顔を上げる。
「製法は分からないけど、水神王国神王陛下公認の契約書だよ。本物だよ」
「それは知ってるわ。内容よ、内容。あなた、正気? 」
青い契約書には、以下のことが記載されていた。
・夫は、側妻に、毎月、金貨五枚の小遣いを支給する。
・離婚の申し立ては、側妻だけが可能。
ただし、夫による無視、暴言、暴力行為、側妻の小遣い未払い、が無ければ申し立ては棄却する。
・夫と側妻、双方の合意無しの性行為は行わない。
・側妻が妊娠、出産した場合、親権は側妻が有する。
ただし、子どもの養育費は、夫が支払う。
・側妻の生活の本拠地は、夫と同じとする。
ただし、夫が王立学院在学中は、側妻はブルーム大公家を生活の本拠地とする。
・夫が公式行事に参加する際、正妻が不在の場合、夫の付き添いは側妻が行う。
・側妻が怪我や病気になった場合、夫は側妻に必ず治療を受けさせ、その治療代を負担する。夫が、側妻を治療することも可。
・夫は、側妻に対する、暴言、暴力行為を一切禁じる。
ただし、夫の片翼たるハサの暴言は免除。
・側妻は、年一回、夫と逢引きする。
・夫が大公家に在宅中に限り、朝食は共に。
・夫の正妻は、この契約を破棄出来ない。また、正妻が夫や第三者に命じて破棄させることも禁じる。
・側妻が夫を、直接的、間接的に殺害しようとした場合、契約は無効。
・夫が契約違反した場合、夫は、側妻に、賠償金を支払う。ただし、側妻が契約違反した場合は、賠償金の支払い義務はない。
以上の契約は、夫と側妻の名前を記載することで成立する。
花冠の美女は、信じられないような生き物を見る目で、ジャンに青い契約書を突き付けた。
「何なのよ、これ」
「あ、ごめん。小遣いの金額足りなかった?
俺が就職したら、増額しても良いよ」
「違うわよ。こんな夫に不利な契約書、あなたに何の得があるの? 」
「え? 君と結婚出来る」
ジャンは迷いなく答えた。花冠の美女は、言葉に窮する。そもそも、彼女を身請けする為に、ジャンが知恵を絞って生み出した契約内容だ。そこに噓偽りはない。花冠の美女は、口元を押さえた。
(一体、何を考えているの? 本当に、あたしと結婚したいだけ? )
彼女は、ジャンに対して不信感を抱いた。彼女から見て、まだ若い、純粋さを感じる少年。だが、彼女は、彼がブルーム大公家の当主であり、死神王弟という異名を持つことを知っている。
(……この子、あたしを、殺したいの? )
自問自答に、花冠の美女は、小さく吹き出した。
「っふ、くくっ……あははははは!! 」
突然、高笑いを始めた彼女に、ジャンは驚いて仰け反った。
「な、なに? 大丈夫? 」
ジャンは、心配そうに彼女を見つめる。花冠の美女は、笑いを引っ込めると、ゆらりとジャンを見下ろした。
「あたしね、そろそろ、死のうかなって思ってたの」
「え? 」
思いがけない告白に、ジャンは言葉を失った。花冠の美女は、嘲笑うかのように口角を歪める。
「だって、どこかに身請けされたとしても、一生飼い殺しよ?
所詮、娼婦だもの。お嬢様のようには扱われない。
それなら、いっそのこと、最も美しいうちに消えたかった。
あたし、ずっと、待ってたのよ。あたしを殺してくれる死神が来てくれるのを」
花冠の美女は、艶やかに微笑んだ。
「ねぇ、可愛い死神さん。あたしを、殺してくれる? 」
熱の籠った眼差しに、ジャンは息を呑む。死神と呼ばれたことに、ジャンは不快感を覚えなかった。ただ、困惑する。
(殺すって……)
ジャンは、周囲に視線を彷徨わせて、扉に背中を預けるハサと目があった。ハサは、無言で、懐から細身の短剣を取り出す。第一王子の慰謝料で、ジャンがハサに買ってあげた短剣だ。
「ん」
ハサは、鞘に収まった短剣をジャンに差し出した。ジャンは躊躇する。だが、ジャンは深呼吸をすると、青い花束を卓上に置いた。そして、静かに短剣を受け取る。鈍色の刃に、青い瞳が反射した。
「……うん、殺す」
ジャンは、凛とした面持ちで、花冠の美女と向き合った。そして、ジャンは彼女の美髪を、優しく手に取る。ぱさり、と、波打つ茶色い糸が、床に落ちた。
「髪は、女性の命だよね」
ジャンは、深く息を吐いた。左側だけ不格好に短くなった髪に、花冠の美女は意地悪そうに微笑んだ。
「ね、あたし、誰かに似てる? 」
蠱惑的な囁きを聞いて、ジャンは、卓上に短剣を突き立てた。その行為は、水神王国における騎士の誓いである。如何なる者であっても、誓った以上、不義は許されない。
「君を誰かに重ね合わせて申し訳ないと思っている。
でも、君を誰かの代わりにしないと、俺は、俺自身に誓うよ」
ジャンは真摯な眼差しで彼女を射抜いた。彼女は、くすくすと、小馬鹿にするように笑った。
「……それ、契約書に記載してないわよね? 」
「あ、」
せっかく格好良く決めたのに、ジャンは間抜け面を晒した。花冠の美女は、心底楽しそうに笑った。
「ふふっ、良いわ。何でも縛り付けるよりも、ある程度、自由は必要だもの。
喜びなさい、坊や。全身全霊を持って、あたしに惚れさせてあげるわ」
「惚れました」
「まだ何もしてないわよ」
花冠の美女は、呆れたようにジャンを見る。徐に、彼女は、ジャンの頬に白魚のような手を添えた。そして、ジャンの頬に、柔らかい唇を落とす。彼女は、色香を纏わせて微笑んだ。
「あたしの部屋と、あなたの部屋、どっちで卒業したい? 」
「えっ」
「早く、決めて? 」
「お、俺の部屋で!! 」
食い気味にジャンは叫ぶ。花冠の美女は、満足げに頷いた。そして、軽やかに、ジャンから離れる。彼女は、卓上に置かれた花束を持ち上げた。
「それじゃあ、契約しましょ? 」
青い花束を抱えた彼女の言葉に、ジャンは満面の笑みを浮かべた。
「喜んでっ! あ、花冠のお姉さん、名前何て言うの? 」
「あぁ、さっき、捨てたわ」
「……捨てたの? 」
ジャンの困惑に、花冠の美女は、不格好になった短い髪を揺らした。
「あたし、新しい名前が欲しいわ。考えてくれる? 」
「仰せのままに」
ジャンは恭しく頭を垂れた。その光景に、ハサは嘆息し、素早く短剣を回収した。