妹に似ている弟
「……陛下だ! 」
「は? 」
急に叫んだジャンに、ハサは怪訝な顔をした。そんなハサを置き去りに、ジャンは大量の紙を取り出した。羽ペンを勢いよく走らせて、何度も何度も書き直す。そして、慌ただしく戸棚から分厚い本を複数取り出しては、何かを紙に書き写した。
(……こりゃ、時間かかんな)
ジャンの様子に、ハサは何も言わずに、ふらりと退出した。しばらくして、軽食と飲み物を両手に、ハサは戻ってくる。ハサは、定期的にジャンの口に飲食を突っ込みつつ、二つ分の外出準備を整えていた。
同日の夕方、水神王国神王リオクスティードは、相変わらず書類の山と格闘していた。眠気覚ましの為に、何度も紅茶を飲み干した故に、彼の胃は限界を訴えている。だが、彼は紅茶と書類に手を伸ばし続けた。そんな彼の元に従者が来る。
「陛下。ブルーム大公が面会を希望しております」
「いつ」
「今です。お待ちになってます」
リオクスティードは、思わず眉間の皺を揉んだ。現在、新年に向けて、大仕事の真っ最中である。しかし、兄として、年の離れた弟の来訪は無下に出来なかった。
「……余は休息を取る。弟を通せ」
「御意」
彼の弟は、すぐに執務室に通された。リオクスティードが、ジャンと会うのは、第一王子の一件以来である。リオクスティードは、春に比べて、弟の身長が伸びたようにも見えた。
(ルーラの身長ぐらいか? ……ルーラか)
リオクスティードは目を細めた。弟の成長に感動しつつも、妹のような問題児になってほしくないという感情が、リオクスティードの中で生まれる。それでも、常日頃、政治で煩わされる日々に比べたら、平穏であった。リオクスティードは、温かな眼差しを弟に送る。
「ジャ……」
「兄上! お願い聞いて! 聞いてくれないと自害する! 」
開口一番、挨拶も無しに叫ばれた言葉に、リオクスティードは開いた口が塞がらない。一方のジャンは、目的の為ならばと、全力で弟面を強調した。
(陛下は家族には甘々のはず。ほら、こんなに可愛い弟だぞ! )
徹夜のジャンは、媚びを売るような眼差しで兄を見つめる。その様子に、後方に控えていたハサは何とも言い難い顔をしていた。
(疲れてんなぁ、こいつ……)
最下層の闇医者時代から、ジャンは過労な時ほど、ハイテンションになる。そのことを知ってるハサは、小さく溜息をついた。そして、現状を受け止めたリオクスティードは、困惑しながら弟を見つめた。
「……お前は、ルージュか」
「……どなたですか? 」
「余の妹で、ルーラの姉だ。今は、火神王国の王妃だ」
リオクスティードの脳裏に、甲高い声で叫ぶ妹の姿が過る。
(正直、あれの嫁ぎ先が最も難航していたな。
こちらが少し相手をしなかっただけで、迷わず自傷行為に走る奴だ。
今となっては、火神王国の神王に拉致されて良かったというべきか)
「兄上? 」
ジャンの声に、リオクスティードは咳払いした。彼は、気を取り直して、凛とした表情で弟を見る。
「……して、余に願いとは? 」
「青い紙の契約書を作って下さい! 」
「何のために? 」
「妻にする為に! 」
「誰を」
「花冠のお姉さん! 」
リオクスティードは溜息を我慢した。彼は、眉間に深く刻まれた皺を揉む。重要な案件だと心してかかれば、女性関連の件を持ち込まれたのだ。
(重い話よりは幾分マシなのだが……)
リオクスティードは、ちらりと、ジャンの後ろに控えるハサを一瞥する。ハサは、興味なさげに付き添っていた。そして、ハサはリオクスティードと視線を合わせることはない。決して無礼ではないが、今のリオクスティードには、ジャンの解説書が欲しかった。彼は、疲れたように弟を見る。
「……明日は? 」
「今がいい! すぐが良い! じゃないと、誰かに身請けされちゃう! やだ! 」
今の今まで、ジャンの礼儀正しい態度を見てきたリオクスティードは苦笑する。だが、内容は兎も角、子どもらしい態度を露わにするジャンに、リオクスティードは悪い気はしなかった。とはいえ、弟に仕事を増やされることに変わりはない。
「……お前は、兄の苦労を考えたことはあるか」
「わかりません。私は弟なので」
「……お前はルーラか」
ジャンの後見が、問題児の妹であることは事実。リオクスティードは、何とも言えない気持ちになった。そんな彼を気に留めることなく、ジャンは、リオクスティードの前に紙束を置いた。
「契約書の代金は、後日お支払いするので、作って下さい。青玉貨以上するなら、分割支払いでお願いします。それと、これが契約書に記載して欲しい内容です」
紙束を受け取る際、リオクスティードはジャンの目元が浅黒いことに気が付いた。そして、ジャンの手は、所々、墨で汚れている。彼が、どれだけの熱量で持ってきたのか、リオクスティードは瞬時に理解した。彼は溜息混じりに、長椅子を指差す。
「……分かった。とりあえず、そこに座って待っていろ。契約書は作ってやるし、代金は受け取らん」
「何で? じゃあ、対価はどうするんですか? 」
「弟特典で無料だと思え」
「やった、ありがとう、兄上」
弟の無邪気な反応に、リオクスティードは目頭を押さえた。彼の同腹の妹達には、ありえない純真さだ、と彼は感じる。
「……お前は、シーザかもしれんな」
「誰ですか? 姉ですか? 」
リオクスティードの零した呟きに、ジャンが反応する。その一瞬だけ、リオクスティードの表情が強張った。彼は、何事もなかったかのように淡々と述べる。
「……余は、とても、疲れている。
故に、契約書作りに専念する。良いな? 」
「頑張って下さい、兄上!! 」
不審に思いつつも、ジャンは目的が達成されれば良いと思って、追及はしなかった。ジャンは、完成した青い誓約書を、ほくほく顔で受け取る。
「ありがとうございました、兄上! では、失礼します! 」
「あぁ……」
疲れ果てた兄に御礼を言うと、ジャンは颯爽と執務室を後にした。ハサは、リオクスティードに無言で会釈して、ジャンの後を追う。その対照的な両者に対して、リオクスティードは深い溜息をついた。
お忍びの馬車に乗り込む前に、ジャンは馬丁に話しかけた。
「ねぇ、馬丁」
「はい」
「シーザって、誰か分かる? 」
それまで無関心を貫いてきた馬丁が眉をひそめる。
「閣下。どちらで見聞きしたのか存じませんが、忌み子の存在なぞ、忘れた方がよろしいかと」
「……そう? 忠告どうも」
「いえ」
ジャンとハサが乗った馬車は、王宮から、そのまま花街に向かった。昨夜の高級娼館で打ちのめされたらしいデボンを置いてきた為、馬車内は静かである。ふと、ハサが口を開いた。
「忌み子って? 」
渡す物の最終確認をしていたジャンは、ハサの声に顔を上げた。
「ん? あぁ、忌み子っていうのはね、神の証を持たずに産まれた王族に対する蔑称だよ」
「……血が、普通に赤いってことか? 」
「そうだね」
「……忌み子って、禁句か? 」
「多分ね。忌み子と判明した時点で、王族の席を廃されるらしいから。
えっと、俺の姉妹の、第七王女と第八王女が忌み子だったかな」
ジャンは、貴族に復帰して以降、新聞を隈なく見ていた。過去の記事も、執事が書庫室に保管していたので、読み込んでいる。その過程で、ジャンは忌み子の存在を知った。高貴な身分が、急転直下で平民に落ちるのだ。彼女達の将来を配慮したのか、彼女達の名前は新聞に載っていなかった。だから、ジャンは、シーザという女性が、どちらの王女なのか分からない。ジャンの言葉に、ハサは顔を顰める。
「……お前のすぐ上の姉妹じゃねぇか」
「あはは。俺は、よく、神の証を持って産まれたよね。
それだけは、実母の悪運に感謝かな」
作った笑顔を浮かべたジャンは、興味を失ったかのように手元に視線を下げた。ハサも、これ以上尋ねる気はないようで、口を閉ざす。目的地に辿り着くまで、花街の喧騒だけが響いていた。