一輪の花
花冠の美女は、一時間経ったのを確認して腰を上げた。
「はい、おしまい。次は、いつ来たい? 」
「……明日は? 」
「明日? ふふっ。良いわよ、前払いしてもらったし」
彼女は上機嫌で、青玉貨を見せつけた。たった十日分の硬貨。ジャンは思わず尋ねてしまった。
「……花冠のお姉さんは、身請け金は、いくらなの? 」
花冠の美女は、ぴたりと動きを止めた。無感情にジャンを見つめると、静かに口角を上げた。
「永遠の花畑から、一輪摘んできて」
永遠の花畑は、水神王国で死を暗示する言い回し。ジャンは首を傾げた。
「……死ねって言ってる? 」
ジャンの純粋な疑問を、花冠の美女は小馬鹿にするように微笑んだ。
「出来ないなら良いわ。また明日ね、坊や」
花冠の美女が、あっさりと手を振る。ジャンは名残惜しく感じながらも、扉に手をかけた。同時に、扉の向こうから、大きな音がした。少女の大声に、ジャンは、一度、花冠の美女を振り返る。彼女は、不思議そうな顔をしていた。
「何かしら? 」
彼女は、ジャンの肩越しに扉を開けた。
(近っ、たわ、たわわな果実が……っ)
間近に感じる女性特有の柔らかさに、ジャンは頬を赤く染める。慌てて邪念を振り払ったジャンは、花冠の美女と共に扉の外を覗いた。
「あら? 」
「……ハサ? 」
予想通り、ハサの姿はあった。だが、部屋の前は荷物で散乱しており、焦げ茶色の髪をした純朴な少女が土下座していた。少女は、必死にハサに謝罪している。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「……」
年下の少女が、土下座までしているのに、ハサは終始無言だった。そして、何故か鼻を片手で覆ったまま顔を伏せていた。ジャンは怪訝そうな顔で、ハサに呼びかける。
「ハサ? 何があったの? 」
「……」
微動だにしないハサ。不意に、花冠の美女が、ハサの袖が血で汚れていることに気が付いた。
「……ねぇ、それって、血? 」
「え? 」
彼女の言葉に、ジャンはハサを凝視する。そして、ハサの血に気が付くと、ジャンは顔面蒼白になった。
「は、ハサ。治療……治療、っ」
「……っるせぇ」
ようやく口をきいたハサ。ジャンは、不機嫌な声に安堵した。その間に、花冠の美女は、少女に話しかけた。
「何があったの? ぶつかった? 」
「いえっ、分からないです。わた、私が転んだら、鼻から血、流れて……」
「鼻血……」
花冠の美女は、眉をひそめる。直後、何かに思い当たったのか、ハサに向けて意地悪な笑みを浮かべた。
「あなた、この子の下着、見ちゃったんでしょう? 」
「はぁ!? ちげぇわ! 」
「……見たんだ」
「ちげぇ! 」
長年、ハサと過ごしてきたジャンは、ハサの真偽が分かる。要するに、荷物を運んできた少女が転倒し、その拍子に、スカートが捲れた。そこで露わになるのは、乙女の聖域だ。事情を理解出来たジャンは笑うしかない。
「あははははは! ハサも、男の子だったね!! 」
「ジャン」
「ごめんて」
低い声で凄まれて、ジャンは白旗を上げた。
「よし、この子、身請けしよう」
「あら? すぐ、他の子に目移りしちゃうの? 」
からかうような声音に、ジャンは慌てて首を横に振った。
「違うよ。ハサの為に買ってあげるの。今まで、全然、女性に関心を示さないからさ」
「あらあら。可哀想に」
「何で、てめぇに、憐れまれなきゃなんねぇんだよ」
ジャンは、再び、花冠の美女に見送られる。ジャンとハサが少女を伴って、待合室に戻ると、暗い表情のデボンが待っていた。
「……あれ、好みの娼婦と、お話したんじゃないの? 」
「いや、あの、色々ありまして……」
デボンの古傷は深いらしい。ジャンは追及することなく、受付の男に、デボンの分の料金を別途で支払う。そして、先程の少女を見せる。
「ねぇねぇ、この子、身請け金、いくら? 」
「銀貨一枚ですよ」
「……安っ」
「ありがとうございます」
一般的な娼婦の初回料金と同額を支払い、ジャンは少女の身請けを証明する書類を手渡された。そのついでに、ジャンは受付の男に小声で話しかける。
「百花ノ君って、身請け金、いくらになるの? 」
予想済みだったのか、受付の男は驚くことなく小声で告げた。
「……青玉貨十枚は、くだらないかと。しかし、彼女は、身請けに条件を付けているんです」
それは、花冠の美女が発した不可解な言葉。ジャンは苦笑する。
「彼女から直接聞いたよ」
「そうですか、頑張って下さい」
「応援ありがとう」
受付の男の心が籠っていない声援を、ジャンは軽く受け流した。
帰りの馬車に揺られながら、ジャンはデボンに疑問をぶつける。
「永遠の花畑から一輪摘んできて、って、どういう意味? 」
「え? 死ねって言ってますか? 」
率直な意見に、ジャンは失笑する。
「同じ感想が聞けて嬉しいよ、デボン君」
「聞く相手がわりぃ」
「な、なんだと!? 」
「まぁまぁ」
ジャンに宥められ、デボンは露骨にハサから視線を逸らした。
「ところで、そちらの少女は? 」
デボンの視線が、高級娼館から身請けした純朴な少女に向けられた。男性陣に囲まれた少女は不安そうな顔をする。ジャンは、努めて優しい笑顔を作った。
「まだ名前聞いてないや。君の名前は? 」
「あ、えっと、七番です」
消え入りそうな声に、ジャンは首を傾げた。
「ん? 番号? 名前は無いの? 」
「まだ、娼婦じゃないので、無いです」
「……君、いくつ? 」
「七歳です、っ」
七歳の少女は、緊張した面持ちで叫んだ。ジャンは、最下層の経験から、子どもに名前が無いことは慣れている。しかし、少女に名前がないのは、ジャンが困った。
(うちの使用人達って、生まれながら、名前がないって概念無いだろうね)
ベリーを除いて、大公家に仕える使用人達は、良家で生まれ育った者達である。その証拠に、彼らは、大なり小なり魔法を使える。同じく良家で生まれ育ったデボンも、無名の人間に困惑していた。
(番号で呼ばれているとは、何事だ。これが、娼館では普通のことなのか? )
(……デボン君も、受け止めきれないっぽいし)
デボンの様子に、ジャンは溜息をついた。使用人達の混乱を招かない為にも、少女に名前は必要である。ジャンは思考を巡らす。
「うん。君の事は、今から、グリィアと呼ぼう」
能天気な声に、ハサは眉をひそめた。
「おい、何の本だ」
「大丈夫。健全な恋愛小説だよ。七名の男と、ド修羅場」
「それの、どこが健全なんですか」
デボンは、げんなりとした表情を浮かべる。ジャンは笑顔で無言を貫いた。その間に、新しく命名された少女が、細々と呟いた。
「グ、リィ、ア」
嬉しそうに微笑む彼女に、ハサは怪訝な顔をする。
「……気に入ったんか? 」
「は、はいっ。名前、初めて貰いました」
「……あっそ」
ハサは憮然とした態度で言い放つと、改めてジャンを見た。
「んで、衝動買いしたこれ、どうすんだ」
「メイド見習いかな。ベリーの後輩が増えるよ。あと、ハサの愛……」
瞬間、ハサはジャンの顔面を掴む。
「あ? 」
「ごめんて」
ハサの低い声音に、ジャンは迷わず白旗を上げた。何となく話の流れを察したグリィアが、一生懸命声を張り上げる。
「が、がんばりますっ……! 」
「頑張るんじゃねぇ」
「ひっ……」
ハサに睨みつけられたグリィアは、可哀想な程に怯えた。ジャンは苦笑する。
「ごめんね、グリィア。冗談だからさ。使用人としてだけ、頑張って」
「は、はい」