雪風
冬の終月。
王都生活が始まって数か月。ジャンとハサは、入学準備に必要な、各々の課題に取り組んでいた。まず、ジャンは勉学は問題なかった。細々とした常識の摺合せで事足りる。必要なのは、体力面の強化だった。ひたすら、大公家の敷地内を、走って走って走らされる。
「……動けない」
「動け、弟。黒猫の十分の一も走ってないぞ」
「うぅぅぅ~! 」
容赦ない監督の姉に、ジャンは半泣きになりながら毎日持久走を欠かさなかった。対するハサは、完全に知識不足であった。基礎体力を向上させる特訓の合間を縫って、机に噛り付いていた。
「……なっんで、こんな覚えることあんだよ」
「水神王国五千年分の歴史ですから」
「なげぇ」
「頑張りましょう」
笑顔で参考資料を持ってくる執事に、ハサは嫌気が差す。
「……こういうの、悪魔って言うんだろ」
「おや? 早速、勉強が役に立ちましたな。その調子です」
(むかつくっ!! )
今日も今日とて、子ども達は一生懸命課題に取り組んでいた。真っ暗な外では真っ白な雪が降り積もっている。そんな寒さの中、ハサは久々に機嫌が良かった。
(そろそろ、あの本、読めるんじゃね? )
ジャンから貰った、ハサの大事な本。ここの所、ずっと難しい単語と向き合ってきたハサだ。あの分厚い本も読めるのではないかと、ハサは思った。ワクワクしながら本棚から、目当ての本を取り出す。ハサは、表紙を優しく撫でた。
「『ハサ戦記』、か」
ハサは、題名が読めたことに誇らしげな顔をする。そして、意気揚々に表紙を捲ると、すぐに挫折した。
「……文字が、なげぇ」
別分野の専門用語を覚えて得意げになっていた気分を、ハサは味わった。ハサは書庫室の辞書を引いてみるが、どうにも言葉を呑み込めない。
(読めるのに読めねぇ……なんか、むかつく)
ここまで読む気になっていたのだ。早々に諦めがつかないハサは、書庫室を出て人影を探した。すると、丁度、セツナが通りかかった。
「セツナ殿」
最近自然になってきた呼び方に、セツナは足を止める。
「こんばんわ、ハサ殿。如何されましたか」
「この本、教えてくれ……です」
ただし、敬語は上手ではない。セツナは気分を害することなく、淡々と言葉の使い方を教示する。
「教えて下さい。復唱どうぞ」
「教えて、下さい」
「お上手です。……そちらは、何の本ですか? 」
「ジャンがくれた本」
「頂いた本です。復唱どうぞ」
「頂いた、本、です」
「お上手です。では、拝見いたします」
セツナは、ハサから手渡された本を捲る。そして、一度表紙を確認して、再度中身を改める。セツナは、丁寧に本を閉じた。
「なるほど、そういう性癖ですか」
「……は? 」
ハサは、荒々しく執務室の扉を開けた。そこでは、ジャンが新聞と睨めっこしている。ジャンが顔を上げると同時に、ハサが彼の胸倉を掴んだ。
「ジャン! てめぇ、なんつー本の主人公にしてくれやがった! 」
ジャンは一瞬、きょとんとした。だが、ハサの持つ本と、彼の言葉を反芻して、からからと笑う。
「あー、ごめんごめん。俺も、娼婦のお姉さんと接するうちに、
『あ、アレ、官能小説だったや』って気づいたんだよね」
悪びれのない態度に、ハサは目を吊り上げた。
「気づいた時点で言えや! 」
「でも、変な名前じゃないし、良いじゃん」
「良かねぇわ! 本の中身、難しかったから、セツナ殿に聞いたんだよ! 俺は! 」
遅れて、執務室に現れたセツナは、平然と騎士の礼を取った。
「好みは千差万別です。恥じ入ることはありません」
「なんっで、俺の性癖みてぇな話になってんだよ! 元々、こいつの本だわ! 」
「え? ハサ、読まないの? 」
「っるせぇ! 読むわ! 」
激昂しながらも、ハサは本を大切に抱えている。そのことに、ジャンは温かい気持ちになった。一方のセツナは、無表情のまま頭を垂れる。
「殿方は、そういう本を回し読みすると理解しております。どうぞ、お気になさらず」
「知るか! どこのどいつが言ってやがった、そんなこと!! 」
「まぁまぁ。セツナは君を慰めているんだよ」
「余計に腹立つんだよ! アホ! 蔑むなら蔑みやがれ!
んな、理解してるって目で、俺を見下ろすんじゃねぇ!! 」
久々にジャン以外に怒鳴り散らすハサを見て、ジャンは苦笑する。ジャンは、この半年でハサの目線を少し越していた。対する、ハサは少しも変わらない。
(じいやは、赤子の頃の栄養状態が、身長に関係してるかもって言ってたなぁ。
ボスのいなかった環境で、ハサが十分な母乳を確保出来たとは思えないし。
逆に、俺は、栄養満点だったわけで……)
ジャンは、心の中で、密かにハサに同情した。頭一つ分下のハサに凄まれても、セツナは動じない。そして、明後日の方向に話がズレ始めた。
「己の性癖を暴露されて恥ずかしいのですね。
では、私も同様の暴露話をいたしましょう。
頭を体から切断する瞬間が好ましいです」
空気が凍り付く。子ども達は揃って戦慄した。
「「……マジ? 」」
「冗談です」
セツナは真顔で言い放つ。ハサは顔を引きつらせた。
「……笑えねぇよ」
「残念です」
「セツナは、ちょっと、天然だよね」
ジャンの困ったような笑みに、セツナは首を傾げる。
(思索)
少しの間、思考を張り巡らす。ジャンの言葉の意味を細かく分解しても、セツナには理解できなかった。故に、彼女はジャンの言葉を否定する。
「いいえ。私は、人間の父母から生まれた存在ですので、人工物かと。
証明の為、一度実家に帰宅しても宜しいですか? 家系図を持参します」
「何言ってんだ、この女」
斜め上の思考に、ハサは怪訝な顔をする。ジャンは苦笑するしかなかった。
「こんな大雪の中、帰らなくていいよ。っていうか、君が、ツェヘナ家の令嬢だってことは、みんな知ってるよ」
「そうですか。では、……っ、! 」
ジャンの背後を見た瞬間、セツナは剣を抜いた。
「ハサ殿っ! 」
彼女の呼びかけに、ハサがジャンを素早く手元に引き寄せる。ジャンの真後ろで、黒い影が揺れた。
「な、なに!? 」
「っるせぇ」
ジャンは後ろを見る間もなく、ハサに抱えられて執務室を飛び出した。それと同時に、執務室の窓硝子が割れる音がする。凍てついた風に、ハサは舌打ちした。
(なんか、やべぇのがいた気がする!!
あぁ、くそっ、ジャンの姉ちゃん、今どこにいやがる!! )
異常事態なのは間違いない。ハサは、執務室から遠ざかることを最優先とした。無人の廊下を駆け抜け、二階の踊り場から、一気に下に飛び降りる。
刹那、ジャンとハサの眼前に、真っ黒な外套を着た者がいた。
「っ、」
ハサは息を呑む。気配も何も感じなかったのだ。真っ黒な者は、静かに手を伸ばす。
だが、それはジャンとハサに届かなかった。真っ黒な者は、鳩尾を叩きつけられて、丁度、背後にあった玄関の扉ごと、外に吹っ飛んだ。両名の前に、淑やかな寝巻姿のルーラが、剣を片手に立っていた。
「客は、玄関から入れ」
ジャンとハサは、ルーラの登場に歓喜する。
「あ、姉上! 」
「ジャンの姉ちゃん! 」
「さっさと寝ろ、幼子ども。今、何時だと思っている」
「あっ、ハイ」
不機嫌なルーラが外に出るのを見届けて、子ども達は顔を見合わせた。
「……どうするよ? 」
「とりあえず、姉上が怖いから、寝る」
「……おう」