記憶は自覚するもの
あの娘に興味を抱いたのはいつだっただろうか。
あの娘がそうだと気付いたのはいつだっただろうか。
眼鏡を外し、背もたれに体を預けると、チェルカはゆっくりと息を吐いた。その手にはいつ綴られたのかも分からない古びた日記がある。
古い日記帳は途中までしか使われておらず、一番最後に書かれた日付は何百年も前のものだった。
そう、これは遠い遠い昔にチェルカ自身が書いていた日記帳である。ふと思い出して、荷物の奥深くに眠っていた日記帳を引っ張り出してきたチェルカは、先程までぱらりぱらりとそれを眺めていたのだ。
「こんなことも、あったんだな……」
ぽつりと言葉が漏れる。
日記帳に書かれているもののほとんどはチェルカの記憶からは消えてしまっているほどに古く、懐かしいという感覚すら浮かばない。まるで別人の日記みたいだ。チェルカは自虐的に笑った。
身体を起こし椅子から離れると、チェルカは正面にあった壁の側に寄り、背を預けた。この薄い壁を隔てた向こう側には【彼女】がいる。特段物音などは聞こえないから、【彼女】はきっと静かに眠っていることだろう。
チェルカはそのことに安堵しながらも、治まることのない胸に灯った熱に戸惑いを隠せないでいた。
「……これは、一体どういう意味なんだろうねぇ……」
ぽつりと呟いてみるが答えは返ってこないし、答えは出ない。否、答えなんてとっくに気付いてはいるのだ。ただ、どうしようもなく認められないだけ。
再び古い日記帳に目を落とす。そこには確かに、幼き日の【彼女】を見かけた時のことが書かれていた。名前も同じ。特徴的な髪色も同じ。【彼女】がチェルカの知る夫婦の娘であることは間違えようがなかった。
チェルカが【彼女】を通して遠い遠い過去に縋っているのもまた事実だった。何百年と過ごし、顔見知りを一通り見送って、もう知り合いを作ることすら億劫になった頃に現れた過去の幻影。終わりの見えない人生を送るチェルカにとって、【彼女】の存在はある種の救いでもあった。
だが、肝心の【彼女】は遠い過去の記憶を喪っていた。その記憶が戻ることは二度とない。故に、【彼女】と思い出話に花を咲かせることも出来ない。
その時点で過去に縋りたいというチェルカのささやかな願いは打ち砕かれているのだが、それでも【彼女】の側にありたいという気持ちに変わりはなかった。そう思えるのは、【彼女】に知り合いの面影を見ることが出来るからだろうか。
否、そうではない。
そんなことではない。
正直なところ、チェルカにとってその夫婦にはそれほどの思い入れはないのだ。彼らよりもよっぽど『近所の性悪お兄さん』に対する想いの方が強い。
なんて無意味な自問自答を繰り返しては、少しずつ追い詰められるようにチェルカは自分の感情と向き合っていくのだった。
【彼女】は自身の不老不死の呪いを解く為に旅を続けている。チェルカはその旅にただ便乗しただけだ。だから、この旅はいつの日か終わりが来る。そんなこと最初からわかっていた。分かっているのに、いつか来る『終わり』を考えるだけでどうしようもなく胸が痛んだ。
分かっている。【彼女】は『今のまま』を望んでいない。
「──それでも俺は……君に、生きていて欲しいんだ」
壁の向こう側にいる【彼女】へ囁くようにチェルカは言う。エゴだと分かっていても、言わずにはいられなかった。
こんなことなら出逢わなければ良かった。
知らないままでいられたら、こんな痛みを味わうこともなかったのに。
そんな想いが溢れてやまない。
自分が不老不死になってしまったと気付いた時から、とっくに覚悟していたのに。【彼女】をいつか喪うと考えただけでこんなにも怖い。
これまでのチェルカは、恋愛感情というものが全く理解できないでいた。愛する女性の為に事件を起こした男を見ても、はた迷惑な奴だという冷めた感情しか出てこなかった。結婚という儀式を行い周囲から祝福されている様を見たときも同じだった。
だというのに今ではこの様だ。
何百年か前の自分に見せてやりたいぐらいだった。『将来、お前はこんな情けない姿になるんだぞ』と。果たしてそれが過去の自分に対する警告なのか、それとも別の何かなのかは分からないが。
「……はは、やってられないな」
自嘲気味に笑うと、チェルカは壁から離れ戸棚に向かった。そこからグラスと、いつの日か買った酒を出す。
窓の外は白んできているが、構いもせずグラスに酒をなみなみと注ぐと一気に呷った。巻き戻り続けるチェルカの身体では酔いが回ることもない。その体質を恨めしく思いながら、チェルカは二杯目を注いだ。
この想いを伝えることはできない。【彼女】の重荷になるようなことは一切したくない。
それならば、苦しみ続けるしかないのだ。
願わくば、この旅が少しでも長く続くことを。
甘酸っぱい恋の話が書きテェ!って思って書きました
不思議なことに、苦々しい恋の話になった気がします……
恋の行方はラブラドライトでどうぞ。