プロローグ
私、杠葉結月は最後、兄の顔を見ていない。
兄である杠葉凪は、登園中の幼稚園児を庇い、暴走したトラックに轢かれ亡くなった。
朝、「行ってきます」という兄を笑顔で見送った記憶がある。自分は遅れて出た日だった。学校に着いて少しして、その知らせは届いた。慌てた教員から事の概要を聞き、私は無我夢中で病院へ向かった記憶がある。
兄の顔は見ることが叶わないほどの損傷で……私はその場に泣き崩れた。
急に死というものは襲ってくるんだと、私はその時実感したが、今は兄の損失感に打ちひしがれるだけだった。
兄は走るのが好きで、クルマを大切にしていた。私は「高校生だから連れて行かない」といって、出かける時は置いてけぼりだった。
峠に走りに行っていることは知っていたが、いつも自分を乗せて走る「走り」は優しかったから……私は兄が峠でどうしているかなんて気にもしていなかった。
三回忌……私は大学二年生になっていた。
家族で法要を執り行い、私は額縁の中でほほ笑んでいる兄と改めて向き合った。
<コイツで走ると面白いし、本当に気持ちいい。峠に行くのは僕の唯一のワガママかな>
そうクルマを洗車しながら語っていた兄を思い出す。兄を魅了させたこのクルマ……走るってどういうことなのか、峠には「何がある」のか、私はそんな疑問にぶち当たっていた。
私は事故以来、クルマが好きではなかった。免許も取ろうと思わなかった。親に乗せてもらっていたから、それで十分用を成していたからだ。
「私、クルマの免許取る。そして、凪兄のクルマに乗る」
その日、両親に宣言した。
両親は三回忌にこの宣言でビックリしていた。お母さんは……泣いていた。その涙が何を意味するのか分からなかったが――、お父さんは「好きにしていいぞ」と言ってくれたので、私は頑張ってMT車の免許を取得することに成功した。