思い出したくないあの忌々しい記憶。心にもない言葉で語る……さようならを添えて(陽子視点)
「やっぱり行きたくないなぁ」
遥が高校一年、私がまだ26歳でカップルとして数日前に成立した10月10日。
この日は憂鬱だった。とにかくマイナスな言葉を出したくなるくらいに私の本能の中では行きたくないという気持ちで埋め尽くされていた。
しかし、魔法を掛けてくれたからには行かざるを得ない。あとで行かなかったら……るーちゃんになにを言われるものか分かったものじゃない。
最悪一日……いいえ一週間もおさわり禁止とかキス禁止とか食らった瞬間に私は確実に心が病むだろう。
それこそ、心の中に闇が生まれそうだ。元から光なんてないからもっともっと倍増してしまうかもしれない。
一刻も早く例の喫茶店に足を向けて、摩耶ときちんと向き合おう。
でなければあとが恐ろしい。あまり想像したくないから急いで上下ともに服を変えて、身なりをそれなりに整えてから遥の家を出る。
「はぁ~、るーちゃんが傍にさえいててくれば」
重い足取りで電車に乗り込む。それなりにファンデーションやらマスカラを駆使してお化粧は済ませたけど……祝日の影響もあってか遊びに行く一般人に紛れて乗り込んだ私の表情は電車のドアの窓越しからでも死んでいるように思えて。
何人かのぎょっとした目で逃げるように人混みの中へと突入する。
るーちゃん、なんで私を置き去りにして梨奈ちゃんとどこかに行っちゃうの? もしも、不倫なんかしていたら梨奈ちゃんを物理的に精神的に痛めつけるかもしれないよ?
自分達だけで楽しもうとするなんてひどい! 神の産物として産まれてくれた遥の誕生日に奮発してとても綺麗なネックレスを買ったのに……なんで、こんな仕打ちされるわけ!?
とてつもなく愛を注いでいるるーちゃんに怒りとかそんな感情は全くない。
けれど、あの時衝動的に犯してしまった摩耶への謝罪が中々踏み切れなかったことに対して後悔が募った。
あれは遥に嫌われたから……感情任せに怒りと憎しみを込めて首を絞めてやった。
たったそれだけのことだが、今にして思えば私が犯した行為は殺人未遂にも等しき犯罪であることは自覚している。
とはいえ、その前に私にはいくつもの数えきれない罪が混じっている。
今さら罪が増えようが、もうこの身はとっくに汚れきっている。
だから心のどこかではいいんじゃん、これくらいと思ってしまうわけで。
「いらっしゃい! 春野さーん! マヤマヤが奥の席で待ってるよー」
電車に揺られて何十分。駅前近くの喫茶店に足を踏み入れた途端にひょっこり綾乃が現れる。
まるで、待っていましたと言わんばかりの登場で、しかも私が店に訪れた理由も知っているようだ。
多分……綾乃にこっそり私が店に一時間以内にやってくるとかなんとかるーちゃんが口頭で伝えたのだろう。
「案内してくれる?」
「任せて!」
何十年経っても元気のいい返事。元会計として以前生徒会で関わっていた綾乃はムードメーカー的な存在で、この子が生徒会室にいるだけで私は気楽に笑えた。
けど、自分から用事を作るタイプなのかは定かではないがしょっちゅう生徒会室に入り浸ることはなかった。
あとから調べて分かったのは綾乃が運動部のマネージャーいくつか掛け持ちしていたこと。
とにかくフォローに回るのがお好きなようで、それを生き甲斐にしていると熱く語っていたので辞めるように話は持っていかなかった。
他にも書記がいたような気がするが、この子は……影が薄いので割愛。
まぁ、別に仕事の時はきちんとメリハリを付けてくれるような子なので文句は文句は別に存在しない。
だが、その中で一番に厄介な存在は。
「こんにちは」
「えぇ、こんにちは」
「あれぇ? どうしたの二人とも? なんか雰囲気おかしくない?」
「なにもおかしくない。いたって正常よ、綾乃」
「それにしてはギスギスしているようーー」
「カフェラテ1つ、急ぎで」
「へ?」
「あら、聞こえなかったかしら?」
「すぐに持ってくるね、それまでごゆっくりとどうぞ~」
広々とした喫茶店の中にある特別感が漂う個室。内緒話や相談話や商談に使えそうなVIP御用達のお部屋といった感じ。
照明がポツンと照らされた灯りの下で最大のトラウマたる存在と化した平井摩耶は私の顔をチラリと見たきりこちらを見ることなく視線がカップの方へと固定していた。
店内にはクラシックなどのお洒落なBGMが掛かっているのにも関わらずここだけ不協和音が混じっているかのよう。
ひとまず様子見で、メニュー表にチラチラ目を通す。くっ、落ち着かない。思わずこの歳になっておとなげもなく貧乏ゆすりをしてしまいそうだ。
ふ~、こんなときにるーちゃんが傍でちょこんと座っていてくれたら少しどころかかなり精神が安定するのに。
スマホの電源を入れて、待受画面に映るるーちゃんの笑顔で癒されることにする。
しばらくして、フォトファイルからるーちゃんの写真をタッ……あぁ、だめだめ! 見たら、こいつの前で恥をさらすことになりかねないから自重しなければ。
「懐かしいよね、こうやって二人で面と向かって座ると……あの光景が浮かんでくるよ」
唐突に喋ったと思えば、とんでもない台詞を吐き出してくれたものだ。
まさか、ここで世にもおぞましいものを私の前で鮮明に思い出させてくれるとは。
「あぁ、あの忌々しい記憶ね。ほんと、あんたにはとんでもないトラウマを植えつけられたわ」
「ふっ、そんなに私のことが嫌いだった?」
「えぇ、嫌いよ……大嫌いよ」
生徒会会長平井摩耶、そして副生徒会会長の座についた私。最初から数ヶ月の間は良くも悪くも特になんの変哲もない……けれど、摩耶の趣味で置かれた赤・青・紫の花が植木鉢の上で咲き誇る一風変わった生徒会の一人のメンバーとして関わっていくことになった。
しかし、次に変化が目に見えたのは半年後……いつしか放課後に生徒会室で定例会議にて提出する書類をパソコンにカタカタと打ち込む私の姿を見る目が尋常になく怖くなっていく。
なにやら獲物に狙いを定めたような、それでいて深い深い何かが奥底に眠っているかのようなそんな感覚。
密かに怯えていた。だけど生徒会で一緒に働くメンバーだからこそ軽率に関係を壊すわけにはいかない。
そう思って、わざと気づかぬふりをして時が過ぎるのを待った。
だが、その恐れていた事態はそう遠くないうちに起きる。
「ねぇ」
「ん、なに? 今、忙しいんだけど」
「最近私と距離置いてない? なんか避けられているような気がするんだけど」
「気のせいでしょ。普段から私達ってこんな感じだと思うけど」
「私は……そうは思わないかな」
文字をひたすら打ち込み、会話から逃れようとするもあまりのしつこさにパソコンのキーボードのエンターキーがこれまでになくパチンとド派手な音を鳴らす。
気づいているのか気づいていないのか、とにもかくにも海原女子高等学校の制服をばっちり着込む摩耶は不敵に微笑んだ。
背中に悪寒が走る。今日は早退という形で部屋を出よう。これ以上この場にいたらなにをされるか分かったものではないから。
逃げようとした瞬間、ドアに向かって伸びる腕。強い衝撃と共にゆっくりと身体の向きを変える。
そこには待ちきれないとばかりに舌をじゅるりと鳴らす摩耶。
制服のボタンをポチポチ外してから、両手で私の顔を包み込む。
逃げなければ、そう心が思っていても手も足も動かない。これが世に言う金縛りという奴なのだろうか?
いいや、違う。あまりの怖さに立ちすくんでいるんだ。
「のんちゃん……私、あなたのことが好き。愛してるの……だから恋人になって。じゃないと……」
「いや! そんなのお断りよ! 私じゃなくて別の相手でもなんなり探して……ちょっ、やめぇ……んんんッ!?」
「んふぅ……んむっ…………れろ」
「……っ!?」
同姓であろうと容赦はしない。いきなり口を塞がれ舌を入れられ、私の怒りの矛先は当然摩耶に向かった。
両手で突き返して、摩耶が後ろに倒れるか倒れないかの瀬戸際で横から手を振り下ろす。
バチン!! と耳を塞ごうがよーく聞こえる大迫力満点の音。
しばらくはこれで身動きが取れないだろうと判断してから、速やかに生徒会室から去って近くのトイレの洗面所にて水を口に当てながら必死にゆすぐ。とにかくゆすぐ、ひたすらにゆすぐ。
「くっ、なんなのよ! これ!!」
香りが残る。ほのかに甘酸っぱい香り……これは歯磨き粉か。くそっ! なんで、なんで!
がむしゃらにゆすぐ。しかし、取れない。口の中の汚物がまだぐじゃぐじゃに混ざっている。
最終的には石鹸に手を出してひたすら汚れを取った。終わったあとはあまりの気持ち悪さに個室のトイレに閉じ籠る。
閉校のチャイムが鳴り響く。その頃には蝉の抜け殻のようにまるで魂が死神に取られたかのように自宅へと帰り、口煩い両親に今日もああだこうだと言われて。
それ以降平井摩耶という人間がこの世で一番嫌いになった。生徒会では仕方なく顔を作って誤魔化すけど、極力二人きりになるような状態は避けつつのらりくらりと月日が経って……私から副生徒会長の座を降りた。
元々なんとなくやろうと思っていただけで本気で取り組むつもりなんてなかった。
辞めたところで別に心残りなんてない。だから……ある意味引き際としては最高のタイミングだったかもしれない。
どうせ、これからも無我夢中になれる物なんてなに一つないのいだから。
「摩耶」
鮮明に甦った記憶を心の底に沈め込んで因縁とも呼ぶべき敵の瞳を見つめる。
摩耶は上下共に黒で統一しており、なんだろう……この服装を眺めていたら故人がなくなったときに訪れる葬式のような服装は。
私の白のセーターと茶色のロングスカートとは対照的すぎる服装。
これでは周りからだいぶ浮きそうだ。
るーちゃんがそんな格好をしていたらすぐにでも着替えさせてやるくらい気になる……がこの女に対しては別に情もないので放置しておけばいいだろう。
首もとの傷跡…………やっぱり消えなかったか。
「ん?」
「コーヒー、飲み終わったら外の風に当たらない? そこで私の話……少しだけ聞いてほしい」
「分かった」
ほかほかのカフェラテを口に含みながら脳内で言葉のシミュレーションを行う。
俯瞰的に冷静に相手はこう反応してくるだろうと推定しながら、組み立てて。
私は元来そうやって生き延びてきた。そういうのもあって、人間関係とか親を除けば順調とも呼べる滑り出しで。
特別な例外は当然私の可愛い恋人であるるーちゃん。この子だけはいつも会話が行き当たりばっかり。
あまりの可愛さに脳内でご丁寧にシミュレーションなんてしていられるはずもなく時々あたふた会話してしまうときもあって。
年下の遥に好きだよなんて言われた日には毎回全身が熱くなって自分がもはやどうにかなっちゃいそうになるくらい溺れてる。
それこそ溺愛しているねって言われても拒否できないくらいに愛してしまっている。
「嬉しそうだね、なにかいいことでもあった?」
「別に」
「……当ててあげよっか? なんでそんなにニヤニヤしているのか」
「は?」
「愛してる、大好きだよ。うーちゃん」
「!?!??!」
「……って言われたこと思い出して大方ニヤニヤしているんでしょ?」
「ぎゃあああああ!!」
馬鹿な! どうしてこんな……よりにもよってるーちゃんからの愛の……私達だけの秘密のメッセージが聞かれているのよ!?
「その顔は何故って疑問符を浮かべているようにみえるけど」
「どこで、その会話を?」
「お向かいの席で貴方達の会話を聞いていたの。その台詞を聞いたときには耳を疑うくらい衝撃的だったけど」
「ぐふっ! よりにもよって、あんたに聞かれていたなんて」
「ふふっ」
喫茶店を出て、近くの噴水広場にて人目を気にすることなく膝をついて落胆した。
……終わった。よりにもよって一番聞かれたくない相手に私の甘えた会話を電話越しに見せつけてしまうとは。
「仲いいよね。なんだか羨ましくなっちゃうよ」
「当然よ。るーちゃ……遥は私にとってかけがえのない可愛い恋人なんだから」
「そっか……本当に愛されているんだねぇ、遥ちゃんは」
遠い目でなにを思っているのか私には分からない。そもそも彼女が心の奥底でなにを考えているのかすら考えたくもない。
よろよろと立ち上がりロングスカートの裾の汚れを両手ではたく。
くすくすと笑う摩耶を睨んだ。どこまでもいっても何年経とうが食えない女だ。
「あのさ、遥が一生会えないよとかなんとか……そんな言葉を電話越しで聞いたんだけど、これどういう意味?」
「この街から引っ越そうと思うの。あなた達の幸せを一時的とはいえ奪ってしまった以上はここに入られないし、そもそも前々から個人でお店を開こうかなとか薄々思っていたから。これを機に……ね」
「ふ~ん、じゃあこれから一生会うこともないってことか」
「私と会えなくなって嬉しい?」
「えぇ、とっても」
「容赦ないなぁ」
「嫌いだから」
「そっか」
「摩耶……あんたにはあの時悪いことしたと思ってる。感情的になってしまったとはいえ首を絞めて消えない後遺症を残してしまった。私なんかが今さら謝罪しただけで許されるのかは謎だけど……ごめんなさい、本当にごめんなさい」
「のんちゃん……あ、頭上げてよ。あなたはなにも悪くない。悪いのは感情に身を任せて人の気持ちを蔑ろにする私に責任があるのだから」
「…………」
「でも、こうやってきちんとお話できるチャンスを与えてくれた遥ちゃんには心からお礼を言いたくなるくらい感謝してるの。だから、今度……遥ちゃんに会ったときにありがとうって伝えておいてくれないかな?」
「分かった。伝えとく」
「ありがとう。それじゃあ、もうこれでおしまいにしましょう……なにもかも」
背中を向いた。摩耶は私の顔を見ようとはしない。だから私も……背を向ける。
きっと、これが最後。私達は金輪際二度と顔を合わせることはないだろう。
「さようなら」
「……さようなら」
心にもない言葉を。夕暮れに染まった空に向かって口元からポツリと溢して歩みだす。
お互い、それぞれが決めた道に沿って一度も振り向くことなく。




