本日を持ちましてお人形ちゃんを一身の都合上で辞めさせていただきたいと思います。今までありがとうございました
「うふふっ、そんな所に突っ立っていないで早く扉を閉めてよ。大切な話……あなたにも伝えないといけないし」
「大……切な……話?」
「えぇ、そうよ。あなたもこの重大な案件に関わっている当事者の一人。まさか……ここで退室なんてしないよね? そうなると私とのんちゃんだけでお楽しみの続きをすることになると思うけど」
「ふざけないで! よ、よくも抜け抜けと! あんたの本当の狙いはこれだったのね!!」
「ふふふっ、なんのことだかさっぱりだなぁ」
もくもくと白い雲が黒くなり、生徒会室から見える向こう側の景色は今にもどしゃ降りになりそうな雰囲気が充満していて。
沢山のクリアファイルと資料が敷き詰められている棚に長細いテーブル。
壁の奥にこっそりと置かれたホワイトボードと生徒会長だけの特権ともいえるふかふかとした椅子と一人用のテーブルで真っ赤なブラウスのボタンが外れて、黒いブラジャーががっつり見えるほどはだけてしまっていて。
私の姿を見てから唇を噛みしめ、陽子さんは一切目線を合わせようとしてくれない。
悲しくて、辛くて、耐えられなくて。今にも逃げ出したいという思いで満たされていくけど……中途半端に開いた生徒会室の扉を完全に閉める。
これで誰かが勝手に入ってこない限り部屋の中は三人。この状況の最中を楽しんでいるのは……部屋に誘い込んだ摩耶さんのみ。
「それで……お話とは?」
「まどろっこしいのは聞いていてイライラすると思うから、遥ちゃんにはすっごく分かりやすく説明してあげるね……まっ、この画像を見せてあげれば誤魔化すことなんて難しいと思うけど」
小さく折りたとまれた紙から広げて、僅かに離れていてもよく撮られている写真に絶句する。
う、迂闊でした。校舎裏でキスをしている写真がここにあるなんて。
あのとき、文句を言いつつも素直に引き下がっていればこんなことにはならなかったのでしょうか?
花屋さんで働いてしかも陽子さんと昔生徒会がらみの繋がりがある摩耶さんの罠に引っ掛かってしまったの人生最大の汚点です。
これは……かぎりなく黒です。誤魔化すにもどう言い訳するか思考するレベルでもし考え抜いたとしても、元生徒会長である平井摩耶さんを騙すことは到底出来ないでしょう。
「…………っ」
「黙秘は肯定とみなしていいのよね? 遥・ちゃ・ん」
「あんた……ふざけるのも大概に!!」
「のんちゃん。今の私はそこの床で泣き崩れている遥ちゃんとお喋りをしているの。これ以上うるさくするようならもっともっと口を塞いじゃうよ?」
「この……外道が」
「外道以前に未成年に手を出しているあなたが言うのも説得力がないんじゃない?」
「…………」
「でも、まあ条件次第で今回の一件については学校にも外にも流出させるつもりはないからそこだけは安心していいよ……当然条件を呑んでくれたらというの絶対だけど」
「条件?」
「条件と言っても……とっても簡単な方法。今日ここで私に対して春野陽子さんをあなたに一生渡しますと誓えば社会的に不利になることは一切しない……というのはどうかな? 高校生思春期真っ最中の遥ちゃんには大変素晴らしい提案だと思うのだけれど?」
「ぁ……あ……あぁ……い……や」
「拒否は許さないよ」
「な、んで……どうし、て、こんな、事を?」
嗚咽が混じっていて上手く喋れているような気がしない。けらけらと怪しく笑う摩耶さんはなにかの幻影だと思いたいほど信じられなくて。
店に何度か訪れた時に丁寧に接客した上で的確なアドバイスを授けてくれたあの姿は幻でこちらが本体なのでしょうか?
やめて、やめて、やめて!! それ以上陽子さんの身体を気安く触らないで!!
「どうしても好きだから、どうしても手に入れたいの。だから、さっさと条件を呑んで諦めてよ。私の妹ならいくらでも好きに使っていいからさ」
「あんた!? 妹を売るつもりなの!?」
「だって、そうでもしないと納得させられる雰囲気じゃないでしょ? なら、こっちも多少は折れてあげないと」
「くっ、このぉぉぉ!」
摩耶さんは人が変わったかのように、悪魔が笑っているかのような恐怖に塗り固められた表情を浮かべて陽子さんの右ストレートをいとも容易く平手で受け止める。
パンッと決して手加減をしていない強烈なパンチすら、鮮やかに回避して。
腰まで伸びた黒くて長い髪をたなびかせて陽子さんに迫り始める。
そんな汚い手で桜色の綺麗な髪の毛に触 れるなんて許されない! 駄目! 私の……私の陽子さんに触れちゃーー
「答えを渋るようなら、いやでも答えさせてあげるよ……無理矢理、精神的に追い詰めてでも……ねぇぇ!!」
「やめなさ……っ!? ……んんんん!? んー、んむっ……んぷっ」
「のんちゃ……んっ……んむっ……んふぅ」
「はぁ……ぁ……は、るか……お願い! 見ないで!」
あ、ぁぁぁぁ、う、そ、だ、よね? こ、これは幻覚。そう、ゲンカク……ゲンカク。
「んふぁ……はぁ、さあ……のんちゅんの全てを私がもらうね! 10年越しの愛がやっと叶えられるよぉ。ほんと、ありがとう……遥ちゃん。あなたのおかげでこうして……私は」
「いやぁぁぁ!!」
生徒会室から立ち去る。
「待って、遥!! 行かないで……遥ぁぁぁぁぁ!」
四階から一階までがむしゃらに降りていく。
「えっ? はっちゃん? ちょっと、どうしたの!? なんで泣いてるのよ!? 待ってってば!!」
一階の廊下を無我夢中で走り去る。人目なんて知ったことではありません。
こんなところにはいられない。こんな場所にはいられない。あぁぁぁ、イヤだイヤだイヤだ!
大切なお母さんも失って、それ以上にもっと大切にしたい陽子さんも失って。
なにかも終わりだ。なにもかも、なにもかも、なにもかも!!
「うぁぁぁぁぁ!」
外に出る。誰かに呼び止められたような気がするが一切聞こえない。
全速力でこの町を駆け抜ける。一度も足を止めたりなんてしない。いいや、したくない。
止めたら……また思い出す。私だけが許される陽子さんの艶かしい唇が無惨にも奪われてしまったその出来事を。
「はぁ、はぁ、はぁ……うぐっ!?」
トイレの中で見たくもない液体が口からとめどなく溢れ出す。すっきりなんてしなかった。
終わったあとは途方にもない疲れと倦怠感。便器に残った液体をトイレの水で強引に流してから立ち去る。
ふらふらと歩く度にポタポタと落ちる滴と足の部分から流れ出す真っ赤な血。
よく耳を済ませると家の屋根から大量に降り注ぐ雨が窓を閉めていても聞こえていた……いつの間に雨なんて降っていたのだろう?
ティッシュで傷口を防がないと未だに止まらない血……この傷はいつ頃から溢れ出したのだろう?
玄関にずっと立っている……どうして、いつまでも動こうとしないのだろう?
分からない……けれど知りたくなんてない。私の人生なんてやっぱりなんにもなかった。
これから、どうすればいいのだろう。陽子さんという希望を失ってしまった以上やっぱり私は元の鞘に戻るべきなのだろうか?
そうか、そうだよね……ふふふふっ。
もう世間体なんて知りません! とことん物を盗んでやります。
ひたすらリサーチして、監視カメラもない店員の視線すらも掻い潜って偉業を成し遂げます!
他の誰にも真似できない、私の力でプロの手さばきを披露してやりましょう!
「遥……」
「あっ、あぁぁぁ。よ、うこさーー」
「遥!! ごめん……ごめんね……ごめんなさい!!」
ぎゅって包まれるこの暖かい感覚。お互いに身体が濡れているはずなのに……どうして、こんなにも気分が落ちつくのでしょうか?
いえ、疑問にしなくても分かりきっていたことです。陽子さんだから……いつも女神みたいに優しく微笑む陽子さんだから、私の汚れた心が綺麗に浄化されていくのです。
「陽子さん……」
「ねぇ、遥」
「……はい」
「許して欲しいとは思わない……恨まれて当然のことはしたってことは自覚している。けれど、それでも……私達もう一度やり直せないかしら?」
もう一度……もう一度。嫌な言葉が脳内でひたすら駆け巡る。あぁ、答えないで。それ以上聞きたくないよ。
「やり直す?」
「そう、やり直すの……もう一度飼い主と可愛いお人形ちゃんの関係で」
「……はははは、あははハハッ!」
今まで散々私をキスしたり、ハグしたり、ナデナデしてくれたのは飼い主の立場になってお人形ちゃんを愛でていただけなんだ。
途中から恋人として扱ってくれていると思っていたのに……思っていたのに!!
「遥?」
「嫌です……お断りします」
「どう、して?」
「今まで……ありがとうございました。僭越ながらお人形ちゃんを辞めさせていただきます……写真についてはもう勝手にネットにばらまいてもらってけっこうです。どうせ、私みたいなゴミがのうのうと生きている価値なんてありませんから」
「遥!!」
「さようなら……もう二度とこの家に足を踏み入れないでください」
「そ、んな……やめ、てよ……冗談なんて笑えない」
「笑えないのは私の方です。結局希望を持とうと思っていたのが間違いでした……ようやく自分を変えられると思ったのに」
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。あの画像消すから、それで許して……ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ」
陽子さんの声は聞こえない……二階の自室に閉じ籠ったから。訳もわからず頭をぐしゃぐしゃにして、ベッドにそのまま飛び込む。
辛い、苦しい……こんなにも愛していたのに裏切られるなんて。
頭をトンカチで叩かれたようにぐらっと体勢が大きく崩れながらも机の引き出しから瓶を取り出す。
「好きです、陽子さん。あなたの髪も声も仕草も顔も性格も全部全部全部……大好き。スキ、スキ、スキ」
引き出しに収まる瓶のサイズはとってもお手軽で、そしてこの中には私が愛してやまない人の大事な髪の毛が入っていて。
そっと瓶の外側を撫でて、じっくりと見つめる。いつも手入れがされていてどこかふわっとする素晴らしい香りが引き立つ美しい髪の毛。
私の家宝でどんなものよりも大切。陽子さんを突き放してしまった以上自分の命を辛うじて繋げているものはこの瓶と机の上の棚にあるアルバムだけ。
いつまで持つかな、私の心は? 全てを失ったからにはいつでも死ぬ準備ができている。
けど、これまでの思い出が死んだ瞬間に綺麗さっぱりとなくなるのならそれはそれでイヤだ。
陽子さん……私はこれからどうしたらいいんでしょうか? ねぇ、早く教えてくださいよ。
「スキ、スキ、スキ……ダァ~イスキ♡」




