沈船峡の悲劇
全速力で海を駆け抜ける客船マンタの両側を、巨大な雲塊の白い壁が囲む。進めども進めども、雲の道に終わりは見えない。船は発動機を低く唸らせながら走り続ける。船員が船の位置を計算し、海図上の船の模型を動かす。幸い上空にはわずかな雲の切れ間があった。天体の位置や船速をもとに、何とか座標を割り出すことができていた。
船は確実に元の航路へと戻りつつあった。船首の方角もブレてはいない。しかし、未だに「沈船峡」と呼ばれる海域を完全に脱してはいなかった。そして、船の推進力を制動する潮の流れは強まりつつあり、船速は少しずつ落ち始めていた。
雲塊が両側から迫る。前に見えていた道は、ゆっくりと、閉じられた。
あたり一面が、白く、薄暗くなった。
水の粒が目の前の窓に当たる。
無数の水玉が風圧ですぐさま後ろへ線となって流れていく。
発動機の全開運転を始めて、およそ40分が経とうとしていた。船長は舵輪を握りながら操舵室の計器類を見る。
「冷却系の水温がやや上がっていますね。それでも推進力はまだ維持しているのが幸いですが。このまま何とか抜けられるか…」
ラオシ、フナキ、ヤツはそれぞれ近くの手すりにつかまり、揺れに耐えていた。船は相変わらず高速で海の上を走り続けている。雲塊の中に入ってから、船首の向く方角以外は、もう正確な位置を把握することはできていなかった。
「そういえば…」
出口が見えない中、フナキはこの船に搭載したある機能のことを思い出した。
「なあヤツ、遊覧船はもう格納済みだよな?」
「ん?そうだな。午前中のうちにはすべて帰還していたはずだ。」
「よかった。それなら使えるな。」
「…ああ、あれか。面白半分でおまけに作ってみたけど、案外役に立つかもな。でも船長には確か事前に伝えたはずだぞ。まだ起動してないのか。」
「今は操舵に手一杯で忘れてるんだろう。それに高速船操舵手も経験してるあの腕利きの船長のことだ。そもそも飛び道具に頼るなんて発想が初めから無いんだよ。」
薄暗く白い景色だけが窓の外を埋め尽くしている。もはや船が進んでいるのか止まっているのかすら曖昧になってくる。発動機の低く唸る音が響き、船が何度も波に跳ねる。
そのとき、一瞬だけ前方に雲の切れ間が現れた。雲の向こうは青い。
「あっ」
海図の計算のために空を観測していた船員が短く声を上げる。すると間もなく雲は再び閉じてしまった。
船員は急いで時計や風速計、船速計などを確認し、手元の紙にペンを走らせ始めた。一瞬の雲間から天体の位置を捕捉し、船の位置の手がかりをつかんでいた。船員が海図の上の船の模型を掴む。その手は船の位置を移動するかと思いきや、模型を掴んだまま少しづつ震え始めた。
「どうかされましたか?」
フナキが尋ねる。
「…船が、後退しています…」
船員は、最新の位置情報を海図に更新した。客船は、最後に計算した座標からわずかに後ろへ移動していた。
「船長!」
フナキがさけんだ。船長は舵輪を掴んだまま振り向く。
「ブーストを使ってください!コバンザメはスタンバイ状態になっているはずです!」
フナキの言葉に、船長はハッと気が付く。
「分かりました。起動してみます!」
船長は舵輪の周りのボタンやレバーを操作した。発動機の低く唸る音に交じって、「キィィ―ン」という高音が操縦室に届き始める。遊覧船コバンザメが、補助推進力として起動した。
船の動きが変わる。船首がわずかに上向いた。ある程度出力が増したようだ。
しかし、視界は相変わらず白い。窓に打ち付ける水滴が高速で筋になって流れていく。景色だけは高速で移動しているように見えるが,平衡感覚の速度感を得にくく進んでいるのか止まっているのかの判別がしにくい。波と風にあおられ、上下動だけは続く。
天体の位置は雲に遮られて観測できず、船の座標を割り出すことができない。
......
雲が再び、左右に開ける。
一面が、青くなる。
その青は、
水の壁だった。
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「……お客様にお知らせいたします。当船は海底岩盤に衝突し、沈没の危険が発生しました。船員の指示に従い、救命艇への避難をお願いいたします。持ち込まれたお荷物等は最小限にお願いいたします。繰り返します。当船は…」
船内に緊急避難を促すアナウンスが流れ続けていた。
雲は船を囲うように立ち込めている。しかし風は不気味なほどに止んでおり、波は穏やかになっている。客船マンタは嵐の狭間に座礁していた。一面深い海が広がる中、海底から突き出た岩盤がいかりのように船をつなぎとめていた。
フナキとヤツ、ラオシたちは微妙に傾いた船内の廊下を歩き、救命艇のある非常口へと向かっていた。廊下には一般の乗客も少しづつ出始めていた。レストランの前に差し掛かった時、中から乗客が次々と廊下に出てきていた。フナキたちはいったん入り口付近にとどまり、人の流れが途切れるのを待った。その時、若い男女と一人の少女が出てきた。おそらく親子である。
「ねえ、マンタさんどうしちゃったの?今からみんなでどこ行くの?」
少女は女性の服のすそを掴み、しきりに質問している。
女性は困惑した表情で、何か言葉をかけたがっているようだが、なにも言えずに少女の方を見ていた。
「またコバンザメさんに乗りに行くんだよ。」
男性が落ち着いた声で少女に応えた。男性の言葉を聞いた女性はハッとして、戸惑いが消えた。
「そうだね、またお魚さん見に行こうか!」
「やったー!またコバンザメさんだー!ねえ、早く行こう?」
少女は男性と女性の間に入って2人の手を取り、前に引っ張っていく。
「こらこら。廊下は走らないの。」
といいつつ、女性の表情は少女と同じくらい楽しげであった。しかし、少女の隣にもう一つ手をつなぐ男性の方は顔がわずかに強張り、繋いでいない方の手が微かに震えていた。
3人はほかの乗客の流れとともに避難経路を歩いて行った。
少し人の流れが途切れた。ヤツとラオシは再び非常口へと歩みを進めようとした。
「すみません先生、ちょっと寄り道していいですか?」
フナキが言う。
「何言ってんだ。船沈むぞ?」
ヤツが言う。
「なんか忘れ物?」
ラオシが尋ねた。
「最後にこのレストランのリンゴジュースを飲んでおきたいんです。すぐ済みます。なんなら先に行って下さい。すぐ追いかけます。」
「ああ、あれね。美味しいよねー。私はお昼の時に飲んだからいいや。せっかくだし、記念に味わってきなよ。私は先に言ってお客さんたちを案内してくるね。」
「記念て……。まあ、あんまりのんびりすんなよ。」
「分かったよ。じゃあな。」
フナキは苦笑しながら応えた。
「おう」
ヤツは微笑みながら手を振って、ラオシとともにその場を去った。
2人が人混みに紛れて見えなくなると、フナキは微笑むのをやめた。
レストランを入ってすぐの所にあるジュースサーバーで、リンゴジュースをコップに汲む。
ひと口だけ飲む。
「…………」
「………完璧な図面が書けたと思ってたのにな」
フナキの顔は微かに寂しさを纏っていた。
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「こちらの救命艇はあと5名です。あとの方は後ろの船に乗ってください。」
ラオシはほかの船員とともに乗客の誘導をしていた。平常時よりも通路が海水面に近づいている。
定員が乗り込んだ「救命艇コバンザメ」がまた一隻、客船を離れていった。乗客の避難は、ほぼ完了しつつあった。
「みんなどうにか避難できたようだね。この船、沈みそうで沈まない。さすがだよ。」
「そうっすね。まあ、船底の浸水防止構造を考えたのはほとんどフナキですけどね。あいつにはホントかなわないですよ。」
「それにしても遅いね…。一体何杯飲んでるんだろう?ああ、フナキ君に独占されるくらいなら、私も最後に一杯くらい飲んでおけばよかった…!」
「お昼んときさんざん飲んでたじゃないですか!それもサイダー割りにして!」
ラオシとヤツが避難口の前でリンゴジュースの話をしていると、船長がやってきた。
「船の傾きが危険域に入ってきています。そろそろ救命艇に乗り込んでください。ラオシ先生、ここまで避難に助力いただき、ありがとうございました。」
「いーえ、とんでもない。」
「フナキさんはいま船員が呼びに行っております。私も最後の一隻で待機しますので、お二人は先に避難してください。」
「分かりました。フナキ君を頼みますね。」
ラオシはフナキの安否を船員に託すと、ヤツとともに「救命艇コバンザメ」に乗り込んだ。コバンザメは客船マンタから離れ、水中へ潜っていった。
「船長、フナキさんをお連れしました。船内すべての見回りも完了しました。これで乗客全員、避難完了です。」
船の内部の乗客を見回っていた船員が確認を終え、救命艇の乗り込み口までやってきた。
「ご苦労様でした。フナキさんも無事でよかったです。では、行きましょう。」
「………はい。」
救命艇の中の船員が救命艇のハッチを開けたまま押さえている。船内の確認に回っていた船員が先に乗り込んだ。救命艇の中からフナキに手を差し出そうと振り返る。
…………………ドッ!
「さあ、フナキさんも………って、うあ!」
突然、救命艇の中に人が飛び込んできた。船員は巻き込まれるように後ろへ倒れた。
「いつつ……。大丈夫ですか。」
「はい、大丈夫です…。」
船長が、巻き込んでしまった船員を起こそうと手を引き上げようとした、その時、
バタン!
突然ハッチが閉まった。入口をおさえていた船員も倒れこんでいて、今に起き上がろうとしている矢先だった。
「 ! フナキさん!一体何を!フナキさん、フナキさん!」
船長はハッチの窓の外に向けて叫んだ。窓の外には、客船マンタの船体に立つフナキがいる。
「なぜこんなことを?!フナキさん!早くこちらへ!」
船長がハッチのレバーに手をかけようとしたとき、マンタの船体が沈み始めた。
「いかん!これは!」
「船長!すみません!これ以上は危険です!離脱します!」
操縦桿を握る船員が叫ぶ。
救命艇コバンザメは客船マンタの船体から離脱し、素早く距離を取った。
フナキはまるで置物のようにその場で動かず、客船マンタの船体とともにゆっくりと沈んでいった。
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視界一杯に広がっていた明るさが、徐々に遠ざかっていく。水の浮力で和らいだ重力に身を任せ、フナキは海の底へ沈んでいく。落下の途中で船の巨体が水流をあおり、フナキはマンタから引き離されてしまった。船も海面の光も、フナキの視界から遠ざかっていく。
(ああ、これで終わるんだ。)
(楽しかったな。)
(やれることはやった………のか?)
(沈んだ。船は沈んだ。)
(ヤツが描いたメカニズム、タマが描いた外装、俺が描いた骨格、そしてそのすべての基礎を与えてくれたラオシ先生の理論と思想。あのクジラぶねにも負けない、完璧な図面が完成したと思っていたのに。本土中から集まった一流の船大工さんたちの力も借りて、図面から寸分の狂いもない船が建造できたと思っていたのに。)
(俺たちの作る船は、雲塊一つ、抜けられないのか。大波一つ、越えられないのか。)
(………………)
(俺は設計士失格だ。)
(海を渡れない船なんて、船じゃない。)
(マンタ、美しく生んでやれなくて、ごめんな)
フナキの背中が海の底に着いた。あらゆるものが遠ざかった。フナキは、もう誰も立ち入ることのない秘密の場所にたどり着いて、どこか暖かいものに包まれているような心地がしていた。
♪~
遠くの方から、少女らしき誰かの、透きとおった歌声が聴こえてきた。
♪~
子守歌なのか、鎮魂歌なのか、どこかざわついた心を鎮め慰めようとしてくれているかのようだ。ハミングではなく何か言葉を乗せているようだが、音色がぼやけていてよく聞き取ることができない。
(なにを言っているんだろう………。)
♪~
フナキは耳を澄ませ、少女の歌声に聴き入った。歌声は身を優しく包み、溶かした。徐々に気持ちが穏やかになっていく。身と水が一体化して漂いだしそうだった。
(……キ、)
(…ナキ、)
(フナキ!)
フナキは誰かに身をゆすられた。
(フナキ、こんなところで何してんだよ)
ヤツだ。
(お前こそ何してるんだよ。船は沈んだ。俺も沈む。もう楽にさせてくれよ。)
(何言ってんだ。船は沈んだが、人は死ななかった。ちゃんとお前の書いた設計が役に立ったんだよ。お前まで沈んでる場合じゃ無いぞ。)
(別に俺はただの役に立つものを作りたかったわけじゃない。人が死ななくたって、あの船は沈んだんだ。俺たちが描いたあの船の図面はもっと完璧なものだと思っ)
(ああもう!めんどくせえな!これ以上水の中で長話させんなよ!さっさと上がるぞ!)
ヤツはフナキの背中の襟を両手でつかむと、ゆっくりと浮上し始めた。フナキは抵抗することなく、ただ脱力して、ヤツにされるがまま上へ引き上げられていった。
水の中に垂れ下がるロープを、ヤツが掴む。ヤツが上を向き右手で合図をすると、ロープを垂らしながら待機していた「コバンザメ」が水面へ向かって浮上し始めた。
コバンザメは海面まで上がってくると、そのまま海の上を走りだした。ロープに引かれてヤツとフナキも海の外に出てきて、海の上を引きずられ始めた。空には雲一つなく、嘘のように晴れ渡っていた。
「………よけいなことを」
「ん?何か言ったか?」
「いや………」
バシャバシャと音を立てながら、ヤツは海面を滑っている。フナキは相変わらずヤツに後ろ襟をつかまれ、水に背中をこすられていた。
「まったく…。自分の作った船が一隻沈んだくらいで、身まで捨てる必要があるかよ。」
「お前にとっては沈んだくらいでなんだろうな。その身を捨ててるやつを引き揚げる必要があるかよ。」
「大ありだね。気付いてて見捨てるとかとんだ薄情モンだ。先生に何言われるかわかんねえよ。」
「自分のためか。」
「当たり前だろ。」
「なら良い。漂流物として拾われてやる。」
「おうおう、そのままおとなしく引きずられてろ」
コバンザメは時々蛇行した。沈船峡の海底から時々突き出ている岩盤をよけながら走っているためだ。コバンザメの動きに合わせ、ヤツも波を乗りこなす。
「ところで、水の中でどうやって俺に話しかけたんだ?」
「そりゃ、まあ、企業秘密ってもんよ。」
「そうか。なら、水の中で何か歌ってなかったか?」
「歌?さすがにそんな器用なことはできねえよ。」
「違う、お前じゃない。どこかで女の子が歌っているような声がしたんだ。俺の近くに来た時、歌声が聴こえたりしなかったか?」
「歌声…?いや、お前との話声しか聴こえなかったな。」
「………そうか。」
コバンザメが本土の浜辺に近づき、速度を落とし始めた。陸にはすでにほかの救命艇で避難した乗客たちが上陸し始めていた。
(あれは俺の幻聴だったのか?)
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客船マンタの海難事故から一週間がたった。客船の建造プロジェクトが終了してからもラオシは時々門下生たちを呼びよせ、船づくりについての話をした。フナキも何事もなかったかのように集まりへ出席し、議論に参加した。しかし、時々会話が途切れると、海の方を見てはどこか虚ろな顔をすることもあった。
ある日ラオシの集まりが終わった後で、おなじラオシ門下生のタマが書類の片付けをしていると、フナキが白紙のメモ紙とペンを持ってきた。
「よう。おつかれさま。」
「おつかれ。どうしたの?先生の話の続きでもするの?」
「いや、前にタマが『音の書き記し方』とかいうの知ってるって言っただろ?もしよければ教えてほしくてさ。」
「いいねー。ついにフナキくんも船づくりだけじゃなくて『歌づくり』にも目覚めちゃったのかな?」
「違うよ。俺が作った歌じゃないんだけど、どうしても残しておきたいんだ。放っておいたら頭の中から揮発して飛んで行ってしまいそうで。」
「ふーん。そんなにデリケートな歌なら、私が代わりに書き記してあげようか?」
「いいのか?それは助かる。ただ、俺にあれと同じものが再現できるかどうか…」
「大丈夫。このまえあげたオカリナあるでしょ?出発式の時職人さんが出店でだしてたやつ。どんな歌が降ってきたのか知らないけど、あれで吹いてみてよ。」
「分かった。今持ってくる。」
フナキは手荷物の中からお土産のオカリナを取り出すと、海の底で聴いた謎のレクイエムを吹き始めた。
♪~
タマは、オカリナの再現する歌声が、かすかにその身を包もうとしているのを感じた。そして何かざわついたものを宥めようとしているようにも聴こえた。音色に聴き入りそうになった時、タマはハッとして、急いで音を拾い始めた。そして拾った音を一つ一つ紙の上に落とし込んでいった。
「ねえ、この歌どこで聴いたの?」
「信じてくれるかわからないけど、海の底だ。」
「えっ」
タマは両手で口を押えたまま、しばらく言葉が出なかった。
「…それってマンタちゃんが沈んだとき?」
「………。そうだ。」
「…そう。」
「………」
「………」
タマは下を向き、再びゆっくりとペンを動かす。最後に小気味よくすらすらとインクを走らせると、とん、とペン先を紙の上に打った。
「はい、できたよ。読み方は後で教えるね。これでいつでも思い出せるよ。またあとで聴かせてね。」
タマは出来上がった「音の記述」をフナキに渡した。
「分かった。ありがとう。」
フナキはメモ紙を受け取ると、その場を後にした。しばらくして、タマは部屋の入り口から廊下の方へ行き周囲をきょろきょろと確認した。周りに人気が完全になくなったことを確かめると、部屋の中に戻って鼻歌を歌い始めた。
♪~
その歌は、フナキが耳にした少女の歌声にやや似ているものだった。しかし、誰の耳にも届けていないそれは、似ているか否かをだれかに判別されることはない。
二度三度歌って、歌うのをやめた。少女の目から、真顔のまま涙が一筋流れた。
「…船の歌声。おじいちゃんの言ってたやつだ。」
抑えようとしていた笑みが、思わずこぼれる。
「マンタちゃんが、みんなを守ってくれたんだ。」
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海難事故の後もおよそ2年ほどフナキはラオシの下で船づくりを学んだ。しかし、この事件を境にしてフナキが客船を手掛けることはなかった。