出航
潮の穏やかな海の上を、「客船マンタ」が優雅に走る。朝日が水面に反射して、船体をきらきらと照らしていた。
フナキは前方のデッキの柵にもたれかかって、遠ざかる港を眺めていた。
「俺ら、本当に客船を作ったんだな…」
図面と向き合っているときにはただ船そのものにしか関心がなかったフナキも、港で声援を送る大勢の人々の熱狂に飲み込まれ、自分が成し遂げた行いのその大きさを思い知った。
潮風にあたりながら熱狂の余韻に浸る。フナキは、おぼろげな夢の中にいるような心地がしていた。
「よ、今日は天気が良くてよかったな」
フナキが後ろを振り返ると、ヤツがこちらに歩いてきていた。
「ああ」
フナキが軽く合槌を打つ。出航するときから雲一つない空だった。
「テスト航海の時もそうだったけど、ほんと揺れない船だな、コレ」
ヤツが言う。
「そうだな。お客さんが乗ったら多少変わるかと思ったけど。この様子なら安心だ。」
「あの船を参考にしただけあるな。さすがの基本骨格だよ。」
「あの船?…ああ。クジラぶねか。うん、本当に参考になったよ」
フナキは「客船マンタ」の基本骨格構造の作りを、故郷で見た「クジラぶね」を参考にして設計していた。幼いころから親しみ、そのつくりの良さを肌感覚でなんとなく感じ取ってはいたものの、本格的に知識を身に着けたあとでその設計図をラオシに見せてもらったときには、理論的な構造の完璧さにフナキは驚愕した。そして自らの肌感覚と論理のとの間にしっかりとした重なりがあったことに、身震いした。フナキは客船設計のオファーがあった時から必ずこの構造を基礎にして組み立てたいと考えていた。
「そういえばお前の島だとそう呼ぶんだっけ。ずいぶん可愛がられてるらしいな。」
「あの島でクジラぶねを嫌いな人はいないよ」
いつしか出航した港は見えなくなり、あたり一面が水平線になった。
「この船も気に入られるといいな。」
ヤツが遠くの水面を眺めながら言う。
「そうだな。」
フナキが応える。
その時、バシャーン!と船体の後ろの方で何かが海に打ち付けられるような音がした。
ヤツが身を乗り出す。
「お、始まったか?」
「ん?」
フナキも柵から少しだけ身を乗り出して音がした方を見た。大きな客船の横にへばりついて航行する小さな船に、乗客が次々に乗り込んでいた。乗り込みが終わると、船は潜水艦のように海の中へと潜っていく。船が潜り込んだ位置にはブイのようなものが浮いており、少しづつ母船から離れていった。
「あれは『遊覧船コバンザメ』のブイか?ヤツも変わったこと考えるよな。客船を母船にして遊覧船を出すとか」
「ふっふ。マンタにはコバンザメがつきものだろ?それに何もない海の上だけ見てても退屈だろうからな。せっかくなら海の中も散歩してみたいじゃんか」
「…お前の遊び心がうらやましいな。」
バシャーン!
フナキの小さなつぶやきは波の音でかき消された。
「ん?なんか言ったか?」
「いや、何も」
「そうか? さて、遊覧船も無事稼働してるようだし、そろそろ部屋戻ろうぜ」
「ああ。」
フナキとヤツは柵を離れ、船の中へ入っていった。
お昼時になり、フナキとヤツは船内レストランにやってきた。入口のところでラオシと合流した。
「ヤツ君、『コバンザメ』の遊覧潜水面白かったよー。まるで動く水族館だね。あれならお客さんも飽きないよ。」
「あざっす。楽しんでもらえてなによりです。」
ラオシと海の中の話をしながら歩き、3人はビュッフェの食材を取りに行った。
フナキがサラダとカレーを装い始めると、カレー鍋の蓋を開けたとたんに広がった香りに吸い寄せられ、向かいのコーナーにいたヤツとラオシが近づいてきた。ラオシとヤツがフナキの持つプレートを覗き込む。
「ふ、ふたりともなんすか…」
「いや~、いい匂いがしたものだからさ~。ちょっと気分が変わった」
「ん。こりゃ間違いなくうまいやつだ。俺もこれにしよ」
結局ラオシとヤツもカレーを皿に盛りつけた。すでに豚肉のカツを皿にのせていたラオシはカツカレーにカスタマイズし、ゆで卵を取っていたヤツは盛ったカレーにそのままぶっこんだ。
「ヤツ…何してんの?それ殻割ってないじゃん。先生のカツカレーはまだわかるけどさ」
「先生の見たらなんかぶっこみたくなった。まあ、箸でつつけばなんとかなるだろ。」
どういうふうに「なんとかなる」のか全くわからなかったが、フナキはとりあえずそれ以上突っ込まないでおいた。
3人は食材を取り終えて席に着き、それぞれ食べ始めた。ヤツがカレーの中のゆで卵に勢いよく箸を突き刺した。殻がカレーの中に散る。…フナキはやはり何も言わないでおいた。
「それにしても、先生もずいぶんな無茶ぶりしてくれましたよ。先生の『シロナガス』クラスの船ならわかりますけど、このクラスの客船にこの大きさのレストラン作るとか。他の空間犠牲にしないようにするの結構大変でしたからね。フナキも苦労してましたよ。」
「ん? そりゃ苦労はしたけど、俺は結構面白かったよ。パズル解いてるみたいで」
「そうそう。こういうのが設計の醍醐味だよ。それに船上の食事を楽しみにしてる人だって結構いるものだからね。ここまで広くしてくれたおかげで東の町と西の町の食材をコラボさせた料理だってできるし。この客船にピッタリじゃん。いい目玉スポットになると思うよ。」
ラオシの設計士学校があるのは東の町である。東西の町の交流は古くから活発に行われていて、海上の交通手段として客船が普段からたくさん行き交っていた。「客船マンタ」は、本土にある東の町と西の町を結ぶ船の一つとして計画されたものだった。今回のお披露目航行も、就航後と同じ西の町を目的地としていた。
「このカツに使われてる肉は西の町のもので、カレーは東の町の名店から取り寄せたものなんだよ。そういえばあんまりよく考えてなかったけど、早速コラボさせちゃってたな~。」
ラオシは嬉しそうにカレー皿を掲げた。
「あッツ!!」
慌ててテーブルに戻した。
フナキは東西の町のことがふと気になり、ラオシに尋ねた。
「そういえば、先生って本土中を旅していたんですよね?西の町にも行ったんですか?」
「行ったよー。これまた面白い街だったね。まず使う言葉からして私らとは違う。」
「え、言葉が通じないんですか?」
「いやいや、通じるのは通じるんだけど… なんて言えばいいんだろね、言葉が兄弟なのかな?よく似てるんだけど同じじゃないんだよね。私らの言葉が『大人しい子』で、あの街の言葉が『陽気な子』みたいな?話してみたら東の町の人と何か違うんだけど、不思議と向こうの言ってることがわかるし、こっちの言うことも通じるしんだよね~」
「んー… 分かるような、分からないような… というか、俺らの話してる言葉って『大人しい』んですね。」
「あくまで物のたとえだよ。東の町にも陽気な人はいるでしょ?まあ、実際に西の町の人と話してみるのが一番わかりやすいだろうね。あ、そうそう、西の町は船も面白いんだよね。こう、ずいぶんと華やかな形をしててさ、」
フナキとヤツは、その後もラオシの西の町見聞録に聴き入った。
「ふう、ちょっと暑くなってきたな。」
ヤツが服の襟をつかんでパタパタと風を送る。カレーの中に飛び散っていた卵の殻は、食べ終わった皿の端に器用に寄せられていた。
「俺も暑くなってきたよ。さすがにカレー食うと火照るな。また海風にでもあたりに行くか。」
フナキが言う。
「私はもう少しここでデザートを楽しんでるから。ありがとね。立派なレストラン作ってくれて」
「そりゃどーも。あんまり食べ過ぎないでくださいよ。」
「大丈夫、大丈夫!ワタシ鉄の胃袋だから!」
フナキとヤツは皿を返却口まで持って行ったあと、船のデッキに向かった。
扉を抜けると、デッキの上には穏やかな潮風が吹いていた。ヤツが両腕を上げて伸びをする。
「あー、気持ちいいな。これなら汗が引きそうだ。」
「そうだな。」
二人は策にもたれかかり、水平線を眺めた。
「………」
「………」
出航してから数時間が経ち、あたり一面にはただ海水があるだけだった。ただ、出発当初よりは少々雲が現れ始めていた。
「…ほんとに、何もないな。」
フナキが言う。
「ああ。」
「何もない海って、やっぱりなんか恐ろしいな。」
「そうか?海なんてどこもこんなもんだろ?」
「いや、俺が育った島の周りは、すぐ隣の島が見えた。水しかない海を見たのは本土に来てからだ。この世には、こんな寂しい世界もあるんだな。」
「いつも一人になろうとするお前が寂しいとか言うか。意外だな。」
「誰かが近くにいようがいまいが、それはどうでもいいんだ。…ただ、船も島もない世界は… なんでだろうな、寂しい、と思う」
「ふうん。」
「………」
「………ふあ~。」
ヤツがあくびをした。フナキとヤツが柵にもたれながらぼんやり海を眺めていると、1時の方角から一隻の船が遠くに見えた。少しずつこちらに近づいてくる。船には沢山のコンテナが積み上がっていた。どうやら貨物船のようだ。
「コンテナってのも、よく考えたよな。荷物をばらばらに積むより、塊にした方が確かに効率がいい」
感慨深げに、フナキが言う。
「簡単なことなんだけどな。それを最初に見つけるのが天才ってやつなのかもな」
ヤツが応える。
貨物船は客船マンタと一定の距離を取ってすれ違っていく。2艘の船は互いに汽笛を鳴らして挨拶をした。
「…これで少しは寂しくないか?」
「…少しだけな」
客船は乗客を揺らさずに、心地よい水音を響かせながら海の上を走る。昼過ぎに現れ始めた雲が、徐々に増え始めていた。貨物船が最初に遠くに見え始めた方角には、白い壁が出来つつあった。デッキの上の潮風が少しずつ冷たくなってきていた。
「だいぶ涼しくなってきたな。汗も引いたよ。」
ヤツが言う。
「そうか?俺はまだ温かいけど」
「お前、俺が食ったやつより結構辛いやつ盛ってたもんな。」
「火照りと辛さって相関あるのか…?」
「知らね。適当に言った」
ぽつ、と、フナキの頬に水滴が一つ当たった。
「ん? 雨か?」
左の手のひらを策の外にかざしてみるが、何も感触がない。何秒後かに、同じ水滴の感触が二の腕の上に起こった。フナキが見上げると空からは日差しがあり、雲はあるが青空もある。天気雨のようだった。ただ、これから客船が向かおうとしている方角にはやや大きな雲が見られた。
「これから強くなるかもな。なんだか雲の中に突っ込みそうだし。そろそろ部屋に戻るか。」
ヤツは策から離れ、フナキを促した。
「そうだな。俺も十分涼んだよ。」
2人がデッキからの扉を閉めると、待ち構えていたかのように小雨が降り出した。周辺には小さな波が立ち始め、空が明るさを弱めた。
部屋に戻ると、フナキはカバンから本を取り出して椅子の上で読み始めた。ヤツは窓のそばへ行き、外の景色を眺めている。先ほど降り始めた雨は水の粒を大きくし、窓に当たる音を作り始めていた。波も徐々に高くなり始めている。しかし船は波の揺れに動じることなく、大船のような安定感を見せていた。
ヤツがフナキの方を振り向いた。
「我ながらこの船ほんとすげえな。外が荒れ始めてるのに全然揺れねえぞ。」
「そうか?スタビライザーがうまく効いてるのかもな」
「さすが天才フナキが作っただけあるな!」
「スタビの所はお前も図面描いてたろ。それにさっきお前『我ながら』って言わなかったか?」
「冷たいな。せっかく褒めてやってんのに。持ち上げ甲斐がねーわ。」
「持ち上げてどうすんだよ…」
「別に?どんな反応するかと思ってよ。ほら、タマの奴はわかりやすく喜ぶからな」
「俺とあいつは違うだろ。」
ヤツは両腕を広げて肩をすくめた。
-----
「どうもねー。ごちそうさま。美味しかったよー。」
デザートを食べ終わり、ラオシは食器を返却口へ返した。自室へ戻る道すがら、船の外周通路を歩いていた。
「いや最高。さすが我が教え子の作ったマンタ号だわ。たらふく食べたのに全然酔わないよ」
ふと、海の方を見やった。強い風が吹き、雨が斜めに降っていた。なんとなく通路の柵にもたれかかる。
「は~…涼し。 …ん?あれは…?」
水平線の上に、平たい山のような薄暗い影が見えた。方角からして、本土の陸地だった。陸の影は、少しづつ大きくなっているように見えた。
「…? おかしいな。到着まではまだまだ距離があるはずなんだけどな。」
遠くに見える陸地を見つめていると、景色の角度が徐々に変わっていくように見えた。船が進行方向を変えている。陸から離れようと、潮の流れに抵抗しているかのようだった。
「風に流されてる?これ。ちょっと心配だな。」
ラオシは自室の前を通り過ぎ、客船の操縦室へ向かった。
ラオシは操縦室の扉をノックした。扉の窓の向こうからからラオシの姿に気付いた若者が、扉を開けてラオシを中に通した。
「お疲れさま。ありがとね。」
「お疲れ様です。」
若者はラオシに軽く敬礼をした。
ラオシが操縦室の中を見渡すと、船長が航海図の前で腕を組み顔をしかめて考え込んでいた。
「どーも、お疲れさま。」
ラオシに気付くと船長は表情を緩めた。
「ああ、ラオシ先生。この度はお披露目おめでとうございます。」
「どーも、ありがとうございます。おかげさまで船旅楽しませてもらってますよ。ところで、いま船の状態は大丈夫?なんだか流されてるみたいだけど?」
ラオシの言葉を聞いた船長はの表情は再び真剣なものに戻った。
「うむ。それなんですが。確かに今、この船はやや風に流されています。本来この海域は風や潮が陸から離れるように流れていて自然と沖に押し出されるはずなのですが、今日はなぜかいつもとほぼ真逆に流れているのです。先ほど流れに逆らうように修正をかけたのですが、このままでは目的地への進行が遅れてしまいそうなのです。」
「そっか。いま発動機の出力はどれくらい?」
「先ほど78%まで引き上げたところです。これで海流から逃れられればいいのですが…。風圧の強まり方からして、これからもう少し出力を上げる必要があるかもしれません。しかし、あまり発動機への負担はかけたくない所ですね。」
「そこはあんまり心配しなくていいよ。この船には『マーロ社』の最新式のやつを載っけておいたし。まあ、船を労わってくれるのはうれしいけどね。」
「ありがとうございます。ただ、もしこれ以上の出力増が必要であれば、船の揺れにも関わってきます。その場合はお客様にお知らせいたしますが、できればこのまま乗り切りたいところです。」
「船長さん大変だね。そうだ、ちょっと海図見ていい?」
「どうぞ。こちらです。」
ラオシは操縦室の中央にある机に向かった。腕を組んで海図を眺めるラオシに、船長が横から海図の中の一点を指さした。図の上には目印として小さな船の模型が置いてあった。
「現在『客船マンタ』はこの位置にいます。本来はもっと陸から離れて航行しているはずです。船首の角度はだいぶ南に傾いてしまっていて、本来の航行速度が出ていません。いつもこの海域では何も起こらないのですが…。」
「う~ん。なんか不自然だよねー。」
ラオシはしばらく海図を眺めていた。すると、船が引き寄せられている海域の近くの海岸線の形が、どこがでかすかに見覚えのあったことに気が付いた。そしてラオシは、真顔のまま船長に告げた。
「コレ、もう遠慮しないで全開にした方がいいかもよ」
-----
『本日は、客船マンタにご乗船いただきまして、誠にありがとうございます。お客様にお知らせいたします。当船は現在、強い潮の流れの影響により、航路から遠ざかっています。本来の航路へ復帰するため、しばらくの間増速を行います。船が大きく揺れますので、お立ちのお客様は予めご注意くださいますよう、お願い申し上げます。』
『繰り返しお知らせいたします………』
フナキとヤツは、船内の部屋の中で本を読みながらアナウンスを聞いていた。
「なんか騒がしいな。外の天候は確かに荒れてるけど、そんなにやばいのか?」
ヤツが窓の外を見てつぶやく。たくさんの雨粒が窓ガラスを叩く音がする。しかし、船は氷の上を滑るかのように揺れない。
フナキは読んでいた本から顔を上げ、荒れた窓の外を見る。
「うーん…船を揺らすほど増速するなら、出力を8割近くまで上げるはずだからな。この程度の時化でそんなに出力は必要ないはずだけど…」
船内アナウンスが終わって数分後、遠くの方から「ブオォォー」と唸るような低い音が聴こえ始めた。そしてフナキとヤツは部屋そのものが下から持ち上げられるかのような重力の変化を感じた。音と船の挙動が変わり、フナキは瞬時に勘づく。
「これって……、まさか、出力全開にしてるのか!?」
フナキは部屋の窓の近くまで駆け寄った。雨粒や波しぶきが、トビウオの飛行を見るかのように高速で横に逸れていく。まるで船が何者からか逃げているかのようだった。
「はっはっは!普段はおとなしいマンタさんも、本気を出せばここまでかっ飛ぶか。さすが俺たちの船だな!」
荒ぶる客船に、ヤツはケラケラと笑う。
「んなこと言ってる場合か。これは異常事態だぞ。設計上は台風からも逃げられるようにしておいたけど、それも50年に一度あるかないかの大きさの奴を想定してる。普通の台風ならわざわざ逃げなくても横切れるはずだ。いまこの海のどこかに……来てるんじゃないか?雲塊が」
客室はゆっくりとした周期で上下に揺れる。体の弱い者であれば、すぐにでも酔ってしまう揺れである。この走りは、もはや客船ではない。
「ちょっと操舵室行ってくる」
「俺も行くわ。」
二人は客室を出て、廊下にある手すりを伝い大きく揺れる船内を早足で歩いて移動した。
船内には所々に床に固定されたベンチが置かれており、何人かの乗客が大人しく座り、不安そうな表情で揺れに耐えていた。またある者は片手で手すりにつかまりながら、もう片方の手で器用に本を開いて立ち読みをしていた。中には荒ぶる船の揺れを面白がってきゃあきゃあと騒ぐ若者達もいた。幸いなことに、船内でパニックが起きている様子は無かった。
フナキとヤツは操舵室の前までたどり着いた。フナキが扉をノックすると、ラオシが二人の姿に気付いて中へ通した。
「ごめんね。ちょっと騒がしかったかな?」
ラオシは壁ぞいの手すりにつかまっている。
「一体何があったんですか。」
フナキはラオシに尋ねた。
「ちょっとやばい海域に入り込んじゃったみたいでね。普通ならこんなに飛ばさなくても大丈夫なんだけど、万が一を考えて早めに脱出してもらうことにしたんよ」
「『したんよ』って…先生が決めたんですか?」
「船長さんにお願いしちゃった。だってさ、そこの海図見てみなよ。船の位置ホントにやばいって。あ、ちなみに今模型があるあたりがさっき5分前に計算した位置ね」
ラオシは海図が広げられた中央の机を指差した。フナキとヤツが揺れる床の上をフラフラと歩き、机まで向かう。二人が覗き込むと、模型は予定航路の線を大きく外れた位置に置かれていた。そして海図上の海岸線からほぼ垂直方向に進路を取るように、船首は沖に向けられていた。ただ、海岸線からはだいぶ遠い位置にいるようで、決して座礁を起こすなどの危険が迫っているような様子は見られない。
「これのどこがやばいんだ…?」
ヤツは海図を見ながら首をひねる。
「あれ、前に話さなかったっけ?大昔の大きな沈没事故の話。今いるの、その現場近くの海域だよ」
「?」
ヤツは相変わらず首をひねっている。
フナキも、かつて勉強会の中で聴いたラオシの話を振り返ってみる。海図に描かれている、岸の形。大きな沈没事故。大昔の話………。
一つだけ、心当たりが浮かんだ。
「もしかして…、『沈船峡の悲劇』ですか?」
「そーそー、やばくない?発動機だって全開にしたくなるでしょ?」
フナキの言葉を聞き、ヤツも思い出す。
「沈船峡?……って、先生がおとぎ話みたいに語ってたあれですか?」
「そう、それそれ。いやー不思議だよねぇ。いつも岸から沖に向かって吹いてる風が突然真逆に吹くんだもんねぇ。不思議なんだけど、実際にあった話なんだよねぇ。」
ラオシは感慨深げに言う。
「そうはいっても、もう94年も前の話ですよね。俺にはただの伝説としか思えないんですけど」
フナキが言う。
「そう?一応今の風向きと潮の流れと雲の動きは完全に史実と一致してるんだけど?このまま放っといたら前の時の客船みたいに沈むよ?」
ラオシは操舵室の窓の外を指さす。フナキとヤツはつられて外を見た。
「ほらほら、雲塊が集まってきたよー。思った通りだ。あれにさえ巻き込まれなければ何とかなると思うんだけど…。」
客船マンタを挟むように、右から、左から、巨大な白い壁が迫ってきていた。
「…確かに、これはヤバいな。」
「ああ、『沈船峡の悲劇』だ。」
ヤツがつぶやき、フナキが応えた。