日常の崩壊 包囲網の影
突然だが、俺はごくごく真っ当なノンケである。女性が好きなのである。
付け加えるなら多感で健全な思春期真っ盛りの男子高生である。好きな子を作って告白して、告白されて、お付き合いしてみたければあわよくばエロいことだってしてみたい。そんな妄想だけたくましく膨らませるどこにでもいる男子である。
なぜこんな当たり前のことを冒頭で強調しているのか?
答えは単純明快である。現実はそんな普通の青春を謳歌することを許してくれなかったらだ。
日常というのは当たり前に享受しているものであり、だからこそ失われなければその有難さには気付けない。風邪を引いて寝込むことでやっと健康の有難さを痛感するのと同じように。
つまりは俺がやっとの思いで掴んだその日常は、とある同級生の一言から打ち砕かれたのだった。
そこから俺が得たのは普通では決して得られない青春譚であり、良くも悪くも俺の人生にとって大きな転換点となる体験の数々だった。どうかその顛末を見届けてほしい。
事の発端は高二の六月のある日のことだった。梅雨の真っただ中でその日は久しぶりの快晴だったこともあり、とても印象に残っている。
放課後になり、いつものように下駄箱を覗くと信じられないものが入っていたのだ。
『大事なお話があるので屋上まできてください』とだけ書かれた手紙だった。差出人の記載はなかった。当時そのあまりにアナログな手法に思わず思考停止しかけたのを覚えている。
このご時世にこんな方法での呼び出し!? ついに俺にも春が来るのかと! この際相手の顔とかはもう気にしないと! 人生で初めての、おそらくこれから起こるであろうイベントに心躍らせていた俺はなんだったのだろう。
屋上の扉の前で息を整え、落ち着いた振りをしつつ前髪をひとイジりし無意味に恰好つける。
目を閉じ、溢れる期待感を何とか押しとどめながら思い切ってドアノブを開けた。そして……。
「好きです。ボクとお付き合いしてくれませんか?」
そこに立っていたのは絶世の美女かと見紛う、いや元はほんとに女性だったはずの同級生の姿があった。西日に照らされたその姿はあまりにも鮮烈で、脳裏に焼き付いたものだ。
ああそうか。これが告白されるということなのか。
俺はこの日のことを一生忘れないだろう。それぐらいの衝撃だった。
「と、東条さん。でも君は……」
俺はそこで言葉を濁してしまった。
――男になったんじゃないのか?――
との言を寸でのところで飲み込んだ。それは彼女もとい彼、東条みさきにとってあまりにデリケートな部分だったからだ。
「ご、ごめん。急にこんなこと言われても困るよね? 気を使わせちゃったかな」
「いやいや俺の方こそなんかごめん……」
俯きながら目を逸らした東条にそれ以上言葉をかけられなかった。耳まで真っ赤になっているのは西日のせいだけでないことは明らかであった。よく見ればその目元には涙が浮かんでいる。彼にとっても一世一代の覚悟だったのだろう。
いやいやなんだこの状況は?? 人生でこれ以上に気まずい瞬間なんてないだろう。恋愛経験の浅すぎた俺にとっては異常なハードルだったといえよう。
時間にして数秒だったのだろうが体感的に永劫とも言えた、そんな静粛が辺りを支配する。なるほどこれが相対性理論かなどと現実逃避した思考が巡り始めていた俺はもう半分壊れていた。
「誤解のないようにこれだけ言っておくよ? 僕は不知火君を男として好きなんだ」
気まずい空気を打ち破る有難いはずのその一言は悲しいことに俺を救うものではなかった。これが普通の告白であれば「男として好き」などと強調はしないだろう。
つまりはそういうことだ。俺に僅かに残っていた逆転の可能性が潰える。
東条みさきは男子生徒用のブレザーこそ着こなしているものの、見た目は黒髪ショートカットの美少女に他ならない。目鼻立ちはくっきりとしており、ノーメイクだとわかっていても作り物のような造形は、触れてはならないような儚さすら纏わせている。
だが男なのだ。元々彼は所謂性同一性障害を抱えた女性だった。転換がいつなのかはっきりした時期はわからないが彼は男子生徒としてうちへ入学していた。自分の出目を隠すことなくあっけらかんと周りに吹聴し、自らネタにすらする様は格好良く思えたものだ。そんな性格もあり、何より華があった彼は異性同性問わず人気があった。
ちなみに俺は別段彼と仲が良かったというわけでもない。一年の時はクラスが別だったし同じクラスになったこの年にしても挨拶を交わす程度で一緒に遊びに行ったりした記憶もなかった。
「その、なんていうか。好意は有難いんだけど俺……女性が好きなんだ」
俺にとっては当たり前の事実を口にした。彼の覚悟の強さが何となく察せられたからこそ言葉に窮し、歯切れは悪かった。彼が望む関係は男同士としての恋愛なのだ。LGBTに偏見はないが特殊過ぎる案件なのは確かだ。
「そう……だよね。ううん。わかってたよそれは。ああもう! そんな申し訳なさそうな顔すんなよ~」
そんな俺を逆に慰めるように東条はニカっと破顔しながら近づいてきて肩に手を回してくる。
「こんな美少女、じゃなかった美少年を振るなんて後悔するぞ~?」
そのまま頭をくしゃくしゃにされる。俺はというと正直その行為にいくらか救われていた。
「自分で美少女言うなや!」
突っ込みつつ抱擁から脱出し、改めて東条と対面する。
「その、なんだ。今まで通りってことでいいのか?」
襟を正しつつ真剣な表情で確認する。
「今まで通りっていうのはお友達ってこと?」
「まぁそんな感じだ。同級生だし気まずくなんのもアレだろ」
「いいよ。不知火君がそれでいいなら君はそれでも」
ヘヘっと鼻下をこする様は強がっているようにも見えた。いやこれこそが彼の強さなのだろう。
「じゃあ僕、もう行くね?」
「ああ」
東条は屋上の出口へと踵を返した。その後ろ姿がなんとも儚げで思わず声をかけそうになるが踏みとどまる。少なくともこのとき俺がすべきことではなかったからだ。なるほど振る方だってつらいなんて言葉は詭弁でもないらしい、と。胸の奥でどこかチクリとする感覚は新鮮だった。
また明日な、と心の中で呟いたその時だった。
「ああ、そうそう」
東条はなにか思い出したかのように空を仰ぎながら立ち止まった。不思議と気配が変わったような気がした。
突然くるりと振り返ったかと思えば俺に向かって直進してくる。無表情過ぎて怖い。
どうかしたか? と聞く隙もなく強烈に腕を引っ張られたことで前に屈む形になり、ちょうど東条の口元が俺の耳に触れるか否かの態勢となった。
「僕は諦めるなんて、一言も言ってないからね?」
「なっ!?」
刃物でも突き付けられているかのような悪寒。間違いない。この男は危険だ。やばい類のヤツ。一方の手では俺の腕を掴み、もう一方の手が俺のケツを鷲掴みにしていた。正気の沙汰ではない。
さっきまでのセンチメンタルな空間が嘘のように、一帯が凍り付いていった。
「ふふっ、じゃあまた明日ね。アキラ、君」
乱暴に俺を開放した東条に、先程まで纏っていた儚さはなかった。猛獣のようなその双眸は俺の股間を捕らえて離さない。ややあって満足したのか高笑いしながら今度こそ本当に帰っていった。
そうして屋上に一人取り残された。傾きを強くした西日が俺の影を大きく引き伸ばしていく。
「嘘だろオイ……」
現実が受け入れられなかった。あんなに好青年だった東条がマキャベリストよろしくどんな悪事にも手を染めかねないサイコ野郎に転生してしまったのだ。
この時点でなぜ確信があったかというと俺はあの目を知っているからだった。
そうか。学校にさえ俺に安息の場はないのか、と。少しずつ目の前が真っ暗になっていったのだった。
………………。
…………。
……。
「ただいま」
その日、絶望に打ちひしがれながら帰路を終え、玄関の扉を開けた。
「ああ。兄さんお帰りなさい。今日は遅かったんだね?」
上がり框に腰かけて靴を脱いでいるとリビングからパタパタとスリッパの音をはためかせながら接近してくる影。弟の進だった。頭にバンダナを巻き、エプロンをつけたままお玉を片手に握っている。
「いい匂いだな。今日はカレーか?」
「あと10分もあればできるよ~。お風呂も沸いてるから先に入っちゃってても……」
ようやく靴が脱げたところでカラン、と。おたまが床に落ちる音がした。
「どうした進?」
座ったまま振り返ると進が顔を臥せながらブツブツと独り言を唱えていた。やばい兆候だった。
「……女の、臭いがする。兄さんの……上着から」
「女の? いやいやそんなわけ」
いやあるのか。東条は見た目は女そのものだ。先程も女性特有のいい匂いがしたのは事実だった。
「どういうことだよ兄さん!!」
普段穏やか極まりない進が激昂する。そうだ。そうなのだ。俺はこの目を知っているのだ。
「なんでそんな意地悪するんだよ。俺が大きくなるまでは傍にいてくれるって約束したじゃないか!!」
「わ、悪かったよ」
進の小さな体を軽く抱き寄せてやった。昔からコイツはこうしてやると落ち着いてくれるのだ。
「そのくっさい服を着たまま俺に触れるな! 早く風呂に入ってきてよもう!」
「まいったなこりゃ」
ドカドカと足音を立てて怒り心頭のままリビングに帰ってしまった。すでに先ほどの主人の帰りを迎える子犬のような可愛さは皆無だった。
我が家には父親がいなかった。母親は仕事でいつも遅くまで帰ってこないため、家事能力ゼロの俺は進に頼り切っていた。なのでこうしてへそを曲げられてしまうと不知火家は立ちゆかなくなってしまうのだ。
父親に捨てられたと感じている進は昔から残された家族に依存的だった。何かのきっかけで自分の元を離れていってしまうのではないか、との不安を常軌を逸した強さで抱えてしまっていた。特に父親がいなくなった理由がよそで女を作ったからだと知ってからは俺の異性との交流にやたら干渉してくるようになってきたのだ。
そういう経緯もあって進には強く出られなかった。理不尽に感じることも少なくなかったが、なにより俺にとっても進はかけがえのない可愛い弟なのだ。
頭を抱えながら俺は再び靴を履くとご機嫌取りのためのアイスを買いにコンビニまで走ったのだった。
この一日をもって俺が望んでいた日常は終わりを告げた。ここから何とか挽回していくのが俺の高校生活の目的であり、青春譚の着地点でもある。
トランスジェンダーホモ、ブラホモ(ブラザーホモ)、そしてガチホモ、+αに今後包囲されることになる俺はそれでもその中で淡い恋歌が聞こえてくることを待ち続ける……。