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一瞬、七尾梢の言った言葉の意味がわからず、勇斗は言葉を失った。
ゆっくりと彼女の言った言葉を頭の中で繰り返す。
(今、何を言った?)
勇斗は改めて梢に向かって口を開く。
「今……何を? 僕が……僕が妖かし?」
「そうです。つまり、あなたが『夢憑き』」
「僕が? は……何を言ってるんだ?」
「しかも、あなたはそれを自覚していない」
「自覚していない?」
「だからこそ、私はあなたがその妖かしであることを特定するのに時間がかかってしまいました」
「違う……僕じゃない。君だ。君が僕たちの前に現れてからだ。君が現れてからこの世界はおかしくなった」
「あなたはこれまで何度も私をこの世界から排除しようとした」
「排除?」
「あなたも先日、その目で見たはずです。大きな虎が私を襲うのを」
「あ……あれは……」
「あれはあなたがやったことです。きっと無意識のうちにやったことなんでしょうね。私がここにやってきた時、すぐに私もその力に取り込まれてしまいました。それでも少しずつ少しずつ私の力でそのものの力を消し去ってきたんです。だからこそ、尚子さんは自分の身体に違和感を持つようになってきたんです」
「そんな……」
梢の言っていることを、勇斗はまだ受け入れることが出来なかった。「でも、その妖かしがどうして僕だって言えるんだ?」
「では、あなたはどうしてここに来たんですか?」
「どうしてって……」
「私がここにいることをあなたは知っていましたね」
「それは……」
「なぜなら、あなたこそがこの世界の支配者だから。だから、この世界のことをあなたは本能的に知っている」
「僕が支配者?」
「現実の世界で尚子さんは事故に遭いました。そして、右足を失って走ることが出来なくなったところをあなたが取り憑いたんです。あなたの力のため、この世界の尚子さんは足を失っていない。だから、絶望も感じていない」
梢の目に力が宿る。あの白狐の力がその目から自分に注がれるのが感じられる。途端に自分の周囲に張り巡らせていたものが剥がれ落ちていく。
(ああ、そうだ)
勇斗は自ら封じてきたそれを思い出す。
七尾梢の言ったとおり、自分は人間の見る美しい夢の中に棲むことを生きがいとする者だ。
彼女の走る姿を美しいと思ってきたのではない。自分が美しいと思っていたのは彼女の夢だ。彼女の夢は幼い頃から美しかった。そして、それは成長するに増して強くなっていった。
しかし、彼女が事故に遭ったことで、その夢が消えていくことを恐れた。それを守るため、自分は彼女の意識を夢の中へ閉じ込めたのだ。
そうしなければ、彼女の夢が……彼女自身が消えてしまうような気がしたのだ。
勇斗は大きく息を吐いた。その表情はさっきまでのものとはまるで違っている。
「そうか……おまえは七尾の白狐か」
相手の妖力を吸いつくす、それが七尾梢の持つ力であることも今の自分にはよくわかる。
「やっと思い出しましたか?」
「聞いたことはある。でも、ずいぶん遠回りなやり方をするんだな。七尾の白狐の力は俺よりも数段強いはずだ。その力を使えば、この夢の世界などすぐに壊せるだろう」
「それは尚子さんの精神に負担が大きすぎます」
「それなら放っておけばいいじゃないか。現実なんて彼女を苦しめるだけだ」
「そうですね。確かにあなたは尚子さんを助けようとしたのかもしれません」
「なら、このままでいいじゃないか」
「でも、現実世界の尚子さんは眠り続けたまま。それは現実から目を背けること。決して尚子さんのためにはなりません」
「目を覚ませば苦しむことになる。このままでいるほうが彼女は美しい夢を見続けられる。現実とか夢のなかとか、そうこだわる必要ないだろ」
「現実を知れば、尚子さんはショックを受けるでしょう。悲しむかもしれません。苦しむかもしれません。でも、それだけじゃありません」
「それだけじゃない?」
「あなたは尚子さんの夢を愛した。だからこそ、この世界に取り憑いたのではありませんか?」
「そうだよ」
「夢というのは現実があって初めて成り立つものです。現実の沿わないこの世界では、私が邪魔しなくてもいずれ矛盾で歪んでいきます」
「矛盾?」
「この世界は尚子さんにとって都合の良いものを切り貼りしただけ。それならあなたが操る夢ではなく、彼女自身に本当の夢を取り戻してもらうべきじゃありまえんか」
それはわかっていた。以前にも同じようなことがあったからだ。だが、今の尚子に今以上の夢など見れるだろうか。
「もう夢など見れないだろう?」
「大丈夫。尚子さんはそんな弱い人じゃありません」
梢の言っていることはすぐには理解出来なかった。尚子にとって走ることは、子供の頃からの大きな夢であり生きがいだ。それを失った者が、その夢を失った者がどのように生きていけるというのだろう。
だが、梢は確信を持っているようだ。
「どうすればいい?」
「彼女を目覚めさせてあげてください」
「それだけ?」
「それだけです。あとは彼女を信じてください」