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4−6

 

「おかしくなってしまった私のことを誰もが冷たい目で見たわ。私にはもう、声の発し方すらよく分からなくなっていたから。言葉の選び方なんてもってのほかだった。正しい答えはもう与えられなかった。ようやく、ようやくよ。覚え直した頃にはもう……学校にいられなくなっていたの。親も先生も友達も、『おかしくなってしまった夜迷硝子』を忘れなかった。あるいは、うまく取り繕えるようになったと思っていたのは私だけで、存分におかしなままなのかも」


「療養かしら。隔離かしら。どっちだっていいことね。私がこうしてこの町に来てしまったことは変わりない。……でも、私の着るべき制服はこのセーラーだけだった。私の通うべき学校はあそこだった。何度も校門まで行って、何度か中にまで入って、思い知る。『ここじゃない』って。私もう、絶対に、あそこには戻れないのに」


「未来が完全に見えなくなったわけじゃない。うまく見えないなりのやり方にも少しずつ慣れてきた。でも、それでも。私の見てきた未来はこれじゃない。今までまずっと待ちわびていた未来は、これじゃなかった」



 語る夜迷は眉ひとつ動かさず、ただ言葉を機械的に羅列する。

 夜迷のゆらぎは全て、それも含めて素の彼女だったのだろう。

 駐車場の小さな塀に腰掛ける夜迷の前に立ち、俺は何も言わずに聞いていた。


「あなたを見つけたのは夏休みが終わった頃。……ええ、私はケイトを笑えはしないわ。同じね」


「同じだと思ったの。私と、あなたが。学校に行けないことが。町を彷徨ってすらどこに行けばいいのかわからないことが」


「でも違った。違うの。ごめんなさい、あなたのことを否定してるわけじゃない。否定してるのは私。私はあなたにはなれないこと」


 ……夜迷の言っていることが正しく理解できている自信はない。だけどその意図はなんとなくわかっている、そんな確信があった。


「俺はきっとどこでだってなんとなく生きていけるんだ」

「あなたはきっとどこだって居場所にしてしまえるんだわ」



 一年前、俺が思い描いた未来は潰えた。

 あいつといつまでもうまくやっていく、そんな些細な未来だ。

 それでも今はずっと続かないことを知った。

 そして俺は、どうあがいてもそのことを平気にしてしまう人間だと思い知った。

 学んだのはこれだけ。

 人にはそれぞれの思いがあって、それをどうにかできるなんて思い上がったことは許されないのだということ。


 大人になるということはきっと、見て見ぬ振りをするということなのかもしれない。それは言い換えれば、黙って見守るということだ。

 無力を、身の程を思い知ることが大人になるということ。

 あの日知ってしまった。俺は、無力を、身の程を。

 所詮自分なんかに何も変えられはしないのだ。

 このまま碌でもない大人になる。

 なんて。

 本当はそんなわけがないのに。

 大人というものが、そんなものであっていいはずがないのに。


 大人とはきっと『未来が見えている』人間のことを言うのだ。

 振り返らず、ただ真っ直ぐに、見えている未来に向かって走っていける人間のことを。

 泡音のように。

 茨乃もきっと、同じことができる。

 それが憧れた大人の形だ。


「……本当に、ろくな大人になれそうにないな」


 夜迷の言った通りだ。

 まだ六年あるというのに。すでにもう、そんな気がして仕方がなくって、この先の六年をどう過ごしていけばいいのかわからない。

 俺はきっと最初から最後まで、わからないまま大人になる。

 六年はきっと、それを認めて諦めるまでの猶予だ。

 でも夜迷は違った。

 彼女にはこの先の六年をどう生きればいいのか、わかっていたはずだった。

 正しい大人のなり方を知っていたはずの彼女はきっと誰よりも一足先に大人になっていて、そして、それを失った。

 未来を、正しい大人へのなり方を、道筋を。


「俺に話して、よかったのか」


 俺と夜迷は一定の距離を保っていたはずだった。保てていたはずだった。


「よくないわ。でも……知りたくなった。見えなかった。あなたは私になんて言うのか」

 

 夜迷の目が薄暗い好奇心に満ちる。

 悪趣味だった。

 けれどそこに、悪意も敵意もないのだろう。

『あなたに私はわからない』と突きつけられているようだった。

『見つけて欲しいなんて思っていない』

 それが彼女の答えだと知る。

 迷う。

 何かあるんじゃないかと考える。

 俺が、俺だけが言えるような何かが。


「……言えないよ」


 そんなものはなかった。


「だって俺は、夜迷にとって都合の良い友達でいたいから。夜迷の求める言葉なんて吐けない。夜迷は、何も求めてないように見えるから」


 俺が考えつくのは、夜迷がきっと言われたくないだろう言葉だけだ。薄っぺらで耳障りだけがいいようなそんな言葉。


「誰にも、何も、言って欲しくなんかないだろ」


 だって、誰ひとり夜迷をわかってはあげられない。

 魔女じゃなかった俺たちは最初から正しい未来を持ってはいない。

 それが当たり前で、それが正しくって、だから、夜迷の嘆きを理解することなどできない。

 理解したとしても、夜迷自身がその理解を受け入れることはない。

 焦げ付いたトーストが炭を削ぎ落としても苦い風味を滲ませるように。

 一度大人になってしまえば、もう二度と子供にすら戻れない。

 誰よりも早く、迷わず揺るがず大人になって、なれるはずで、そしてもう二度となりたかった正しい未来を手に入れられることはない彼女に、寄り添える言葉があるとしても。

 俺は、そんな『理解』なんて好きにはなれない。


 夜迷は目を見開いた。

 白い肌に血がのぼる。

 青い唇が震えだす。


「ああ、そっか私…………言われたくなかったんだ」


「みんな未来が見えないまま頑張っているんだ、とか」

「うん」

「今までのあなたは生きているフリをしていただけ、とか」

「うん」

「この先の未来も捨てたものじゃないよ、とか」

「うん」

「いつまでそうしているつもりだ、とか」

「……うん」

「なにも、なにも知らないくせにわかった顔で正しいことなんて……そんなの私にだってわかってるんだから」


 堰を切る。

 夜迷の掠れた悲鳴をかき消しそうな風の音が鳴る。


「誰にも何も言って欲しくなかった……! 私自身にすら、言われたくなかったの……っ」


 それを聞いているのが俺である必要はひとつもない。

 たまたま、ここにいたのが、いられたのが自分であるだけだ。

 最初から何ももたない俺は最初から何もかもを持っていた夜迷に寄り添えない。

 吐き出した言葉も全て、彼女だけのものでしかない。

 夜迷が喪った未来を数えるのを、俺はただ頷きながら聞いていた。


 いつかと同じように、いつものように、校門をくぐらないまま町を彷徨い時間を食い潰し、迎えた無為な夕暮れの中。

 スカートに雫を零し続ける夜迷の隣に腰掛けて、遠くを眺める。


 たとえどんなに些細でも、ありふれていたとしても、誰にも渡したくない悩みが誰しもひとつくらいはあって。

 この時間の価値を決められるのは、知っているのはいつだって自分だけだった。

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