4−4
秋はいつのまにか過ぎ去っていた。
冬はいつだって気が付かないうちに訪れる。
夜迷が消えたあの日から、俺は彼女に会えなくなっていた。
あの日出会った夜迷と同じ制服の彼女たちとは一言も交わすことはなかった。
夜迷が逃げ出した事情は彼女たちに聞けばわかったのかもしれない。だけどそれはすべきことじゃないと、思った。
別段、会えないことは珍しいことではなかった。
野良猫のような彼女と規則的に出会えないのは当たり前のことで、俺が会いたいと思ったら彼女のほうから現れる。会いたいと思わなくても必然性のもとに彼女はいる。
会いたいときに現れることができるというのは裏を返せば絶対に会わないようにすることもできるということだなんて、今更だった。
彼女は、未来を見透かす魔女だったのだから。
泡音や茨乃、栞姉と少し話をして、保健室の年季の入ったソファに腰掛け床を見つめる。
色々と考えていた。これからどうするべきなのか。
「探さないんですか?」
隣に座った茨乃が言う。
俺は返事をしなかった。
「探したくないんですか?」
俺は黙って首を横に振った。
茨乃が小さく溜息を吐く。
「先輩が部活を作ろうとした理由、聞きました。硝子さんのためですよね。そのくらいの、友達なんですよね」
顔を上げた。小さな茨乃が俺の顔を覗き込んでいた。
「だったら探さない理由なんて、ないでしょう?」
その言葉は正しい。
正しいけれど。
「ごめん」
どうしてか、頷けなくて。
俺は保健室から逃げ出した。
◇
乙浦先輩が保健室から出て行くのをあたしは眺めながら、どきりとしました。
何か傷つけることを言ってしまったのではないか、と途端におそろしくなります。
あたしは普段から先輩に甘えて、結構、失礼な口をきいてはいましたがこれでも自分なりに考えて、傷つけることはないようにと思っていたのです。
気落ちするあたしの側に、栞先生がやってきました。
「あのこが学校をサボるようになった理由を知っている?」
あたしは横に首を振ります。
栞先生が先輩のことを『あのこ』と呼ぶ時、それはここにいるのが『先生』ではないときでした。
「理由はないんだよ。学校に行かない理由なんてない。あのこは学校が好きだと言える側の人間だよ。私たちなんかとは違う。保健室なんていう学校の中の、安息の地でしか呼吸できないような人間とはね。だから私は、大嫌いな学校に戻ってきた。あの頃を逃げ場を守ることが大人になった私のやるべきことだと思ったから」
「先輩があちら側の人間なのは、わかります。あたしに話しかけてくるような人でしたから。必然性や蓋然性がなくても人に話しかけられる人間でしたから。学校に行かない理由がないと聞いて、安心すらします」
「……ああ、でも。理由はなくてもきっかけはあったんだよ」
先生はボールペンを弄びます。大学時代でぽっきりやめた煙草を引きずっているのだと、いつか言っていました。
「仲良くなったのは入院中だったね。どうして入院したのか、知ってる?」
「自転車で転んで骨を折ったと……」
「その通りだよ。でも、どうして転んだのかは知らないでしょ」
◇
保健室から逃げ出して、俺は上履きのまま校舎を出る。
風はすっかりと冷たく、空は夕暮れの予兆を見せ始めている。
一年前の俺ならどうしたかはわかりきっていて、そして、どんな結果をもたらすのかも一年後の俺にはわかっていた。
一年前に去った親友のことを、思い出す。
ぱったりと学校に来なくなり、そのまま引っ越していったあいつのことを。
学校に来ることに理由が必要だなんて思ったことはなかった。
だから、学校に来ないなんてことが本当にあるのが当時の俺には理解できなかった。
納得がいかなかった。
力になりたかった。
話して欲しかった。
だってそうじゃないか。
俺は友達だったんだ。親友だと、思っていたんだ。
分かり合える、分かち合える、理解し合えると思っていた。
まっすぐにぶつかれば思いは通じると、伝わらないことなどないと、どうにかできないことなどないと信じていた。
だけど。
『お前に何がわかるんだ』
軽蔑するように吐き捨てられたのを覚えている。
『お前に何ができるんだよ!』
悲鳴のような怒声を覚えている。
あいつは拒絶し、二度と学校に来ることもなかった。
後で知った。
あいつがあの頃、複雑な家庭の、何かを抱えていたらしいということを。
無作法な大人が無遠慮な噂話をしているのを聞いてしまった。
その噂話すらも、はっきりと要領を得なかった。
そして気づく。
あいつは誰かにわかってもらうことを望んでいたんじゃなくって、誰にも触れられたくなかったんじゃないかと。
必死で隠そうとしたんじゃないかと。
もう確かめようもないけれど。
このまま終わらせちゃいけないと思った。
せめて一度、一度謝らなければと思った。
あいつの引っ越しの日に俺は、自転車を漕いであいつの家に向かっていた。
時間がなくって、坂道でブレーキを踏むことすら惜しくて、きっと周りの何もかもも目に入ってはいなかった。
ぶつかりそうになった誰かを避けようとして自転車から落ちたらしい。
どこが痛いのかも分からないような痛みの中、何が起こっているのかなんてわからなかった。
わかっているのは、俺が間に合わなかったということだけだった。
退院して、学校に行くはずの初日。
校門が見える最後の曲がり角で踵を返した理由は分からない。折れていたのが足だったらもしかして、そんなことはしなかったのだろうか。
校舎に背を向け逃げ出して、当て所なく街を彷徨い、とっぷりと日が暮れてから家に帰ったあの日。
初めて自分で学校に行かないことを選んで、けれど俺はやっぱり、何ひとつ変わらなかった。
本当はわかっている。
あの時間に合ったとしても、謝れたとしてもきっと、何ひとつ変わらなかった。
俺はもしかすると最初からあいつの親友なんかじゃなかったのかもしれないし、謝ったって迷惑なだけかもしれなかった。
間違いはあいつの、あいつだけの悩みに踏み込もうとしたこと。
そんな資格はないのに。
そう、わかっているのに。
夜迷を探しにいく、なんて資格はないのに。
なのに、俺は学校から出ようとする足を止めることができなかった。
◇
夜迷のことをわかっていなかった、と言った。
泡音は筆を置いてゆっくりと口を開いた。
『ひとりになることは、わるいことかな』
『わかるとか、わからないとかが、よくわからない』
『……わかりあわなくちゃいけないのかな』
『じぶんだけのものにしたい、そういう……なにか、言葉みたいのはきっとあるよ』
◇
俺はなにか間違えているのだろうか、と言った。
茨乃は本を開いたまま天井を見上げた。
『間違い、ですか。わかりません。もしかしたらなにもかも間違いだったのかも。あたしと先輩が見ていた硝子さんがまったく別であったように。あたしの考えていたつるぎさんと、そのもののつるぎさんが違っていたように』
『……つるぎさんがこんなことを言ったんです。誰も彼もが普通なんだって』
『あたしはすごく、納得して。ていうかさせられて。だけどやっぱり、あたしはおんなじことを反対に考えることにしました。あたしとつるぎさんは違う人間ですから』
『きっと誰もが特別なんです』
『そうでれば普通のために作られている世界なんてものは、特別な誰も彼もにとっての世界でもないことになるでしょう?』
『……硝子さんの特別も、そんなふうにありふれたものだといいのですが』
◇
どうしたらいいんだろう、と言った。
栞姉は棒付きキャンディーを煙草のようにくゆらせた。
『大人はね、どんなにきみたちの味方になりたいと願ったって本当の意味では叶わないのさ』
『私たちはどうしたって、自分がきみたちと同じであったことを忘れてしまっている』
『昔の自分が愚かだったから、と。きみたちもそうであるかのように考えてしまいそうになるんだよ。もしかすると、もしかして。愚かなのは子供じゃなくなってしまった私達のほうかもしれないのにね』
『できもしない綺麗事を吐かなくちゃいけないのが子供に戻れない大人のつらいところ』
◇
本当は。
このまま放っておくのが正解なのかもしれない。
ある日ひょっこりなんでもないような顔をしていつものように胡散臭く笑って現れるのかもしれない。
泡音の抱えていた『なにか』も茨乃が抱えている『なにか』も俺は知ることなく、知らないままで良いとすら思っている。それはきっと、それぞれだけのものだったから。友達だからなにもかも話すなんてばからしいと思ってもいる。
でも俺はまだ、確かめてないんだ。わからないんだ。
夜迷がほんとうに、ひとりであることを望んでいるのか。
それだけをどうしても知りたかった。
確かめたいと思ってしまった。
だって俺は、夜迷の『共犯者』だったから。
一度だけ、一度だけにしよう。
夜迷を探すのはこの一度だけだ。
暮れる空の金星に願いをかける。
許されるのなら。
許してくれるのなら。
どうか。
君の話を、聞かせてくれ。
……黙って、置いては行かないでくれ。




